うたかた
夜空に桜の花びらが一枚、星の合間に現れた。
桃色のそれは水のなかのようにゆっくりと舞い降り、寝そべる私の鼻先を優雅に横切って、すぐそばの水面にはたりと着いた。
舟のへりに頭を預けた私は、少しずつ離れていくかたわらの花びらを、何とはなしに眺めていた。
不思議な充足感に満ちている。まるで小さいころ、目いっぱい遊び回った日の布団の中のような。
少しだけ深く息を吸う。なつかしい草花の香りが、私のなかを通り抜けた。
(あ…起こさないようにしなきゃ……)
胸の上の女性を思い出す。私に重なるように横たわる巫女服のひとは、幸いなにも気づかないようだった。
胸元に耳を当てるこのひとは、私の鼓動を聞いているのだろうか。あでやかな黒髪が私の上に流れていて、閉じられた目には満ち足りた笑みをたたえている。
…ああ、頬に触れたいな。
透けるような白い肌に。薄く紅をひいた唇に。そう思った私は、しかしこのひとを眺めるだけにした。
私の手は、眠るこのひとの細い手に包まれていたから。
湧き上がる愛おしさにいっぱいになって、舟の情景に目をやった。
遠目に続くぼんぼりの橙と、浮かんだ桜の桃金色。
鏡のように凪いだ水面に、桜並木とかすかな星空が映る。
…ここは、川なのかな。湖かな…。
ぼんやり巡る頭の中に、白く霞がたちこめる。
「ん…」
……ああ、このひとが起きてしまう。もう少しだけこうしていたいのに。
このとろりとした幸せなひとときを、貴女と一緒にいたいのに…。
「……食べ過ぎた……」
「………ハイ?」
意識が昇る。上へ、上へ…。
「………はかっ」
突っ伏した場所からびくりと顔を上げる。…ああ!なんてことでしょうおでこにハンドルの跡が…。
涎をぬぐって周りを見た。だいぶ深く寝てたみたいでなんだっけ。どうだっけ。
ああそうだ神社の近くの空きスペース…。軽自動車の運転席。
思い出してきた…。アパートを引き払って、実家の部屋を掃除して、保険証が新しくなって…。
落ち着いてきたから、約束を持ってきたんだった。助手席の白い紙箱、甘いやついっぱい。
「…ん?」
食べ過ぎたとか言ってなかったっけあいつ。
開いたケーキ箱の中には…。
「あー!!」
無い。きれいに無い。妙にテンションが上がってあれこれ買ったショートケーキやタルト、全6個のうち5個がない。ていうか最後に残った私のチーズケーキにさえむしった跡がある。
「あいっつ…!」
言いながら笑ってしまった。まあ最初からあげるつもりで買ってたし、どう渡すのか考えてなくて困ってたぐらいだし。それで悩んでるうちに寝ちゃったんだ。
「…はーぁ」
それにしても。なんかずいぶんいい夢見たなぁ。居心地よかった。
……ていうか、あんな感じのあいつ見たことあったっけ?…いや、無い。
あの夢の中の感じ、あの雰囲気は間違いなく神社にいるあいつのものだ。
いつも気がつくと連れ出されてて、さんざん遊びまわってどっか行くあのちびに違いない。なのに、なのに…。
ああ思い出したらどきどきしてきた。
いつものかっこはどうしたの。あの白浴衣。ばさばさ髪した、あのちんちくりんはどこいったの。
なにあの巫女服。つやっつやの髪。すべすべお肌。あんな、あんな綺麗で…、こ、好みのおねえさんになれるとか知らないよ私。
気を落ち着かせるためにチーズケーキをパクついた私は、とりあえず挨拶のために車を降りた。
がらんがらん。会釈のあとに二礼二拍手。
まあ、お供え気に入ってくれてよかった。でもそれで太ったってしらないからね。
あとあの格好びっくりした。調子狂うから、次会うときはいつものにしてよ。
だいたい何年越しの付き合いだと思ってるの。いまさら姿変えて化かそうとしたって、私にはあんただって分かっちゃうんだからね。どっちがほんとの姿かしらないけど!
だから今度会うときには!絶対!あの浴衣着姿で…
――ふふふっ。
「!」
おかしそうに笑う気配がした。可愛らしい子供を見やるような、手のひらの宝物を愛でるような。
いまだ静まりきらない私の心臓を見透かしたような笑い声。
「ほんとだからねっ!」
心のこもっていない形だけの礼をして、足早に境内を後にする。
色褪せた鳥居をくぐり抜けたとき、そういえばこの神社どのくらい前からあるんだろうなんて思った。
あとは、まぁ、またこのへんに住むわけだし、週一くらいでおじゃましてもいいかなって。
ほら!お世話になったからね!!
今回の着想を得た曲は平原綾香/蘇州夜曲です。