颯鬼と磯女 6
「月ちゃん、ちょっとお鍋の火を止めて、こっちへ来てちょうだい」
磯女に呼ばれて月子はカウンターの中から出てきた。
「この人ね、鴉のあにさん、刺青師さんなの。こっちはマネージャーの浅田ちゃん」
と磯女が二人を月子に紹介した。
月子は目をまん丸にして鴉を見た。
体中、余すところなく刺青が入っていて見るからに柄の悪そうな男だったので、月子は言葉も出ずにただ頭を下げた。
この店には磯女と鴉と浅田、そして自分の四人しかいないと月子は思っていた。
だが足下の狼のような大きな犬がぐるるるると月子に向かって唸った瞬間だった。
ぱーっと月子の目には大勢の何やら空中をふわふわと漂う者やテーブルの上の爪楊枝を剣のようにして戦っている小さい鬼の様な者達が視界に入った。
「え、え」
月子は小さい鬼のような者を見つめた。
いつも側にいる安田の悪霊とは違う。
えいえいっと言葉を発しながら爪楊枝で戦うその姿は何やらコミカルな感じだった。
「この世の中にはね、人間だけじゃなく、こういう者達も生きてるのよ。悪霊を背負った月ちゃんなら素直に信じられるでしょう?」
という声に振り返れば磯女が立っていた。
だがその顔はいつもとは違う、鱗だらけの肌、金色に光る瞳。手の指の間には水かきのような物が見える。
(ここにいるのはみんな仲間だ。人間との共存を選んだ妖は人間を助けたりもする。人間と我々は持ちつ持たれつという関係だ。だからお前みたいな執念と悪意だけの塊の霊魂はお呼びじゃないのだ。諦めてその娘から離れろ)
と犬神が言った。
犬神は牙を向いてぐるぐると月子の側の安田に向かって唸った。
その唸りが長くなり、犬神の姿勢が低く戦闘態勢に入った。
悪霊の安田はそれでも表情すら変えなかった。
犬神の攻撃態勢にも動じず、ただじっと月子を見つめるだけである。
犬神がぱっとその安田に襲いかかった。
牙を剝いて、安田の頭部の部分をぱくりと喰らった。
安田は悲鳴も上げず、何もしなかった。
ただ犬神に喰われるがままだった。
だがその瞬間に悲鳴をあげたのは月子だった。
身体の半身が引っ張られるように、歪んでいる。
犬神は月子の悲鳴にも構わず、安田の身体を咥えたまま月子の身体から引き離そうと力一杯引っ張った。
だが、どうしても安田の悪霊は月子の身体をがっちりと掴んで離さない。
「犬神、やめとけ。娘が死んでまうぞ」
と鴉が言ったので、犬神は無念ながら安田の霊魂を離した。
このまま犬神が安田を喰らえば、月子も同時に喰らってしまう事になる。
それは月子の死を意味し、むしろ安田の目的を達してしまうだけだ。
(むむむ、やはり無理か……しかしこのままでは遠くなく、この悪霊と娘は融合してしまうだろう)
と犬神が言った。
(打つ手なしってやつかー)
(困ったねー)
と爪楊枝で遊び飽きたのか、小鬼が空気を読まない発言をする。
月子がぽろぽろと涙をこぼす。
「どうして……こんな目に……あたしが……」
月子はこの先、生きるのも地獄、死んでも地獄である。
死んで悪霊に取り込まれた場合、輪廻転生も不可能だ。
憎い、悔しい気持ちのまま闇に堕ちて漂い続け、やがては安田を飲み込んでしまうほどの悪霊に月子自身がなってしまうだろう。
しかしこのまま生きていても、安田を背負ってただ日を過ごすだけである。
どちらにしても行き着く先は死しかない。
「颯鬼の旦那なら……なんとかなるでしょうか?」
と磯女が言った。
「あの方の鬼の妖力なら……?」
と磯女が呟いた。
「まあなぁ、力任せに引きちぎるのも一つの手やろうけど、その娘の魂にまで力を加えるとなると後遺症が残る可能性があるな」
と鴉が言った。
「それじゃあ……もう駄目なんですか」
その場にいる妖達もあんまり月子が気の毒でしんっとしてしまっている。
月子は泣いている。
悲しげに泣いている月子を見ても、安田は何も変わらない。
最初は確かに好意から始まったものだったはずだが、ただ今は執着だけである。
好きだったはずの月子が泣こうが叫ぼうが、安田にはどうでもよかった。
「そやけど、あんたはラッキーやで」
と鴉が言った。
「え?」
「月子っちゅう名前で良かったな、親に感謝せなあかんで」
「あにさん、どういう意味ですの?」
鴉はにやっと笑って、
「颯鬼は月子っちゅう名前の人間の女には格別優しいんや」
と言った。
「ええ?」
(何やて?)
(あにさんそれはどこの人間?)
とあちこちから怒気を含んだ声が飛んできた。
磯女、鬼子母神、青女房までが鴉のすぐ側にすっ飛んで来て、目の前に迫った。
「颯鬼の旦那とどういう関係ですの?」
(人間のくせに……颯鬼のだんなに色目を……)
(そんな話は初耳や……一体どこの人間が……)
「あ、いや、まあ、昔の話や。それに颯鬼はその女に振られてるしな。色男がザマァやろ」
けっけっけと笑う鴉の頭上に「ゴツン!」と拳が振ってきた。
「痛ぇぇぇ」
頭を押さえる鴉を睨みながら、
「余計な事を言うな」
と空間を割って颯鬼が姿を現した。
「クソ鬼! 痛いやんけ!」
「無駄口をたたくからだ」
「なんや、ほんまの事やんけぇ。黙って欲しかったら、早う酒飲ませろ」
けっと鴉は横を向く。
「そんで? 何やら打つ手があるんやろう? 皆、早うただ酒にありつきたいと待ってんのや。チンケな悪霊なんぞちゃっちゃとやってくれや」
鴉が月子を見た。
安田はやはり月子だけを見つめている。
膝つき合わせるほどの距離に血まみれの男がいて、ずっと自分を見つめているのだ。
笑いもしない、泣きもしない、怒る表情もしない。
ただただ、じっと見つめている。
「颯鬼の旦那……月子ちゃんの身体にまで入り込んでいるこの悪霊を取り除く事ができるんですか?」
と磯女が心配そうに言った。
「力任せはあかんでぇ。こいつ、魂にまで入り込んでるでぇ。無理矢理剥がすとこの娘の魂まで傷つけるでぇ」
と鴉が少しばかりちゃかすような声で言った。
颯鬼はふっと笑って鴉を見て、
「楽勝だな」
と言った。




