図柄 目々連
「浅田」
と背中から呼びかけられて、浅田は振り返った。
浅田の背中には青女房という図柄が鴉の手によって彫り込まれている。
青女房は素晴らしく美しい娘の図柄だった。
川蝉色の着物に蒲公英色の帯、桜の枝と桜吹雪を背景に手には小槌を持って青女房は立っている。出で立ちは素晴らしく美しいが、浅田に呼びかけるその声と口調はしわがれた婆さんのようなものだった。
振り返ったところで自分の背中は見えやしないのだが、呼ばれたらつい返事をしてしまうのが人間の性だ。
「どうした?」
「あんなぁしばらく、あにさんのとこへ行くのはやめておいたほうがええで」
「はあ? どうして?」
素っ頓狂な声で聞き返す浅田に青女房は口ごもる。
「行ったら分かる」
「行くなって言いながら理由は言わずに、行ったら理由は分かるって。謎解きか?」
浅田はエアコンのスイッチを切ってから立ち上がった。
1LDKだがフローリングに白い壁、カウンターキッチンの普通の若者らしい部屋だが、青女房の強い要望でフローロングの半分は畳を敷いている。
浅田の身体から抜け出した時は畳の上が居心地が良いらしい。
青女房は元は鴉の元にいた図柄だった。顔中疣だらけでしわくちゃ、白髪頭も地肌が見えるほどに薄かった。歯は抜け落ち骨に皮を被せただけの醜い老婆だった。そして素晴らしい毒素を発揮し依頼人の願いを叶えてきた。浅田はその的だった。青女房に取り憑かれ、あと少しで死に至るはずだったのだが一命を拾った。
その後、鴉の手によって美しい姿に彫り直され、青女房は今は浅田の背中に棲み着いている。
「行くの嫌なら留守番してるか?」
「留守番は嫌や。浅田がおらんようなったら自由に動けんしな」
今の青女房は浅田の生気をわずかに分けてもらっている。
もう今は他の図柄のように鴉の肌に棲みつき、その呪力によって生きているわけではないので、もう人間を殺傷する能力はない。ただ、浅田の背中で可愛らしくおしゃべりをするぐらいである。
「どうしたんだ? いつもはあにさん、あにさんと、鴉の兄さん大好きだろ?」
「あにさんは好きや……」
中途半端に呟いてから、その後は黙りこくってしまった青女房に首をかしげながら浅田は鴉の元へ出かけて行った。
「おはようございまーす」
「刺青 鴉」と書いた木片を吊ってある入り口から入った浅田はやけに室内がしーんとしてるのに気がついた。
いつもならば鴉の肌から抜けだした餓鬼がひもじいひもじいと呟きながら何かを囓っているか、蔵ぼっこの小鬼達が走り回っているか、他にも怪奇な図柄達が部屋の中に漂ってはおしゃべりしているのだがその姿もない。
「おはよーございます!!!!」
待合室を通り過ぎて事務室へ入って行くと、鴉が立っていた。
上半身が裸で手にはアロハシャツを持っている。
「ど、どうしたんすか?!!」
鴉の左腕から胸元までの柄が綺麗さっぱり消えている。
普通の人間のような肌色の左腕になっているのだ。
昨日までは確かにぎゅうぎゅう詰めになって怪奇な柄達がひしめいていたはず。
鴉は不機嫌そうな顔でふんっとソファに座り、煙草に火をつける。
「あ、浅田ぁ……やっぱり、帰ろうでぇ」
と泣くような声でしわがれ声の青女房が懇願する。
「え? どうした?」
よくよく見ると鴉の足下に一匹の小鬼がしがみついている。
(こわい……こわいよ……)
「へ?」
と浅田が目線を小鬼から鴉の方へ向けた瞬間、ざわっと目の前の空間が揺れた。
空気の層がぐにゃっと歪んだようになりそこに裂け目が出来たように浅田は思った。 青女房がひいっという悲鳴を上げたのと小鬼がぎゅっと鴉のジーパンの裾をつかんだのと同時に、その裂け目から銀色に輝く何かが出現した。
「え!」
裂け目はだんだん大きくなり人一人通れるほどまでに大きくなると、そこから銀色の鬼がゆっくりと姿を現した。
「ひいいいい」と言ったのが青女房か小鬼かは分からない。
浅田はその場から動けもせずに固まったまま、その鬼を見つめていた。
天井まで届くような大きな男で素晴らしく逞しい肉体を持っている。
美しい銀髪をなびかせて浅田のほうをじろりと見た。
その眼力だけで、失禁してしまいそうな恐ろしさだ。
鬼を取り巻く空気も非常に重く、息苦しい。
浅田も目眩を感じて、がたっとデスクに手をついた。
「ほんまかなわん。半分、消えてしもうたやろ。姿現すのんは時と場合を考えろって何回言うたら分かんねん。人の話を聞けや」
と鴉の怒りに満ちた声がしたが、浅田はあまりの衝撃で視線を動かすことすら出来なかった。デスクにつかまったままだが、大きく見開いた目はじっと銀色の鬼を見つめている。
大きな銀色の鬼は振り返って鴉の方を見てから、
「すまん、すまん。これをやるから使ってやってくれ」
と笑って言った。
途端に肌色一色だった鴉の左腕一面にびっしりと大小何十個もの目玉が現れた。
「へ!!!」
と浅田が間抜けな声を発した。
大きな目玉も小さな目玉もそれぞれにきょろきょろと動いたり、ぱちぱちと瞬きをしたり、瞑ったり、左右を見たり、と様々な動きをした。
それはどうにも気色の悪い動きだった。
「うわぁ。俺、駄目」
浅田が悲鳴を上げた。
「俺、ぶつぶつとか並んでるの駄目な人間なんです!」
浅田がそう言った瞬間に鴉の左腕の目玉達から一斉に涙がこぼれた。
銀色の鬼がぎろっと浅田を睨んで、
「小僧、目々連は繊細な生き物だ。つまらん事を言うな。喰ってしまうぞ!」
と低い低い声で言った。その口からは大きな大きな牙が見える。
「す、すみません……」
じっとりとした重苦しい空気の中で今にも気を失いそうな浅田は泣き声のようなか細い声で謝った。
「目々連か……」
と鴉が言い、銀色の鬼はふふっと笑ってから、鴉の向かいに座った。
「なるだけ妖力は押さえるようにするよ。青女房、すまんな」
と銀鬼が言った。
ふっと空気が軽くなり息苦しさが解消されたので、浅田は大きく深呼吸をした。
小鬼やそのほかの図柄達もほっと息をついた。
「いいえ……颯鬼のだんな……大丈夫ですよぉ」
と青女房が震える声で言った。
ぽかんとしている浅田の耳元で青女房が囁いた。
「あの方は颯鬼様とおっしゃって、妖の中では最強の鬼族や。粗相は許されへん。妖にも嗜好ってもんがある。鬼族の好物は人間やから絶対にご機嫌は損ねたらあかんで。一口でだんなの腹の中やで」
「ちょ、まじで?」
「そうや。でも、颯鬼のだんなはお優しい方やから、鴉のあにさんが使う人間は喰ったりせんはずや」
「や、優しいんだぁ、そうなんだぁ」
浅田は小鬼達や刺青の柄達は人間の負の感情を好むのだとばかり思っていた。
実際に妖が人間を食べたりする場面を知らないし、そういう話も聞いた事がない。
だが実際先ほどの銀鬼はまさに浅田を喰らう気満々だったようだ。
「実体を持たんわしらと颯鬼のだんなのような妖はまた類が違うんや」
「へ、へえ」
「鴉のあにさんの左腕の柄達が消えたのは、颯鬼のだんなの妖力に耐えられんかったからや。鬼族と相性の悪い妖やと睨まれただけで消滅してしまうからな」
「そんなに強いのか? 鬼族って?」
「そうや、まあ、最近では数も減ってきてるけどな、やはり最強やな。それに鬼族は美しいからな。どんな妖よりも優美で素晴らしいんや」
うっとりとする青女房の視線は颯鬼の方へ向いている。
まるで恋をする乙女のようにきらきらとした瞳を輝かせて。
そんな浅田を見て、
「青女房が惚れた人間というのはお前か、なるほど、雌が好みそうな顔だな」
と颯鬼が言った。
人間が好物と聞いてびびっている浅田は颯鬼に向かってお愛想笑いをするしかない。
ホストをしていた時から容姿には自信のある方だったが、この銀鬼の優美な姿ときたら。
銀色に光る頭髪から見える二本の黒い角。ほぼ外見は人間に等しいが、逞しい体躯に長身、全身から強さと自信があふれ出している。
「前から言うてるけど、そんな鬼の姿で堂々とここに居座るのやめろ」
と鴉に怒られる颯鬼は浅田を見て、「なるほど」と言いながらその姿を少しずつ変化させていった。妖力での変身が可能で青女房やこの部屋にいる妖とは使える力も絶大な差がある。
「颯鬼のだんなが人間に変化した姿もいっそう男前やなぁ」
とうっとりと青女房が呟いた。
映画俳優ばりの整った顔に黒と銀髪が混ざり合ったような髪の毛、長身。
そしてさらに優しい微笑み。
人間でも妖でもうっとりするような容姿だ。
さらに妖の中でも最強とは(スーパーセレブだな)と浅田は考え、そういう方とはなるべくなるべく、お近づきにはならないでおこうと決心した。
「んで、何の用やねん。お前がここにおったら商売に差し支えるから帰ってくれるか」
と鴉が言った。
颯鬼は優しく微笑んでから、
「お前の顔を見に来ただけさ」
と鴉に言った。
「ああ?」
鴉は超絶不機嫌な顔で颯鬼を睨み、浅田はついぶはっと吹き出してしまった。
しかし鴉にじろっと睨まれて、とっさに口を押さえて下を向いた。