颯鬼と磯女 3
どうしてこんな事になってしまったのか分からない。
安田という男は会社の同僚というだけで、しかも、それほど親しくもない間柄だった。
通りすがりに挨拶をするくらいしか言葉も交わした事も無く、どこに住んでいるのかさえ知らない人間だった。
だから突然に食事に誘われた時は驚いたけど、彼氏がいるので、と一般的にはこれで相手も諦めてくれるだろうという断り方をした。
だけど安田は諦めるどころか、執拗に私の周囲をうろつくようになった。
アパート近くのコンビニや、駅、昼食を取りに出る喫茶店や、休日に行くスーパーにまで。そんなに遠くない距離からじっと見つめているだけなのだが、それは私の神経を逆撫でする。一日中見張られているような気がして、何も手につかなくなり友人に相談した。
しばらくは友人が一緒に行動してくれて、アパートに泊まりに来てくれたり大勢の中で私が過ごせるように仲間を誘って休日にも出かけるようにしてくれた。
大勢の中でいれば安心出来て、私は彼女に凄く感謝した。
ところがしばらくして、友人は駅で誰かに背中を押されて危うく線路に落ちかけるという目に遭った。それが安田の仕業かどうかは分かっていないけれど、私には彼が犯人以外には考えられなかった。
私は会社と警察へ相談したが、どちらも望むような答えはもらえなかった。
会社は個人的なトラブルを持ち込んできては迷惑だという感じで、警察で相談した年のいった太った警官は「あんたねー、自意識過剰じゃないのー? そういう相談多いんだけどねー、たいていがまあ気のせいだよ」と言われただけだった。
友人から離れたらまた安田が私の周囲に現れるようになった。
諦めたような私の態度に安田は今までよりももっと距離を短くした。
じっと見てるだけから、物を持ってくるようになった。
会社の机に、郵便ポストに。
私の好きなミュージシャンのライブチケット、花、チョコレート、本、ぬいぐるみ。
部屋にどんどんたまっていく好きだった物達の山。
私は好きな音楽も聴かなくなり、チョコレートも食べなくなり、本も読まなくなった。
捨てても捨てても贈られてくるそれらを見る度に、部屋の前に人の足音がする度に、私は胸が苦しくなり、汗が出るようになった。
いきつけの小料理屋さんはとても雰囲気のいい場所で、女将さんがすごく綺麗な人だった。夜のお店なのに私のような女が一人で夜ご飯を食べに行っても平気な店だった。
もちろん酔ってうるさい団体や気むずかしい常連さんもいたけど、女将さんはとても人あしらいが上手くて、どのお客さんもとてもそのお店が好きみたいだった。
一人でも大勢の中でいる事が安心出来て、私はその店に通った。
安田は私の後を追って一度店の中に入って来た。
カウンターの一番端と端の席に離れて座ったので、私はよそをむいてご飯を食べた。
安田も何か頼んで食べていたようだけど、週末の夜はたくさん人がいて、女将さん目当ての常連さんがカウンターにへばりついてお酒を飲んでいた。安田は首を伸ばしたり、姿勢を変えたりして私の方を見ていたが、それが安田のすぐ横のおじさんの気に障ったらしい、何をじろじろ見てやんで!と酔ったおじさんに絡まれて、汗をかいていた。
会社でもほぼしゃべらない安田が酔っ払い相手に上手く言い返せるわけもなく、おどおどとしてすぐに席を立った。
それから私は毎晩のようにそのお店で晩ご飯を食べるようにした。
そこには安田は入ってこなくなったから。
酔ったおじさんが怖いんだろう。
そこでご飯を食べる時だけがほっと出来る時間だった。
だけど結局、私の不用意な言葉が自分を窮地に陥れた。
久しぶりに安田が声をかけてきて、何か欲しい物はないか、と聞いてきた。
それも計算だったのだろう。
私は愚かにも彼の欲しがっている言葉を口に出してしまったのだ。
「死んで!」しか言う言葉は思いつかなかったし、それが望みだった。
けれど、彼ももっともっと私の近くで二十四時間一緒にいる為にはそれしかなかった。「分かったよ」
と言って安田は翌日、自死した。
「君の願いを叶えるのが僕の幸せ」という遺書を物して。
安田の幼馴染みだという女の子に襲われたり、警察にも事情を聞かれたり迷惑だけを残して彼は死んだ。
二度とつきまとわれる事がない、とほっとしたのは一瞬で、安田はまた現れた。
飛び降り自殺をしたというそのままの姿で。
顔中血まみれで、頭は割れていた。
それからずっと安田は私の側にいる。
二十四時間、寝る時もベッドの側で私を見下ろし、お風呂に入るときも浴槽のすぐ側で、トイレの時も目の前で。
血で汚れた安田の顔は今まで見た事もないような満足そうな顔で微笑んでいた。
「月ちゃん」
声をかけられて、花岡月子は振り返った。
「あ、磯女さん」
月子が振り返ると同時に月子に憑いている安田も振り返った。
安田の顔が少し歪むのは磯女を警戒しているようだ。
磯女はスーパーの袋を両手に下げていた。
これから夕方開店に向けての支度をするのだろう。
「暇ならちょっと寄っていかない? 美味しい和菓子があるのよ。美味いあんこを作る知り合いがいてね」
「あ、いいんですか」
「気にしない、気にしない」
日曜日、月子はふらふらと街を歩いていただけだ。
もちろん安田もお供のようについてくる。
部屋で二人きりでいるよりはあてもないが外を歩いている方がましだった。
「じゃ、荷物持ちます」
と月子が磯女の袋を一つ手にした。
「あらぁ、ありがとうね。荷物の一つも持てないような役立たずが側にいてもねぇ。側にいて掃除洗濯でもしてくれるならともかく、立ってるだけじゃねえぇ。本当、使えないわぁ」
と磯女が血だらけの安田を見ながらそう言った。
安田はいらっとしたような表情で、磯女を見た。
「あらぁ、悪霊風情があたしに何の文句がある? 悪霊になりたてのひよっこにすごまれる磯女さんじゃないよ。ひよっこなりに分かってんだろう? あたしの事は?」
と言い安田を見た。
白い磯女の肌がいっそう白くなり、光の加減によってその顔にも鱗がうっすら浮かぶ上がる。瞳の黒目の部分がにゅうっと細くなり、金色に光る。にやっと笑った、その喉の奥から先が二つに割れた細いベロがチロチロッと見え隠れする。
安田は嫌そうに顔を背けた。
そしてその姿を消した。
「消えた! 磯女さん、消えたわ! いなくなった!」
と月子が悲鳴のような声を上げた。
「いなくなったわけじゃないさ。そこにいる。ただ、月ちゃんの目には入らないようにしただけさ」
「でも……でも、見えなくなった……凄い……」
月子はぽろぽろと涙をこぼした。
「可哀想にねえ。あたしにこいつを追っ払える力があればねえ」
「ううん、ほんの一時でも見えなくなっただけで、う、うれし」
月子は涙を流しながら笑った。
「磯女さんって何か霊能力みたいなのがあるんですか? 何件もお祓いの所に行ったんだけど……全然、駄目だったのに」
「まあね、ちょっとばかりはねぇ。でも、人間の執着を断ち切るほどのもんじゃない。そんな事が出来るのは人間でもよほどの高僧でないとねぇ。街で小銭を稼いでるような霊能者じゃ駄目だろうね」
「そうですか……でも、何だか今日はいい気分、私、お料理とか手伝います!!」




