図柄 鬼子母神
「さえちゃん、どうしたの? 具合が悪いの?」
同僚に聞かれて、佐枝子は薄ら笑いをした。
「ちょっと背中が痛くて」
「大丈夫? どうしたの?」
「うん、平気。筋でも違えたかな。何だか痛くて」
と佐枝子は気丈に笑ってみせた。
「病院に行ったほうがいいんじゃない?」
「うん。ありがとう」
かつかつとハイヒールの音をさせて同僚が去って行ったので、佐枝子は息をついた。
佐枝子はぼんやりと自分の席に座っていた。。
背中に焼け付くような痛みがある。夕べからずっとだ。
服を着るのもつらく、息をするのも、動くのもつらかった。
今日は一日中ぼんやりと机の前で過ごした。
鴉には痛み止めなどは効かないと言われているので、飲んでもいない。
ただ、じっと嵐のような痛みを我慢するだけだ。
パソコンの前に座ってはいるが作業がはかどらない。かといって茶汲みや他の作業も出来そうにない。まだぽつぽつとパソコンのキーボードをたたいているほうがましだった。 課長は朝から不機嫌そうにそんな佐枝子を睨んでいる。
仕事をするだけが取り柄の三十路女が仕事が出来ないとなったら、どうしようもない。それは佐枝子も分かっていた。この会社に入って八年、誰よりも真面目に過ごしてきたつもりだ。だが、仕事が出来る、というスキルはたいした事ではないという事実を最近知らされた。会社には、無駄話ばかりで、コピーの取り方も知らず、口のきき方も知らない、けれど若くて、すらっとした体つきを惜しげもなく見せつける、そんな女の子が必要なのだ。寿退社を夢に見ていた事もあったが、出会い系サイトにはまるほど馬鹿ではないし、結婚相談所に駆け込んで大枚をはたく事も抵抗がある。
大体、もう佐枝子には結婚相談所に払う金など残っていなかった。
鴉に支払った刺青代金が二百万円、それが佐枝子の全てだった。
それで怨みをはらしてもらう。
もしかしたら、あの須藤という男のように醜くなってしまうかもしれない。鴉に見せられた新聞記事のように深夜に苦しみながらひっそりと死んでいくかもしれない。
それでも構わなかった。どうせ死んでしまおうと思っていたところだ。
佐枝子の悲しみに引き寄せられて小鬼が来てくれなかったら今も自殺未遂を繰り返しているだけだ。
あの男に復讐ができるなら本望だ。失敗しても、復讐という行為に後悔はない。
鴉は我慢が必要だと言った。
確固たる信念と我慢があれば確実にあの男に復讐できると言った。
今の佐枝子は相手の男を憎いと思う気持ちだけで生きている。
その思いだけが佐枝子を支えているのだ。
「岸田さん、これ十部ずつコピーして、昼から会議で使うから」
と課長が佐枝子を呼んだ。
「はい」
佐枝子は笑顔で立ち上がった。痛みに耐えながら、ぎこちない動作で課長の前に立った。
課長は書類を佐枝子に渡し、
「怪我でもしたの?」
と聞いた。
「ちょっと、日曜大工で」
と言って佐枝子はお愛想笑いをした。
「結構、うっかりしてるんだね。それくらいしてくれる彼氏いないの?」
と課長が言った。
「課長、それ、セクハラですよ」
佐枝子はくすくすと笑った。
今の佐枝子は憎いと思う気持ちだけで生きているのだ。
復讐を遂げるまでは何があっても笑顔を絶やさない。
ましてや憎い相手の前で絶対に弱ったりしない。
自分に都合のいい時だけ呼び出して佐枝子を抱き、そそくさと家庭に帰る男。
家では愛妻家と評判の男。
部下の面倒見もよく、上司の受けもいい男。
子供が出来たと告げた途端に佐枝子をやっかい者扱いした男。
その子供を殺した男は目の前にいる。
その男は何事もなかったように、笑顔で佐枝子にコピーの原本を手渡す課長の榎本だ。
佐枝子は手も震えず、表情もにこやかに榎本に背を向けた。
その足でコピー室へ向かう。ずきんずきんと背中は痛む。
何かの拍子に頭痛もする。だが、佐枝子は耐えた。
自分を正当化するわけではない。自分はおろかな女だと分かっている。
妻子がある人を好きになってしまうような馬鹿な女だ。そして将来があると期待していたわけでもない。
妊娠した時、一人で子供を産んで育てようと決心した。
シングルマザーもいい。自分だけの子供。父親などなくても愛情いっぱいに育てれば良い子に育つはずだ。
決心してしまうと、暗かった自分の未来に子供が加わるだけでぱっと明るくなったような気がした。
愛妻家で子煩悩だと評判の榎本には四人の子供がいる。一番下はまだ三ヶ月らしい。
携帯電話の待ち受け画面も子供の画像だった。
妊娠したと打ち明けた時、喜んでくれるとは思ってなかった。
だが、まさか、階段から突き落とされるとは思っていなかった。
迷惑はかけないときちんと話をしたつもりだったのに、榎本は恐怖におののいた顔で佐枝子を見た。これほど器の小さい男だと思ってみなかったと、悔やんだ所で遅い。
階段から転がり落ちた佐枝子は子供を失った。
あんな男の子供など生まなくてよかったと思えばいいのか。
だが子供が佐枝子のお腹に宿った瞬間から佐枝子は母親になっていた。
検診の度に見られる超音波写真は小さい小さい蠢く生き物だったが、愛しい愛しい存在になっていた。
子供と二人で幸せになりたかった。だが、もう失った。
入院した佐枝子の元に榎本は見舞いにもこなかった。
体の傷が癒えて、出社した佐枝子を榎本はほっとしたような顔で見た。
佐枝子の出方を伺っている様子も見せた。
榎本を一時でも愛しい男と思った自分すら怨んだ。
この怨みはどうしても復讐しなければおさまらないと感じていた。
自分が死ぬか、榎本が死ぬかだ。
榎本を社会的に抹殺して、何もかも失わせてやりたい。
仕事も家庭も全てだ。
八年、真面目に働いて貯めた佐枝子の貯金は浪費家の榎本の口座に移動して、出産資金ほどしか残っていなかった。
出産資金が怨みをはらす資金に変わった。
それも全て鴉へ支払ってきたが、惜しくなかった。
佐枝子はコピー機に原本を挟んだ。枚数をセットしてスタートボタンを押す。
そして光が走っていくのを眺めていた。
背中の痛みが増してきた。
ずきんずきんずきんと痛む。
真っ赤に焼けた鉄を押しつけられているような感じだった。
だが、女は痛みに耐えられる。
出産の痛みはこんなものではないはずだ。
女は命がけで子供を産み出すのだ。
痛みに耐えられないのは、男だけだ。
命の尊さを知らない男だけだ。
榎本にどんな痛みが訪れるのだろう、どんな結末が待っているのだろう。
憎い、憎い、榎本が憎かった。佐枝子の子供を殺した男が憎かった。
それでも自分は何も出来なかった。ただ泣いて悔しがるだけだった。
小鬼達が来てくれなかったら、今でもそうしているだけだろう。
鴉に失敗はない。小鬼も浅田もそう言った。
その言葉を信じて、鴉が復讐してくれるのだけを心待ちにして、我慢する。
きっとあの男は地獄に堕ちる。
そう考える事でやっと理性を保てる佐枝子だった。
最初に現れたのは鱗のような物だった。
「あら、榎本課長。背中になあに?」
と言ったのは由美子だった。
「え?」
由美子はベッドの上にいた。白いシーツを体に巻き付けて気怠そうに寝そべっていた。
佐枝子の後に榎本が関係を持った若い女子社員だが、欲が強い。すぐに金をせびってくる。だが割り切った関係を楽しんでいる女なので榎本にとっては都合が良い。佐枝子はいい女だったが、生真面目さが重かった。愛だの恋だの、鬱陶しかった。
その上子供が出来たと告げられた時は心底困ってしまった。
だが、何もかもうまくいった。子供は流れて、佐枝子も何も言わない。
助かった。
榎本はシャワーを浴びて、ワイシャツを着ようとしていた。
ハンガーに掛けてあるシャツを手にとった時、背後で「ひっ」という声がした。
「何だ?」
榎本はシャツを手にしたまま振り返った。由美子はまだベッドの上にいたが、自分の下着や洋服をつかんでいた。
「どうした?」
由美子の顔が酷く驚いたように歪んでいる。
「な、なんでも……そろそろ帰るわね、課長も帰るんでしょ」
「ああ」
由美子は榎本の背後をじっと凝視している。
榎本の後ろに壁掛けの鏡がある。それには榎本の背中とベッドに起き上がった由美子が映っている。
榎本の背中に黒い影が走った。ホテルの照明は薄暗く、鏡に映った榎本の背中も鮮明に見えない。だが背中に黒い影のような物が動き回るのは見える。
それは少しずつ形を成してきた。
榎本の背中に大きな絵が描かれている。
由美子の目にはそれは女に見えた。着物を着ている姿は浮世絵のようにも見える。
腕に抱いているのは赤ん坊のようだ。
やがてそれは色を成してきた。赤い色が入る。緑色も入る。紺色も入る。
そしてそれは由美子の見ている前で完成された。
「き、岸田先輩……」
「え?」
訝しげに榎本が由美子を見た。由美子の顔は引きつっている。
「突然、何を言う? 岸田君がどうしたって?」
「だ、だって……」
絵の女がにやりと笑った。
由美子ははっと息を飲んだ。
そんな馬鹿な、見間違いだろうと思って目をこすってみた。
また着物の女がにやっと笑った。
そして腕に抱いている赤ん坊もにやっと笑った。
由美子の体中がぞっとなった。
女の手がすうっと動いた。しっしっと由美子に向かって、立ち去れ、と言っているように思えた。早く逃げなければきっと恐ろしい事になる、と由美子の本能が訴えた。
「どうした?」
不可解な顔で榎本が由美子に近づいてくる。
由美子は慌てて後ずさる。
(早う、お逃げ。さもないとお前も殺してしまうわな)
と囁くような声がした。
由美子の全身に鳥肌がたった。
目は鏡の中の絵の女から離れないが、ぎこちない動作で洋服を着た。
バックを握って、転がるように部屋を出て行った。
榎本は呆然としている。
「おかしな奴だ」
と由美子が逃げ去った部屋で榎本は呟いた。
「まあいい、由美子には金がかかりすぎるからな。他を探すか」
(呆れ果てた男だの)
「え?」
榎本はきょろきょろと部屋を見渡す。声が聞こえたような気がしたからだ。
もの凄く近くから、囁くような声で。
(憑き殺すのは易い事だえ……けれど、依頼人はものすごう怨んでなさる。気ぃすむようにしてあげるのが我らの役目……女の怨みは恐ろしいわな……身に染みなされ……)
くすくすと女の笑い声がした。それに続いてきゃっきゃっと笑う子供の声。
「な、なんだ?」
榎本は後ろを振り返った。
だが、何もいない。鏡に映ったのは上半身裸の間抜けな自分の姿だった。
「帰るか」
榎本はシャツを着た。ネクタイをして上着を手に取る。
「暑いな」
急に汗が噴き出してくる。背中が熱い。
よろよろとホテルを出て、すぐにタクシーに乗り込んだ。
背中が痛くなってきた。ずきんずきんと疼く。
体を丸めて膝を抱えるような姿勢の榎本に運転手が声をかけた。
「お客さん、具合、悪いんですか?」
「いや、大丈夫だ」
体を起こして、少し風を入れれば気分もよくなるだろう、と窓を少し開けた。
「な……なんなんだ!」
榎本が急に大声を出したので、運転手が驚いて車を急停止させた。
「何ですか! お客さん」
運転手が振り返る。榎本は自分の足下を見ていた。
榎本の足に赤ん坊がしがみついている。
金太郎のような前掛け一丁の赤ん坊だ。しかし赤ん坊は不自然に大きかった。
生まれたての赤ん坊のように見えるが、足下のシートいっぱいに体が詰まっている。
榎本のズボンの裾を引っ張っている。
榎本が下を向いているので、運転手が榎本の足下をのぞき込んだ。
「どうしたんですか?」
「き、君、これが見えないのか?!」
「はあ? お客さん、大丈夫ですか?」
運転手は不審げな顔で榎本を見た。
「お、下りる」
榎本は金を払ってタクシーから下りた。
だが、自分の足にはまだ赤ん坊がしがみついている。
「わ! な、なんだ!?」
足をぶんぶんとはらっても、カバンで振りはらおうとしても赤ん坊はびくともしない。
タクシーの運転手は一人で妙な動きをしている客をバックミラーで確認しながら車を発進させた。
「おかしな客が多くていけねえな」




