狂う事すら許されない
病院へ来た榎本の妻はハンカチで口を押さえたまま、眉をひそめた。
看護師によって清潔な病院の衣料に着替えてはいたが、職場での失態は耳に入っている 自分を見下ろす妻の不快な表情に榎本は気がつかない振りをした。
「あ、麻子」
と妻の名前を呼ぶ。今度は声が出た。普通に話せる。
「どうしてこんな事になってしまったのか……医者はなんと? どこか悪いところがあるんだろうか」
妻はすぐ横にある椅子に座りもせずに、
「お医者様は検査では特に悪い箇所はなかったとおっしゃったわ」
「そ、そうか、じゃすぐに退院できるな」
「すぐに退院はできますけど、帰る場所があるとは思わないでくださいね」
「え?」
麻子はバッグから緑色の薄い紙を取り出して、
「離婚していただきます」
と言った。
「え?」
「背中のそれは何ですの? おぞましい」
と麻子は吐き捨てるように言った。
背中の刺青が見つかったのだ、榎本は一気に身体が冷たくなった。
「あなた会社でどうなったのかご自分で理解してらっしゃるの? 薬物でもやってるのかと社長に言われんですのよ、こんな恥ずかしい思いをしたのは生まれて初めてだわ。意味不明な言葉を叫んで、糞尿を垂れ流して暴れて。離婚していただきますから。あなたも人の親なら子供達の事を考えて、子供たちと会おうなんて思わないでくださいね。これから先は弁護士を通してくださいな。慰謝料、養育費、財産分与、きっちりしていただきますから」
「ま、待ってくれ、違うんだ。聞いてくれ。分からないんだ。俺にも何がなんだか……どうしてこんな事になったのか。突然、背中にこんな物が浮かび上がったというか、出来て、それに凄く痛くて、内臓を掴まれてるように痛くて……ちゃんと検査をしてもらって……」
「それはどうぞご自由になさればいいわ。もう私には関係ない事ですから」
と言った妻の蔑むような目に榎本は愕然とした。
「浮気の一つくらい子供達の為に我慢しなさいとお父様が言うから知らぬ顔をしていたけれど、もううんざり。あなたのお好きな若い女性達に看病していただいたらいいわ。今のあなたについてくる女性がいるとは思えませんけど」
麻子はそこで言葉を切った。
「会社の方も困ってらしたわ、あなたの扱い。復帰するのはご自由ですけど、今まで通りとはいかないんじゃなくて」
それから大きな大きなため息を一つついてから病室を出て行った。
「麻子……」
そんな、馬鹿な。
妻の雇った敏腕弁護士に家、財産、子供達、全てを奪い取られ榎本は病院もすぐに追い出されるように退院した。
調べても病気というほどの病気は見つからない。そして病院にいる間、榎本は意識もはっきりし、言葉もはっきり話せた。便や尿のコントロールも出来る。身体の調子は良い。
麻子の弁護士から渡されたわずかな金を握って榎本は病院を出たが、行く場所もなかった。
自分の実家はもう長い事帰ってない。榎本は田舎で貧乏な実家を嫌っていたし、そんな自分を家族も敬遠している。麻子と結婚した時、二度と連絡するなと言ったのは榎本自身だった。田舎の野暮ったい親族が恥ずかしかったからだ。
その代わり財産は放棄して弟が家を継ぐようにした。
人がいいだけの両親。高卒の弟は愚鈍でその妻も田舎のおばちゃんだ。
それにくらべて麻子は都会のお嬢さんだった。親も金持ちで上流で洗練されていた。
そして自分もその一員になったつもりだった。
榎本はふらふらと街を歩いていた。
病院を出た足で自分の家に戻っていたが、入れず家の中はしんとしていた。
玄関でうずくまるように座って帰りを待っていたが、いつまでも妻も子供達も戻らず、そして警官がやってきた。
言い訳を言おうとする榎本に、
「はいはい、でもね、あなたもうここの家の人じゃないんですよ。皆さんねえ、引っ越しされて、この家は売りに出てるんです。だからね、待ってても無駄なんですよ」
警官は言い聞かせるように優しく榎本にそう囁いた。
それから妻の実家へも行ったが、麻子や子供達は顔も見えず、義父が出て来て汚らしい物でも見るような目で榎本を見た。
「迷惑だ、二度と顔を見せるな。恥さらしが」
そう言って水をかけられた。
榎本の災難は身体中の激痛でもなく、だんだん酷くなる顔や腕、足の麻痺感でもなく、そのはっきりとした頭の中だった。
自分の言いたいことは伝わらないが、相手の侮蔑感は伝わる。嘲笑、冷遇、そして自分が弱者になってしまったという事実さえ理解しているという事だ。
言葉を発するのがだんだん難しくなり、物をつかむのも出来ない。
片足は曲がり、巨大な赤ん坊が乗っかっている。
助けを求める事も出来ない。伝わらない。
誰か助けてくれ。
頭の中も麻痺してくれればいいのに。もう何も考えたくない。
それをあえて邪魔している者がいる。
「許さない、許さない」
と呟く者がいる。
「パパ、パパ」
と足下にすがりつく赤ん坊がいる。
とぼとぼと榎本が身体を引きずってたどり着いた先は佐枝子のアパートだった。
佐枝子ならきっと優しくしてくれて、力になってくれるはずだ。
優しい女だったから情に訴えれば助けてくれるはずだ。
「課長?」
佐枝子が会社から戻る時間まで榎本は辛抱強くゴミ置き場の中で待っていた。
ゴミ置き場の中は広く、積み上げてあるゴミの後ろに丸まっていた。住人は扉を開けてどさっとゴミを投げ捨てるだけなので、奥の方に丸まっているよれよれの榎本には気がつかなかった。扉がステンレスだが格子戸で、前を通る人間の顔まで判別できる。
そして会社から戻ってきた佐枝子の姿を見つけて榎本はゴミ置き場から飛び出した。
「佐枝子……」
夕暮れ時、佐枝子は久しぶりに榎本を見た。
驚くほど人相が変わっていた。痩せこけて髪の毛や無精ひげが伸び放題、着ているシャツもコートのもよれよれだった。背中は丸まり、足が酷く曲がっていた。何日も風呂に入っていないような臭い匂いがした。
「助けて……くれ。助けてくれ!」
丸まった背中でぞりぞりと近寄ってくる榎本に佐枝子は寒気がした。
「課長、私、あなたのそんな姿を見たらさぞかし溜飲が下がると思ってましたけど、ぜんぜんそんな事ないわ。あなたの事、凄く怨んで怨んで憎んでた私のそんな気持ち、全部あの鬼子母神様が持って行ってくれたみたい。もうあなたの事、何とも思ってないの。それにあなただけのせいじゃない。私もバカだった。離婚なさったんですってね。私はあなたの子供達から父親を奪ってしまった。それを反省して、二度と他人様に迷惑なんかかけないようにひっそりと生きていくつもりです。課長もそうなさって下さい」
佐枝子はそう言って榎本の横を通り過ぎた。
佐枝子の腕を引き戻そうと手を伸ばしたが届かず、女の笑い声と赤ん坊の声が榎本の耳の中でいっぱいになった。
その夜、佐枝子は一人で祝杯をあげた。アルコールには強くないので、小さな缶ビールを一本だけ飲んだ。手には産婦人科で貰った超音波の写真が数枚。これが佐枝子の赤ん坊だ。画像ではどくどくと動く小さい小さい心臓も確認できたのに。一生懸命生きようと動いていた小さい小さい赤ちゃん。三センチ程で精一杯生きていた赤ちゃん。
「ごめんね……」
あんな男でも佐枝子の犯した罪は罪だ。いずれ自分も地獄へおちる。逝ってしまった子供は天国にいるはずだ。佐枝子はもう二度と子供と会えないだろう。
「ごめんね……」
その夜、佐枝子はいつまでも泣いていた。
鴉が顔を上げた。
描く事に集中していたので、浅田が背後のソファに座っている事にしばらく気がつかなかった。
「何や来てたんか」
鴉はペンを置いて、あーあと背伸びをした。
「ずいぶんと熱心に描いてたから」
陽気な顔は引っ込めて、浅田は遠慮がちにそう言った。
「芸術の季節やからな」
珍しい鴉の冗談に浅田はぷっと笑った。
「仕事の話か?」
鴉は椅子から立ち上がり、両手を広げて指の屈伸をした。
「いや、近々仕事にはなりそうなんだけど……そう言えば女の客は来ました? 怨みの方で」
「ああ」
「ずいぶん迷ってたから」
鴉は佐枝子の様子を思い出した。
背中に彫り物をした後はあきらめもついたのか、さっぱりとした顔で帰って行った。
「そろそろ決着がつくやろ。まあ、今回は成功するやろうな」
と鴉が言ったので、浅田は首をかしげた。
「どうしてですか?」
「女の方が神経図太いからや。出した金以上のもんを回収するまではくたばらんのが女や。そんな根性あるんやったら、怨みなんか晴らさんでも生きていけるやろうにな」
鴉はけっけっけと笑った。
「今回は誰の仕事なんですか?」
と浅田が聞いた。
鴉はアロハシャツを脱いで、浅田に背中を見せた。
背中は一面の彫り物で埋め尽くされている。いや、背中だけではない。腹も胸も脇腹も腕も。肌が見えないくらいに様々な彫り物が施されている。
しかし、一カ所、腰の辺りがぽっかりと抜けている。その場所だけ普通の肌の色だった。
「鬼子母神や」
鴉が笑いながら言った。浅田はなるほどとうなずく。
「子殺しの罪はでかい。相手の男は鬼子母神の怒りを思い知るやろ。破片一つ見つからんような目に遭わされるかもな」
浅田は鴉の背中を眺めた。施された様々な彫り物達が邪気を放っている。
鴉の体中に施された彫り物はただの刺青ではない。全てが毒気と邪気を孕んだ危険な呪術の文様である。
鴉は怨みを晴らしたいと金を支払う客に彫り物を施す。それは鴉自身が体に入れている図柄から用途によって選ばれる。
子殺しには鬼子母神を。
鬼子母神は佐枝子の心の傷を汲むだろう。
子供を殺した憎い相手にもっとも効果的な復讐をもたらすだろう。
だが鬼子母神が佐枝子の肌に馴染み、復讐を遂げる時間がかかる。その間、佐枝子の背中は鬼子母神の毒気で燃えるような痛みを受けているはずだ。
「依頼人はこれで満足するやろ。復讐したからって幸せになれるかどうかは謎やけどな」
と鴉は事も無げに言った。
浅田が腰をあげようとした時、
(あにさん、戻りましたでぇ)と女の声がした。
浅田がきょろきょろと辺りを見渡す。
「ご苦労さん」
と鴉が言った。
「首尾は?」
ほほほほと女の笑い声ときゃっきゃという赤ん坊の声がした。
(あっけないもんですわぁ。あっさりと心臓が止まって、ぽっくり逝きはった)
「つまらんな」
と鴉が言った。
浅田は目を擦った。いつの間にか鴉の肌に「鬼子母神」が戻ってきている。
久しぶりの遠出が嬉しかったのか、彼女は微笑んでいるように見えた。
(奥方に家を追い出され、仕事ものうなってな、最後には公園で寝泊まりしてはったわ)
「へえ」
(ほんまに、男はしょうもない)
「ずいぶんといじめたんちゃうか?」
(ほほほほほ。朝から晩まで、夢の中まで、愛しい男を追いかけるのが女の業やからなぁ。ずっとずっと、まとわりついて、しがみついて、怨みつらみを耳元で囁いてやった……坊やは日々大きくなるし、その重みで骨は軋み、歩く事もかなわん……体中に毒気が回って痛い痛いと泣き叫ぶ……しまいには公園の茂みの中で蹲るしかできひんようになって、糞尿垂れ流しや……気の毒なこっちゃ……)
「ほんま女は怖い生き物やで」
(あにさん、いけずな事を言う。女子供を粗末に扱うからや。坊や、面白かったなぁ。惚れた男にはとことんつくしますのが女やから。朝から晩まで愛しい愛しいと囁いてやりましたえ)
また鬼子母神がほほほほと笑ってから浅田を見た。
女の恨みは自分も身に覚えがある。
青女房に取り憑かれ死にかけた過去を持つ浅田には耳の痛い話である。
浅田の背中に彫り込まれた青女房は「ひっひっひっひ」と不気味な笑い声を響かせた。
それにつられたのか、鬼子母神の赤ん坊も奇声を上げた。
「ご苦労はん、ゆっくり休んでや」
と鴉が言い、鬼子母神は満足そうな顔をした。