異国より
「物騒な事件が続いてるな」
と鴉が読み終えた新聞をテーブルの上にぽんと置いた。
「何だ?」
と向かいに座っていた颯鬼がその新聞を広げて見た。
「これか。女性惨殺される、三件目」
「ああ」
(知ってますわ……小鬼が美味しいごちそうに惹かれてのこのこ行ったら、虫の息のおなごはんだったってやつでっしゃろ)
と鬼子母神が呟いた。
「それでも死にかけの女の無念を喰って戻ってきたらしいけどな」
と鴉が言った。部屋の中から笑い声が響く。人間の悲惨な事件に遭遇しても、妖には何の興味もない。小鬼達にしてもたまたま居合わせただけで、女の発する無念、恐怖の情念をたらふく喰って戻って来たようだ。
(それでも小鬼達が言うには獣に喰われたような感じだったらしいですえ)
「獣?」
(そうです、人間が人間を殺す時のような刃物や毒や殴り殺すようなのではなく、生きたまま喰われたような、鋭い牙や爪痕を見たそうですえ)
「獣か……」
(けど、アレですわ。どうも娘はんの身体に乱暴したような跡もあるようなんで、やっぱり人間の仕業やろうねえ。それに、別の事件かも分からしませんけど、行方不明になってる娘はんも結構いてはるみたいやで)
と意外と情報通の鬼子母神だった。
そこへ、
「ちわーす」
と浅田が入って来た。
その瞬間に鴉の顔が浅田にはっと振り返った。
部屋の中にうろうろと顔を出していた刺青の柄である妖達もざわざわとする。
「浅田、妙なもんを拾って来たな」
と鴉が浅田を睨みながら言った。
「あ、えー分かりますか、やっぱりぃ」
と浅田が頭をかいた。
「これは懐かしいな。犬神か」
と颯鬼が微笑みながら言った。
「帰れ、浅田、お前も二度と俺の前にその面を晒すな!」
鴉が立ち上がった瞬間に、バチっと何かが弾けた。
浅田の身体は衝撃を受けて、部屋の隅まで吹っ飛んで行った。
ガラガラガラっと椅子や棚が崩れて、浅田の身体の上に落ちてきた。
「いやぁ、あにさん、勘弁やでぇ。わしは反対したんやでぇ」
といち早く浅田の背中から抜け出した青女房が言い訳がましく言った。
(あにさん!)
と浅田の前に飛び出して来たのは、枯れはてた声と薄汚れ元の毛皮が何色かも分からないような老いぼれた犬神だった。飛び出してきたはいいが、立っている気力もなく犬神は床にぺたんと倒れ込んだ。
(すまんです……浅田には無理を言って連れてきてもらいました……責めはこの犬神に)
「責めはって死にかけやんけ、犬神」
と鴉が言った。
「十年か、よくまだその姿を保っていられたな」
と言ったのは颯鬼。
がらがらとその辺りに散らかった物を押しのけて浅田も立ち上がってきた。
「すいません。話だけでも聞いたやってもらえたら……だってずっと俺のマンションの前で居座るんですよ! 俺が外に出たら尻尾振って俺の犬みたいな顔するんですよ! 管理人から動物は禁止やから出て行けって言われてるんです。勘弁してくださいよ~こんな大きなよぼよぼの汚い犬、何か病気でも持ってるんじゃないのかって、近所の幼稚園からも子供が怖がるって苦情言われてるし……」
ぷっと笑ったのは颯鬼だった。
「確かにこんなぼろぼろの大型犬がうろうろしてたら人間は嫌がるだろうな」
「でしょう。俺の飼い犬ではないって説明したら保健所に連絡されたんですけど保健所が引き取りに来たら姿を隠すんです。引っ越してもどうせついてくるだろうし、知恵があるからどうしようもなくて」
と言う浅田の横ではそろりそろりと鴉の身体から抜け出してきた妖達が犬神に話かける。
(久しぶりやなぁ……犬神、こないに痩せ細って、苦労したんやろうな)
(異国の地であにさんも仲間のおらんとこでよう頑張ったなぁ。あっちではあっちでおるんやろ? 異国の妖が……いじめられへんかったかえ?)
(いや、大丈夫だ。確かに向こうでは向こうの化け物をたくさん見たが、日本の妖の誇りは忘れん。俺は和の国の誇り高い犬神だからな)
やせ細って毛皮もボロボロ、よく見ると苔のような物が付着してやや緑色っぽくなっているしあばらも浮き出ているのに、キリッとした感じで犬神が答えた。
が、その瞬間にどかっと鴉の長い足が弱った犬神の身体を蹴飛ばした。
(キャイン!)
と悲鳴を上げて犬神もまた部屋の隅に蹴り飛ばされた。
「けったくそ悪い! 皆、死ねや!」
と鴉の怒りは解けないようだ。
(あ、あにさんを裏切ったことは申し訳ないと思っている! のこのここんな老いぼれた姿を晒す気もなく、遠い国で朽ち果てるはずだった。だが、聞いてくれ。異国の妖がこの国に来ているんだ。そいつは凶悪で獰猛なやつだ……十年前、あにさんを裏切ってまで守ったアンとその息子も奴に殺された。この老いさらばえた姿ではとうてい奴に適わず、生き恥をさらしに戻ってきた。どうしても、どうしても仇が取りたい。今一度、あにさんの力を貸してもらえたら、あいつさえ殺せばいいのだ。あいつさえ殺せば、その後であにさんにこの身を八つ裂きにされても構わない! どうか、どうか、俺に力を!)
必死にそう叫んで、犬神はまたその弱った身体を床に伏した。
鴉の足下に頭を下げて犬神はきゅーんと鳴いた。
(犬神ーかわいそうー)
(あにさん、冷たいよねー)
と空気を読めない小鬼達つぶやいた。
別に犬神の味方というわけでもないだろうが、よぼよぼで老いぼれた姿は見るに堪えないのだろう。最盛期の犬神はそれは素晴らしく逞しく、そして小さい者にも優しい妖だった。
鴉は犬神の懇願にも小鬼のつぶやきにも反応せず、そのままぷんぷんと怒気をまき散らしながら部屋を出て行った。
(はぁ~~~~)とその場に残った妖達はその場で息をついた。
浅田もどきどきしながら鴉が座っていたソファへ腰をかけた。
「兄さん、怒ってますよね。どうしよう、俺」
と颯鬼の方へ話しかけた。
「ま、ああいう態度で一度は怒っておかないとあいつも格好がつかないしな」
と颯鬼が言った。
「え、じゃあ、兄さんは犬神を許しますか? 兄さんを裏切って依頼人を殺したんでしょう? 何て言うか、そういう浮き世の義理に反するみたいなのは許されるんですかね」
「そういう人間的感情はいいな、参考になるぞ」
「え……そっか、裏切ったとか浮き世の義理とかいうのは人間的な感情なんすかね」
「そうだな。化け物達は信用とか裏切るとかいう概念がないからな。まあ、ここにいる奴らはわりと人間に近い場所で生きているからまだ理解しつつある。だが基本は持ちつ持たれつだ。こいつらはあいつに従順なふりをしてるが、ただあいつの妖力を食い物にしているだけだ。その代償に刺青の柄になって手助けをするだけでな」
「そんな事あらしまへんで。わしらはあにさんを好いとうからここにおるんや」
と遠慮がちに青女房が抗議をしたが、確かに鴉の妖力で生きながらえているのは間違いない。
「兄さんの妖力か……兄さんて人間ですよね……ね?」
と浅田が聞いた。
「そう思うか?」
と聞き返した。
周囲の妖達はしんとなって黙っている。
「え、違うんすか……まあ妖力があるって段階でちょっと普通じゃんないとは思ってましたけど。でも生活は人間と変わらないっていうか。姿が変化したり壁をすり抜けたりするとか見た事ないし。ってかまだ知り合ってそんなに立って無くて、あんまり知らないんですよね、兄さんの事。仕事の話くらいしかしないし、飯を食いに行くとか飲みに行くとかもしたことないんで」
鴉の事は何も知らないと改めて思った浅田だった。
「あいつは人間さ、半分な」
と颯鬼が言った。
「半分?」
「ああ、半妖ってやつでな。それで人間嫌いの妖嫌い」
「半妖……じゃあ、半分は人間で半分は……妖ですか」
「そうだ。納得だろう? あの妖力の高さに」
「ええまあ。あれだけの数の刺青を背負ってるんですからね」
鬼子母神を始めとした刺青の柄である妖が体中に棲み着いているのだ。普通の人間ならばとてもでないが命に関わる。
浅田はその半分の妖が一体何なのかを知りたかったが、さすがに聞くのをためらった。
颯鬼との対等な渡り合いを見ていると鬼族のような気がする。
妖力が高い事と、そして肌に飼っている妖に対する支配感が妖の頂点に立つ者の風格である。
「だがそんなに意地の悪いやつでもない。犬神にはああやって怒ったが、この十年、犬神の事を気にしていたみたいだしな」
「そうっすか」
浅田はほっと息をついた。
本気で怒って二度と来るなと言われたらのだったらと少しばかり不安に思っていたからだ。
「犬神が言っていた異国の化け物の事は俺も探ってみよう。他の地の者に大きな顔をされるのは我慢ならんからな」
と颯鬼が言ったので、浅田が颯鬼の方へ顔を向けるとすでにそこに颯鬼の姿はなかった。
(颯鬼殿、感謝します! かの者は攫猿と申す巨大な猿!)
床に這いつくばっていた犬神が顔を上げてそう言った。
「猿?」
と言った浅田に、
(そうだ、巨大で獰猛なオス猿。そして攫猿は人間の女をさらうのだ。攫猿に雌は存在しない。だからやつらは人間の女に種付けをして、オスの攫猿を産ませるのだ)
と言った。
(女をさらうって? まさか、今、起こっている事件に関わりがあるのかねぇ)
と鬼子母神が呟いた。
「事件?」
(そうさ、この新聞をお読みよ)
鬼子母神の差し出した新聞には凶悪な惨殺事件と行方不明の女性多数の記事が載っている。その記事をぱらぱらっと読んで、
「異国の化け物の仕業なら、人間の警察なんかに犯人を捕まえるなんて不可能だな」
と浅田が言った。
(俺が……奴は俺が必ず倒す! あにさんさえ許してくれたら、差し違えてでも倒すのだが)




