第二章 暖かい宿の中で(3)
ピーピーピー ガタンッ。
予備にもう一本お茶のペットボトルを買っておく事にした。自動販売機の横にさっき貰ったイベント表と同じ物が貼っているのに目が止まった。
他に面白そうなイベントがあるかなぁ。気分転換も兼ねてもうすぐ始まる予定の叶峠裾ツアーにでも参加してみようかな。
ツアーによってはドラマの内容に合ったイベントとドラマとは全く関係ないイベントも入っている。ちょうど受付がここなので早速予約できるか聞いてみた。
屋内のイベントは少人数でも問題はないが、屋外のイベントでは参加人数が少ないと中止になる場合があり、天候によっても直前に中止となる場合もあるそうだ。今回は人数的にも問題なし、天候も良好。という事で十五時に受付に集合。ちなみに参加寮は五百円と安い。あと約十五分後なので支度をするために足早に部屋に戻った。
デジタルカメラは忘れないようにしないと。ダウンジャケットのポケットに仕舞い込んで、他に持っていく物を考えていた。
お茶はいらないよね、雪道歩いていて凍っちゃったら困るし。他は特に思いつかないのでこれだけでいいかな。
今回のツアーの叶峠裾という所もドラマで出てきた場所である。そこでのシーンを覚えているのでとても楽しみ。
何人ぐらいになるのだろう、窓から見えた団体は十五人ぐらいだったかな。あんまり人が多いとぞろぞろと歩くのが嫌だなぁ、と想像して顔をしかめた。
そろそろ集合時間も近づいてきたので遅れないように受付に向かった。
階段を下りた時点で、ワイワイと声が聞こえてきた。集合場所には見た感じでは三十人ぐらいほど沢山の人が集まっていた。さっきのちづ婆ファッションの子もいるのが目に入った。
スタッフの方から一人一つのホットカイロを手渡されるとともに参加者の最終確認が行なわれた。学生の頃の修学旅行みたいで心がウキウキしている。スタッフの人から簡単な説明があった。
「では、叶峠裾ツアーに出発します。雪道は除雪していますが、足元が滑りやすいので注意して下さい。また、できれば二人か三人一列ではぐれないように前の列に付いてきて下さい」
みんな分厚いジャケットを着こんでいるので、もこもことした団体が出発前の熱気を発していた。
入り口の扉が大きく開いて強風が吹き込んできているのとは逆に、ツアー客は外に吸い込まれるように順に出て行った。私は一人で来ているので二人組や三人組になるのが気まずく思い、何となく最後の列が出発まで残っていた。そして、私が最後の列になり団体は宿場から出発した。
方向的には宿場から北になり、今は曇りで見えないが叶峠がそびえている。
除雪されている山道ではあるが、砂利道の砂利が凍っているので踏むたびにシャリシャリという感触が靴の裏から伝わってくる。この道が叶峠の裾まで続いている。
「うぅぅーー寒い」
宿場内との温度差が激しかったので、顔の表面が凍ったみたいに固まった。
ゆっくりと横から私の顔を覗き込む人がいた。
「あっ 君は尻餅の子?」
顔をよく見てみると、私が尻餅をついた時に声を掛けてくれた男性だった。グリーンとコバルトブルーのストライプ柄のスキーウェアを着ている。
「は、はい」
突然の男性との会話で緊張する私をよそに男性は横に並び話し掛けてきた。男性は宿場のスタッフなので最後尾がはぐれないために見守り役で後ろにいた。
それにしても〝尻餅の子〟なんて失礼なあだ名をつけられたものね。男性恐怖症気味の私には目に見えない大きな壁があって、話を聞く事はできても話す事はできない。自分の周りにバリアを張って、すぐに閉じこもってしまう。
ジャケットのポケットの中のホットカイロを握ったり離したりを落ち着き無く繰り返していた。手のひらが湿っているのも気がつかないほど緊張しながらその男性の話を聞いていた。一言ずつの返事しかできなかったけど、それでも男性は優しく語りかけてくれた。ドラマの事や男性の事などを面白おかしい話をしてくれたが、こんな近くでは目線が合わせられず相槌を打つ事で精一杯だった。震える声を悟られないように小さい声で頷いていた。緊張が止まらないので早く到着しないかとさえ思った。
男性は二十二歳の大学四年生。最近ここに来たばかりで来年の就職先も決まり、学生生活の最後をここで楽しんでいる。名前は「牧田さん」という。
しだいに雪で歩きにくい道にはなってきたが、宿場から歩いて三十分ぐらいで叶峠裾に到着した。三十分も歩くと身体が温まり、出発時のホットカイロの暖かさは必要ない程になっていた。ぬくぬくでほっぺたが赤くなっていないか気になった。
当然の事ながら宿場付近よりも積雪が多く、見渡す限り真っ白で樹木も凍っているようだ。
叶峠越えを目指す全ての登山家はここから登っていく。ドラマでは最終話に登山家とちづ婆さんとの別れの感動的なシーンがあったのを覚えている。そのシーンを再現するように叶峠を背景に写真撮影をしてもらえる。
スタッフの牧田さんは撮影係なので急いで行ってしまった。
今は他の人が撮影してもらっているので私は後でいこうかな。順番を待っている間、私はずっと叶峠の方向を眺めていた。叶峠上部は分厚い雲で覆われていて一向に顔を出す気配はなく、頂上は雲の上に出ているのかなと想像した。山肌を隠す濃霧のような白雲の流れがやけに早いように感じた。目の前のこの情景は息を呑むほど神秘的で私は心が洗われるような気持ちで一杯になった。
私はチャロと一緒にここに来たかった……。
今まで心の底に閉まっていたチャロへの想いが湧き上がってきた。こんな雪山だと寒いからチャロに服を着させようかな。でも、ゴワゴワするので身体をよじってしきりに嫌がるに違いない。チャロの仕草を想像すると笑みが零れた。
昔、不思議な事にチャロは私の考えている事が分かっているように思える時があった。たぶん、一つ屋根の下で長い年月を共にしているので、表情から察しているのかもしれない。犬の素振り以上にとても心が通じ合っていた。いつも私の事を気遣って優しく、疲れた時でも元気をくれて癒してくれる。大きくて綺麗な瞳とキリッとした顔立ちから、もしチャロが人間だったらさぞかし男前だろうと思っている。
私はチャロを愛している。それは自分の理想の男性像に一番近いから。
テレビに映っている芸能人なんて惹かれてもチャロには全然敵わないし、学校のクラスメイトの男性は優しい人間なんていないし、男性恐怖症の私からしたら怖くてしかたがなかった。
もし犬と結婚できるのなら私はチャロと結婚したい。これを言った友人には笑われた事があったけど、私は本気である。チャロが亡くなって二年程経つがこの想いは今も変わらない。きっと人間に生まれ変わっていたらいつか迎えにきてくれる、と考えている。
チャロに会いたい、そう願ってこの峠を越えれば叶うかな……。
私はICレコーダを取り出して、その想いを録音した。
やっと写真撮影の順番がまわってきた。何枚か撮ってもらえるので一枚目には普通なポーズで撮ってもらった。可愛いポーズでもしないと見た目はイケてないだろうなぁ。二枚目はドラマ中にちづ婆さんが見送りでしていた後ろ姿で手を振るシーンを真似したポーズで、三枚目は何もポーズを考えていなかったので、チャロを抱っこしているようなポーズにした。本当に抱っこしているように暖かな感じがした。




