第二章 暖かい宿の中で(7)
寝ているうちに汗も乾ききって身体も冷えきっていた。
「ん~~ うぅ寒い」
鼻水が溜まって鼻腔の奥をくすぐっている。次の瞬間、くしゃみが止まらずに五回ほど連続で出た。
今度は慌てて冷房を暖房に切り替えた。
まだ頭が重く歩くだけでフラフラするので、おでこを触るとさっきよりも熱が上がっている感じがする。熱冷ましの薬なんて持ってきてないよぉ。頭を抱えながらうずくまった。それはそうだよね、旅行にわざわざ病気の薬を持ってくるなんて変だよね。
お風呂も入らないといけないし、これは困ったなぁ。酔いは完全に覚めているのでさっとお風呂に入ってしまおう。
着替えやタオルを準備して足早に地下一階にある大浴場に向かった。
「はぁ~、寒い」
脱衣所で服を脱ぐとさらに寒くて一気に体温が奪われて身体が小刻みに震えだした。早く温泉に浸かって温まりたい。
意外と広い浴場には三人ほど入っているだけでガラリとしていた。
とにかく身体が震えるほど寒いので、洗い場に座ると頭から温かいシャワーを浴びて体温が逃げていくのを防いだ。でも、シャワーだけでは身体の表面しか温まらない。
目を瞑りながら顔と身体を洗い終えて、やっと温泉に浸かるとじわじわと身体の芯まで温かさが伝わってきた。
ふわぁ~~っと全身の力が抜けていく。
しかし、さっきまでのお湯の温度が段々とぬるく感じてきた。何故だろう、温かいはずだけど。一番熱いであろう温泉が流れてきている場所に肩まで浸かりながら移動してみた。
「あぁ、温かい」
でも暫くすると、またぬるくなってきた。体感的にぬるま湯にずっと入っている感じなので湯船に浸かっていても身体が震えてきた。寒い、どうしよう。もう部屋に戻ろうかな。
これ以上は入っていられずに脱衣所に駆け込んだ。
「はあぁー、なにこれ、寒すぎ」
脱衣所はまるで宿場の外のように寒く、身体だけでなく奥歯も震えてカチカチと鳴っている。いつもの倍のスピードで身体を拭いて、洗い髪もそのままで大浴場を出た。
階段を上る時に思いついて、受付で薬を貰えないかと足を運んでみたが、あいにく時間帯が遅くてもう閉まっていた。
二一五号室へ戻ると、すぐにジャケットを羽織ってドライヤーで髪を乾かしていた。その間も身体の震えは止まらないし、頭もガンガンと鈍い痛みが続いている。耐えがたい寒さが続いているのでジャケットを着た上に掛け布団をかぶる事にした。こうやって震えが止まるのを待つしかない。せっかくの旅行なのに発熱でダウンなんて最悪、と布団の中で嘆いた。
早く熱が下がってくれれば良いけど。もし熱が出ていても明日は帰るだけなので我慢して何とか帰ろう。今はひたすら耐えるのみ。
今日はちょくちょくと昼寝をしてしまったのですぐに寝入るのはやっぱり難しいかな。熱っぽい症状があったのに寒いかまくらツアーに参加したのが悪かったかな。それに帰ってきてから冷房をつけたまま寝ていたのも良くないね。今から思うと熱がひどくなる原因だらけだ。
体温計が無いので正確な体温は分からないが、この寒気から三十八度以上はありそうな感じだ。
「助けて…… チャロ」
チャロと遊んでいた時の事を思い出して、願うようにチャロに語りかけた。いつも元気なチャロ。その元気をもらっていた私。
でも…… チャロだって辛い時あったよね。体調が悪い時あったよね。会いに行くといつでも尻尾を振って喜んでくれる。体調の悪い時も私に心配かけない為に元気に振舞っていたと思う。
チャロの事を気付いてあげられなくてごめんね。もっともっとチャロの事を誰よりも分かってなくてはいけなかったのに。
就職をしてから何故、そこまで気が回らなくなってしまったのだろう。
私は一つ思う事がある。
仕事が忙しくて心を疲弊させた上司や先輩が絶対悪だ。あんな心の腐った人間が嫌い。他の会社でもそんな人間ばかりなのだろうか。でも、人間がいるかぎり同じに決まっている。人に仕事を振って怠ける人間がいる構造は変わらない。だって人間なのだから。
怠ける上司や先輩がいるこの世の中が原因。それともこんな世の中で気が回らなくなった弱い心を持つ私が原因?
いいえ、どんなに気力の大きな人間でも心が亡びるような事をさせるこの世の中が絶対に悪い。だから私はこの世の中が嫌い。何でも世の中のせいにするのは簡単な事だけど、悪しき人間が作り上げたこの世の中が根源だ。
チャロはずっと待っていたのね……。
私が感じる時間の長さよりももっと長い時間の中で。
チャロに会いたい…。
今、チャロは何処にいるのだろう……。
何度も何度も考えた事。
チャロと暮らしていた頃まで時間を戻せないかな。もう一度あの頃に戻ってチャロを病気から救いたい。
ペットに対する感情も無く利得主義の悪質な犬病院になんて連れて行かずにちゃんとした所で診察と治療をしてあげたい。そうすればもっと長生きできて苦しむ事は無かったのに。
近所の迷惑なマンション建設工事のうるさい実家から静かで落ち着く場所へ一緒に移り住みたい。どれほどのストレスを与えていたのか、どれほど迷惑を掛けていたのか。それを思うと腹が立ってしかたがない。もっとチャロの事を気付いてあげなければいけなかったのに。
発熱の苦しみだけではない、チャロへの申し訳ない気持ちが私の心を苦しめている。しかし、私の心をどんなに苦しめても自分への戒めとして受け入れていかなければならない。もしあの世に行ったらチャロに会って必ず謝ろう。
布団の中で滝のような汗をかきながら涙を流していた。
*
一筋の光が差し込む薄暗い空間に小さな一粒の雫がすーーーーーっと水面に落下していく。雫が落ちた場所にできた波紋が水面に綺麗な円を描いてゆっくりと広がり徐々に弱まって消えていった。
長い静寂が続いて再び小さな雫が落ちていく。
その雫は私の瞳から零れた悲しみの涙だった。
チャロが亡くなってからずっと心の中で涙が流れている。
どこまでも続く水面に溜まっていく涙。
私はこれからも涙を流し続けていく、枯れる事なく。
大切な存在を失う悲しみ。
現実で傷ついた心の痛み。
その度に涙が零れ落ちる。
差し込んでいた仄かな光が徐々に弱まり辺りは暗闇に包まれていく。
涙の湖は再び静寂が続き、存在さえも消されたかのような暗闇に支配されていった。




