圧縮魔法書《アーカイブ》
明瞭な声音で放たれたその声は、一語一語、ナイフのように私に突き刺さった。
「レナド……」
一方で私の声は、まるで死に瀕した老婆のように細く嗄れていた。
「どうしてあんたがここに……」
レナドは微塵も崩さない無表情で中に一歩を踏み入ると、ろうそくの火で揺れる部屋の景色をぐるりと見回した後で、口の端をわずかに引いてスピカを見た。
「やはりガキも一緒だったな」
スピカが私のそばに擦り寄ってくる。しかし、私の異変に気付くと、目を大きくして私を見上げた。
レナドが私に視線を移し、それから私の手の中にある禁書に向けた。
私は弾かれたようにその本を背後に隠した。
「ち、ちがうの……、これは…………」
舌がもつれた。顎が恐怖でガクガクと震え、歯がかち合って不快な音を頭の中に響かせる。全身から血が抜かれたように力が入らなくなり、肺が潰されたように苦しくなって、何度も荒い呼吸を繰り返した。
その体の異常は、先ほど地下で禁書を手にした時と比較にならない。
「ごめんなさい……。許して……」
口が勝手に謝罪を漏らし、足が勝手に後退りを始めた。そして二歩を退がったところでバランスを崩し、私はそのまま背後の壁に背中を打ち付けた。
膝から力が抜け、お尻をつける。
あくまでも冷静で感情を表さないレナドの目が、ずっと私を捉えている。
私は必死に禁書を隠して、震え続けた。
レナドは鼻で小さく息をついて、また一歩を進み出た。
開け放たれたドアの向こうでは、火に揺れる明かりがいくつか見えた。ここは既に、レナドの部下たちによって囲まれている。
「勘違いをするな、スピネル」
レナドが言った。まるで、できの悪い子供を窘めるように優しい声使いだ。
「貴様の罪はそれを使うことだ。所持しているだけなら、俺は何もしない」
それからレナドは、一転して非情な目付きで私を見ると、
「──ただし、国外逃亡は別だ。その罰は受けてもらう」
と言って、さらに一歩を踏み込んだ。
「い、いや! 来ないで!!」
私は逃げられないのもわかっていながら、それでも足で床を蹴って後方へ逃げようとした。
レナドがゆっくりと近付いてくる。その右手は既に拳を握っている。
私は恐ろしくなって、暴れるように床を蹴った。目から涙が溢れて、でたらめな悲鳴を上げた。
だがそこで、小さな体が私とレナドの間に割って入った。
「……何の真似だ?」
レナドがスピカを見下ろす。
スピカは、両手を広げて黙ってレナドを睨み返していた。
「安心しろ、ガキ。貴様ももちろん、この女と一緒に連れ帰って罰を受けてもらう」
「ボクはただ、あの神殿に行きたいだけだ。お姉さんはただ、ボクをそこまで連れてってくれようとしているだけだ。お前たちには関係ない!」
スピカの言葉に、レナドは鼻息を吹かせる。
「この女は罪人だ。国外へ出ることは許されない。それに、一般人があの神殿に踏み入ることも罪とされている。貴様らはどちらも罪人として裁かれる」
「ボクはお前たちの国の人間じゃないぞ!」
「なら、不法入国でどの道裁かれるだけだ」
レナドが手を伸ばす。
スピカは抵抗しようとしたが、あっさりと胸ぐらを掴まれて持ち上げられた。
「離せ!」
スピカがジタバタと暴れる。
レナドが嘲笑うように見ていると、そこでスピカがレナドの顔面に唾を吐きかけた。
「貴様っ!」
レナドは激昂し、スピカを本棚に向かって投げ付けた。
派手な音を立ててスピカが激突する。床に落ちたスピカの上を、本が雨のように降り注いだ。
「スピカ!!」
私は慌てて這って近付く。本を掻き分けてその身を掬い出すと、スピカは苦痛に顔を歪めていた。
「これ以上の抵抗は許さん」
レナドは顔の唾を拭うと、腰に下げた剣を鞘から抜いた。
「死にたくなければ、大人しく言うことを聞け」
その目は鋭い怒りに澄んでおり、私は蛇に睨まれた蛙のように身を硬直させた。
しかし、そっとスピカの手が私の手を握って、私はハッとした。
「なんで邪魔するんだよ、お前!」
スピカが大声で叫んだ。
「いってぇな! ふざけんなよ! ボクは神殿に行くだけなんだよ! ボクが行かなきゃ大変なことになるんだよ! ボクだって大変なことになるんだ! なんでそれ、わかんないかな!?」
「何を言ってるんだ? 貴様は」
レナドが笑う。しかし、スピカは止まらなかった。
「お姉さんだって、ちょっと行って帰ってくるだけじゃん! それの何がいけないんだ!? そんなにそのアーカなんとかを使うのがダメなのかよ!?」
「……貴様は禁書の恐ろしさを知らない」
レナドが声のトーンを一つ下げた。目を刃のように細め、スピカを射殺すように見据える。
これまでとは質の違う、静かな怒り。
それも当然だ。スピカはレナドのタブーに触れた。
しかし、チャンスでもある。レナドの注意は完全にスピカに向けられている。
「前の文明を滅ぼしたってんだろ!?」
「この女は、その禁書を使って人を殺した」
「……」
スピカの勢いがピタリと止まった。
「それも、一人や二人ではない。──八人だ。八人もの死者を出し、三人の重傷者を出した。そしてその中には、この女の父親も含まれている」
「……あ。えっと……、それはなんて言うか……」
私はスピカの手をギュッと握り締めた。
お願い、頑張って。今は私を信じて。
そう願いを込めて。
「……きっと、何か事情があったんだよ。……うん」
「なら貴様は、いくらかの事情があれば人を殺しても良いと? それも、八人もの人間を」
「いや、まあ……、そんなことは言ってないけどね……」
「それに、貴様も言ったとおり、禁書は前文明を滅ぼした最悪の兵器だ。その存在は国によって管理されなくてはならず、その使用は国際的に原則として禁止されている。もし研究目的などで止むを得ず使用する場合は、周辺国の承認と監視を持って執り行わなければならない。個人の私情による使用などもってのほかだ。即刻極刑も辞さない大罪だ。外交問題にだってなる」
「だったら、なんでそんな物がここにあるんだよ!?」
「ここは恐らく、クラナガ博士が作った小屋なのだろう? クラナガ博士は、我が国の公認の学者だった。それ故、その一部は所有を許可されていた」
それからレナドは、忌々しげに部屋を見回す。
「……しかし、こんな所にこんな小屋を建てていたとは。それに、その禁書は我々が把握しているものではないな? そうなると、単純な所持であっても話は変わる」
そう言って、レナドが視線と剣を私に向ける。
「気付いているぞ、スピネル。ガキの背に隠れて何をしようとしている?」
私は肩をビクリと跳ね上げた。
「あの時使った禁書もここから持ち出した物だな? あれも報告にはなかったものだ」
それから、レナドは急に悪魔のようにいびつな笑みを浮かべる。
「いいぞ。使いたければ使え。だがその時は、……わかっているな?」
全身が震えた。もちろんわかっている。
その時は……。
スピカが心配そうに目を寄越した。
「お姉さん……」
「大丈夫。続けて」
私たちは小声で話した。
「でも……」
「大丈夫。お願い……」
懇願する私に、スピカは一瞬悩んだ様子を見せるも、視線をレナドに戻した。
レナドは少しの間私たちを見下していると、やがて気を取り直したように歩を進めた。
「連行する」
「あー、待った待った! ちょっと待って!」
スピカが両手を振って訴えた。
「もういい。くだらないおしゃべりは終わりだ」
レナドはスピカに手を伸ばす。──だが。
「あー、うん、あれだ……。その……、そう、そう!」
何か閃いたようだ。ポンと手を打つ。
「そんな大罪を犯したってんなら、じゃあどうしてお姉さんはまだ生きてるのさ!?」
今度はレナドが動きを止めた。
「おかしいじゃないか! そんな、極刑も極刑の、ド極刑にも相応しいことをしておきながら、お姉さんは牢屋にも入れられてなければ、殺されちゃってもないじゃないか!」
スピカの叫びに、レナドがはっきりと歯噛みをして不快に顔を歪めた。
上手い。私はスピカの頭の回転の良さに拍手を送りたい気持ちになった。
「こんな国外脱出も許しちゃうぐらい自由にさせて、随分と矛盾してるんじゃないの!?」
「……うるさい」
レナドは言葉を継げない。不快を露わにしてスピカを睨んでいる。
だけど、その訳を私は知っている。
私だって疑問に思っていた。しかし、少し考えれば簡単に分かることだ。
そしてそれは、レナドの意に大きく反するものだから、ここでレナドは言葉を継ぐことができない。
「やいコラ! なんとか言ってみろ!」
スピカが声を荒げる。
あ、バカ。
さっきのは良かったけど、ここでそんな追い打ちを掛けたら……。
「黙れ!!」
突然レナドが剣を突き出した。
「どわっ!?」
それを間一髪、スピカがかわした。
剣が本棚に突き刺さり、また何冊かの本が落ちた。
レナドが剣を抜き、再び突き出そうと構えた。氷の瞳がまっすぐにスピカを捉える。
もう何も待たず、この場で即、スピカを殺すことに決めたようだ。
だけど、スピカのおかげでこっちも準備ができた。
私は開かれた圧縮魔法書の一箇所に指を触れさせる。
そして、そこに書かれた文章をなぞるようにしながら、声高に叫んだ。
「チャプター3、『旅立ちの翠竜に捧げし、乙女たちの祈り』、解凍!」
すると次の瞬間、圧縮魔法書が眩い光を放ち、その周囲に風を巻き始めた。
「なんだ!?」
レナドが言った。スピカも驚いて私を振り返る。
三人の髪や服が踊る。
私は空いた片手をスピカの腰に回すと、その身体を力一杯抱き寄せた。
「目と口を閉じて、頭を低くして!」
風はどんどん強くなる。ろうそくの火を消し、本棚や床の本を騒がせ、やがて本棚や机、さらには小屋全体を大きく揺すり始めた。
轟音で耳が聴こえなくなる。飛ばされた本が身体にぶつかった。
この状況を驚きと興奮の面持ちで見ていたスピカも、次第に目を開けていることすら困難になり、もう一度同じ言葉を叫んだ私に従って身体を丸めた。
足を踏ん張って耐えていたレナドも徐々に耐え切れなくなり、限度を知らず強まる風についには身体を弾かれ、開け放たれた入り口から外へと飛ばされた。
風が暴れる。
まるで竜が飛び立とうとするように。
私たちを中心に。
大きく咆哮を上げるように。
そして、膨れ上がった風の力に負けて、小屋が内側から崩壊を起こした。
屋根が外れ、本や家具と共に壁が彼方へと吹き飛ばされていく。
私たちの頭の上に、再び夜の世界が開けた。
四方から悲鳴のような声が聴こえる。それはレナドの部下たちのものか。
漆黒の森が風に踊らされ、合唱している。それがまるで、私たちを見送る歓声のように聴こえる。
私はスピカを抱えて立ち上がった。
それから軽く地面を蹴ると、私たちの身体は天から引っ張り上げられたように、一気に空へ舞い上がった。
「ひゃーーーー!!」
轟音に巻かれていても、スピカの悲鳴はうるさいぐらいによく聴こえた。
どれぐらいの高さまで昇ったのか。
上を見れば満天の星空。
眼下に目を向ければ、少し離れた先に点々と浮かぶルコル王国の明かりが見える。
それ以外は一切の闇だ。
私は月の位置から目指すべき方向を見定める。
「禁書を使ったな! スピネル!!」
微かだが、下からレナドの声が届いた。
それは本当に微かに聴こえた程度だったが、しかしはっきりと歓喜に打ち震えるレナドの感情を私に伝えた。
身体を神殿のある山の方へ向け、もう一度見えない壁を蹴るように足を後ろへ突き出した。
私たちは風に運ばれるように空を。
その数十キロメートルを飛んでいる間、私の耳はずっとスピカの歓声を拾っていた。




