覚(サトリ) 2
「裕子ちゃん、今日、ご飯食べて帰らない?」
と声をかけられて、佐々木裕子は一瞬だけ詰まった。
「あ、すみません。今日は……」
「あらぁ。デート? 営業の青島君とつきあってるって本当なの?」
「え、えへへ。まあ、そんなとこです。スミマセン! 沙也佳先輩!!」
顔の前で手を合わせて謝る素振りをする裕子に沙也佳は唇を突き出して、
「しょうがないな、次は絶対つきあってよね!」
と言った。
「はい!」
佐々木裕子は24才、同じ会社の営業部の青島誠二とつきあっている。
両親にも紹介済みの中で、結婚話が現実的になって来ている間柄だった。
裕子は可愛らしいお嬢様タイプで青島は背の高い好青年だ。
「結婚決まったんだって?」
「まだ具体的な話はこれからなんですけど」
えへへと可愛らしく笑う裕子に沙也佳が肘でつついて、
「寿退社? また一人、あたしを残してやめてしまうのね!」
と言った。
「沙也佳先輩は仕事が出来るし、好きなんでしょう? 共働きって凄いと思います! 旦那様も理解のある方ですよね?」
「そうなの、あたしが有能なのが悪いのよ。旦那もそうね、家でずっと帰りを待たれてるのが苦痛な人なの。お互いの仕事は尊重しあって、協力していこうって話よ」
「でもそのおかげで先輩、凄いリッチですもんね? 夏休、冬休には海外で旅行しょ? いつもブランド品、セールじゃなくてプロパーで買いますもんね」
「まあね、それくらい楽しみがなくちゃ、やってられないわよ」
ロッカー室で着替えを終え、お疲れ様でしたーと元気よく出て行く裕子を見送りながら、沙也佳はバッグから携帯電話を取り出した。
「あー、もしもしぃ? あたし、沙也佳だけど。今日、会おうよ。え? どうして? ふーん、そっか。じゃあ裕子ちゃんにばらしちゃおうかなー。一時間だけあげる。いつものホテルで待ってるしぃ。じゃーね」
一方的に言ってから沙也佳は電話を切った。
「ふん、可愛い子ぶっちゃって、何なの」
西山沙也佳は35才だ。きつめの美人という表現が合う女である。
仕事はてきぱきと出来るし、お局と陰口を言われながらも発言力はある。
ただ残念な事に人の幸せが嫌いな女だった。
自分が不幸というわけではない。
結婚もして、正社員で働き、夫ともうまくいっている。
二馬力で働いてるので金にも困っていない。
それでもなお、幸せそうな女を見ると意地悪をしたくなる。
困ればいいのに、泣けばいいのに、と思う。
佐々木裕子は可愛いい後輩だった。
入社した時から先輩、先輩、と慕ってくる。
少しくらいの意地悪ではめげない健気な娘だ。
明るくて、楽しくて、顔も可愛いし、清潔でお洒落な服装。
上司に受けもよく、男子社員も最初は皆が狙っていた。
それを射止めたのが青島誠二だった。
残念な事は青島が見た目の十分の一ほども好青年ではなかった事だ。
沙也佳の誘いを簡単に受け、二人は不倫関係にある。
青島は裕子との結婚が決まれば、沙也佳と別れるつもりだった。
「沙也佳さん、裕子に変な事を言わないでくださいよ」
「変な事って何? 青島君が裕子とのデートをドタキャンして、あたしと寝てるってような事? あははは。裕子ちゃん、泣いちゃうんじゃない?」
沙也佳は裕子と青島のデートを邪魔してやってご機嫌だった。
青島は至急な仕事を言いつけられたと言い訳をして、裕子と食事だけして沙也佳の元に走った。
二人はベッドでお互いの身体をまさぐり合い、満足した所だ。
「沙也佳さん、俺、裕子と来年の春には結婚しようと思うんですよね。だから、こういう関係もやばいんじゃないですか」
「え? 今までばれてないんだから、大丈夫よ。それとも何? 裕子と結婚したらあたしとの事はなかった事にして、すました顔して裕子の旦那様におさまるつもりなの?」
沙也佳の言い方に険がある。
「いや、そういうつもりじゃ……」
「じゃあ、どういうつもり? 青島君って誠実な旦那様にはほど遠いわよーって裕子に教えてあげようっかな」
「沙也佳さん!」
焦った青島に沙也佳はふふっと笑った。
「やあねえ。冗談よ。冗談」
青島は疲れたような顔で枕にぼすっと顔を埋めた。
「でも、沙也佳さんとこは大丈夫なんですか? 旦那さんのご飯とか家の用事もあるでしょう。沙也佳さん、結構、夜遊びしてますよね?」
「うちは完全に折半だから。生活費も家事も。っていうか、旦那の方がマメで丁寧なのよね。あたしはあんまり家事とか得意じゃないの。だからほぼ外食だし、クリーニングだし、お掃除ロボ置いてるし」
「へえ、そうなんですか」
「青島君は? 家事とか出来るの? あ、でも裕子は専業主婦か。じゃあ、帰りをじっと待ってるわね。いいわよねー、専業主婦ってさ。旦那のお金でぐーたら出来て」
「え、でも……やっぱりそれなりに家の事をやってたら忙しいんじゃないですか」
「そんな事ないわよ。洗濯だって洗濯機が乾燥までやってくれて、デパ地下にお総菜買いに行ってればいいんだから」
「え、そうなんですか? じゃあ、仕事出来ますよね?」
「そりゃ、出来るでしょ。え、青島君じゃなくて裕子が専業希望なの? ちょっと厚かましいわねえ、あの子」
青島が自分の言うことを鵜呑みにしているのが面白かった。
主婦業が簡単だなんて沙也佳自身も思っていない。
毎日毎日、洗濯して掃除して料理して、むしろ苦行だ。
だが青島と裕子が揉めるのは面白い。
「うふふ」
と沙也佳は笑った。
「どうしたの? なんか元気ないわねぇ」
と沙也佳に声をかけられて、裕子は少しだけ微笑みを浮かべたが、すぐに悲しそうな表情に戻った。
「いえ……」
「ん? ほらほら、何かあったんでしょ? 言ってみなよ。楽になるかもよ。青島君と喧嘩でもしたの? どうせ犬も食わないってやつでしょ」
「違うんです。沙也佳先輩……」
「もう、じゃあランチおごっちゃうから元気だして! ね? ほら、お昼休みだよ。行こう!」
沙也佳に追い立てられるように裕子は席をたった。
会社近くの喫茶店で向かい合い、ランチを頼む。
「で? 何がどうしたの?」
裕子は気がつかないが、沙也佳の顔はワクワクしている。
「青島さん……他に誰か女の人がいるんじゃないかなって……」
「ええーー! それはないでしょう? どうしてそう思うの?」
「だって、最近、デートのキャンセルが多くて、いつも仕事だって言うんですけど、土日とか夜とか急にそんなに仕事なんか入ります? おかしいですよね」
「それはおかしいわね」
「ですよね? それに……」
「それに?」
運ばれてきたパスタランチに手を伸ばしながら沙也佳は先を促した。
(美味しい物を食べながら聞く、裕子の不幸話なんて最高ね)
「時々、ふっと匂うんです。香水か化粧品みたいな、かすかな香りなんですけど」
「へえ、青島君ねえ……本人に聞いてみたの?」
裕子は首を振った。
「いいえ、青島さんに浮気してるんじゃないかなんて疑ってるなんて知られたら……仕事が本当なら青島さん、そんな私を嫌に思いますよね?」
「まあね、でもっまあ、裕子みたいな可愛い彼女がいるのに浮気なんてあり得ないでしょ? 大勢の男子社員を出し抜いて、裕子を手に入れたのに今更浮気はないわよ」
「そうでしょうか……」
憂鬱そうな表情の裕子に優しい言葉をかける沙也佳は内心でほくそ笑んだ。
デートのドタキャンも香水も全て沙也佳が仕組んだ事だ。
デートをキャンセルさせ、わざわざ用意した新しい香水を青島の目を盗んで少しだけすりつける。
裕子の頭の中は疑惑でいっぱいだろう。
だいたい青島自身も高身長のイケメン、仕事も出来るので社内では人気が高い。
内面はともかく、外見的には申し分のない相手だ。
「それに何だか私も仕事がうまくいかなくて、少し早いんですけど結婚準備もあるし、会社を辞めようと思って相談したんです」
「え? 結婚はまだ先でしょ? 辞めるの早くない?」
「ええ……でも、私、最近、みんなに嫌われてるのかなぁ。声かけてくれるの沙也佳先輩だけで……青島さんにも相談したんですけど……甘えないで欲しいって言われて、本当は結婚後も子供が出来るまでは働くべきだって」
「あ、ああ、まあね。それは人それぞれだけど……青島君の給料で暮らしていけるなら、いいけど、確かに子供が出来るまでは共働きって多いわね」
「でも最初に結婚したら家にいて欲しいと言ったのは青島さんなんです」
「男って我が儘よね~~全く」
もそもそと冷えたパスタを食べ出した裕子を見ながら、沙也佳は内心大笑いだった。
裕子の仕事が上手くいかないのも沙也佳の仕業だった。
「結婚が決まって浮ついてるのかしらねえ。真面目な子だったのに」
と数名の女子社員の中でぼそっと呟いただけだ。
青島との仲を嫉んでいる女子社員がいるのも確かだし、そもそも裕子のような良い子は嫉まれやすい。人の噂話には加わらない、与えられた仕事にも文句を言わない、いつも笑顔で働く。たったこれだけの事だが、実際に実践するのは難しいからだ。
「沙也佳先輩、私、嫌われてます? 最近、声をかけてくれる女子もいなくて……私、何かしたのかなぁ」
「みんな、やっかんでるだけよ。青島君と結婚が決まった裕子の幸せが妬ましいのよ。気にする事ないわ。結婚しちゃえば、もうこっちのもんだしね?」
優しい言葉を吐きながら、沙也佳は本当に裕子の事を心配していた。
自分が裕子を陥れているのを自覚していながら、相談されれば親身になってやる。
優しい優しい先輩でいて、裕子の欲しい言葉を投げかけてやれば裕子はそれに縋り付いてくる。青島とうまくやっていけばいい、同僚とも仲良く出来ればいい、と沙也佳は本気で思っていた。
だが裕子が目の前にいなければとことん邪魔してやると思う。
泣きながら自分に相談してくればいい。
また優しい言葉をかける自分に酔える。
沙也佳は裕子に優しい言葉をかける自分が大好きだった。
「ちょっと、佐々木さん、会議室に出すお茶の準備をしておくように言っていたでしょ?」
「そうよ。全然出来てないじゃない! あなた最近、たるんでない? 結婚が決まったからって遊んでないでよ。お給料もらってるんでしょう。ちゃんとやって!」
「専業主婦になるんですって? いいわね。うらやまし。そうよね。出世しそうな男子社員を捕まえたんだもの。働くなんてばかばかしいわよね」
「青島さんも貧乏くじ引いたんじゃないの? お茶くみ一つ出来ない子と結婚なんて」
「専業主婦なんていい身分だよな。働くのは俺だけ? それってどうなの。ずるくない?」
「甘えてんじゃねえよ。ふざけんな」
クスクスクスクスと笑う声がする。
ゲラゲラゲラとも聞こえる。
裕子はいたたまれなくなって、その場から去った。
だが笑い声だけがどこまでも追いかけてくる。
クスクスクスクスと聞こえる。
ゲラゲラゲラと聞こえる。




