第二章 暖かい宿の中で(5)
チャロ…… 突然すぎて私には理解できなかったよ。
宿場のベッドの上でチャロの事を思い出して涙が止まらなくなった。チャロは今でも私の心の中で生きている、そう思って今も生きている。でも、いつも後悔と怒りが湧き上がって心を苦しめる。
何故、チャロが倒れた時に最終電車に間に合わないからというだけで実家に行くのを諦めてしまったのだろう、タクシーに乗ってでもチャロに会いに行けば良かったのに。
チャロを診た犬病院も吐血しているのに点滴で済ませるなんて絶対におかしいと思っている。
手術なんてできないから?
チャロは治ると小さな犬病院を信じていたのに。チャロを見殺しにしたのと同じよ。
何故、もっと手術のできる大きな犬病院に運んでくれなかったのだろう。自分の所で手術できないのであれば紹介してくれたら良かったのに。
何故、会社の上司の出社命令を守ってしまったのだろう。チャロの命の方が大事だからそんな命令は無視してでも実家に帰れば良かったのに。
自分にとって大切な存在が亡くなっても無理やり働かせる無情なこの世の中。
自分にとって大切な存在が亡くなっても悲しむ時間さえも奪うこの世の中。
私はそんなこの世の中が嫌い。
実家の隣に建つマンションの建設工事の影響でチャロは病気になってしまったのだと思う。あんな振動と騒音が毎日続けばストレスが溜まって病気になってしまう。
チャロは殺されたのと同じよ。
チャロが今も生きていたらどんなに幸せだろう。
何故、私だけが生き残っているのだろう。今まで何度も何度も心の中で考えては苦しんできた事。
ICレコーダを再生すると、さきほどのツアーで録音した声が入っていた。
「チャロに会いたい、そう願ってこの峠を越えれば叶うかな……」
私の願いは叶わないよね。
袖で涙を拭いて、大きく溜息をついた。心の奥に仕舞ったチャロの辛い思い出と向き合う時がいつか来ると思っていた。仕事が忙しくて心を亡くしている時はそれを避けていたに違いない。今回の旅行で心が休まったからか、あちらこちらでチャロの思い出が何度か出てきた。そして、チャロが亡くなった時の思い出と対面した。
私は理不尽で無情なこの世の中は嫌い。
まだ思い出をちゃんと受け入れる事はできない。
チャロに会いたい。
ベッドから起き上がると、窓の外が真っ暗になっているのに気がついた。寝ている間にもう夜になっていたのね。
夕食の予定時間を少し過ぎていたのでちょっと焦ってきた。
涙を流して腫れた瞼を気にしながら一階の食堂へと急いだ。
食堂の席は昼間に座った場所とは違って一番端の落ち着けそうなテーブルだった。周りの様子を気にする暇も無く、次々と料理が運ばれてくる。
お吸い物、秋茄子の田楽焼き、山菜の天ぷら、栗釜飯、和牛のすき焼き、各種漬物、ぶどう。一つのテーブルに乗りきらないぐらい料理が並んで目を丸くした。
「全部食べられるかなぁ」
いつも小食なので普段からこれほど食べる事は少ない。
秋の食材を使ったとても豪華な和会席料理なので一品一品を味わいながら食べてみた。お釜から栗ご飯をお茶碗によそぐと立ち上る香りが食欲をそそる。一口食べると、口の中にその香りが広がり鼻から抜けていく。
ん~~~、と美味しくて思わず唸った。
次は天ぷらを食べると山菜の歯ごたえと香りが広がって旨い。味だけではなく香りも楽しむ料理だね。漬物も天ぷらで油っこくなった口をさっぱりとした味わいに変え、噛むほどに味わいが出てくる。
秋茄子の田楽焼きは初めて食べた料理だけど、茄子とお味噌ってこんなに合うのね。
和牛のすき焼きはこの料理の中で飛びぬけて超絶品で今日まで食べてきたすき焼きは何だったのだろうと思うほど超美味しい。
自分はレポーターになった気分でいた。
再び栗ご飯で優しい甘味を味わう、夢中で次々と食べている。宿の秋の料理には心の底から感動した。こんなに絶品な栗ご飯を残す事はできない。私は釜飯も空にしてとうとう全品を平らげた。お腹が今までにないほど膨れていて驚いた。
食器をさげに来たエプロン姿のおばちゃんが言っていたけど、山岳の住人はこの倍の量を軽く食べるようでさらに驚いた。
大きく呼吸をしながら、お茶を飲んでまったりとしていたら宿場のスタッフが五人ほど食堂に入ってきて横一列に並んだ。
「先に連絡事項をお伝えしておきます。現在、予報では北西から小さな寒気団が近づいており、注意報が出ました。まだ雪は降り始めてはいないですが、深夜辺りから吹雪になるかもしれません。雪が降り次第予定しているツアーを残念ながら中止せざるおえません。なお、その場はキャンセル扱いになります。以上、ご連絡です」
あっ、かまくらツアーの予約忘れていたのを今ごろ気付いた。ツアーが中止になるかは判らないけど、行きたいイベントなので部屋に戻る時に予約するのを忘れないようにしようっと。
今度は違うスタッフが話し始めた。
「さて、この後は楽曲の演奏をお楽しみ下さい。あの有名な夕風の〝春の詩〟を含めた四曲ほどですが、食後の小さな演奏会を始めます」
各スタッフがそれぞれの楽器を持って椅子に座り、息を合わせて演奏が始まった。そのメンバーの中に牧田さんもいて楽器はチェロを担当されていた。
最初の曲は「春の詩」の管弦楽版。聴いていると何だかほっこりとしてきて食堂内がドラマの中みたいな雰囲気になってきた。
「♪春の晴れた日、冬眠から覚めた小熊のようにウキウキと~」と歌ってしまいそうだったので、
声を出さず心の中で静かに歌っていた。
その後、数曲ほど演奏していたが知らない曲もあった。クラシック関係の曲だったのかな。大きな拍手が食堂内で鳴り響いていた。
演奏も終了して、さっそくかまくらツアーの予約を取りに行った。
受付ではすでに何人か並んでおり、昼間のツアーで見たちづ婆さんの格好の人もいる。ここに並んでいる人はみんな同じ予約だろう。目の前で予約終了して私だけ外れたりしたら嫌だなぁ。大丈夫と思いつつも少しハラハラして待っていた。
順番がまわってきてすぐに予約も取れたので安心して部屋に戻った。
やはり食べ過ぎたせいで満腹感がさらに増してきた気がする。さっき階段を上がるのも苦しかった。ベッドに倒れこんで苦しいお腹を妊婦さんのように撫でた。
ちづ婆さんの紫色のちゃんちゃんこを買っておけば良かったなぁ。
今回の旅で自分もなりきって楽しめたのになぁ、と今頃になって後悔してきた。
ふと横向きに寝返って前髪をかき上げた。
「あれっ」
私は頭の中で頻繁に鳴っていたあの嫌なノイズがいつの間にか無くなっている事に気がついた。旅行やイベントの事で頭が一杯で忘ていたみたい。せっかく楽しんでいるのにまた鳴り始めても困るから、また忘れるようにしようっと。
ベッドに横になりながらチラッと窓の外の様子を見てみた。これから雪が降るみたいだけどどうなのだろう、もっと積もるのかな。
それにしても身体がだるくて重い、イベントづくしで疲れが溜まってきたみたい。次のかまくらツアーの集合まで五十分ぐらい空いているので、それまで横になっていれば多少はましになるだろう。




