クラナガ博士
夜になって私たちは家を出た。
外は真っ暗。平民街の方はぼんやりと明かりが見えるけど、こっちの貧民街は見事に何の明かりもない。
おまけに、とても静かだった。何もすることがないし、できないから、今は誰もが眠りに就いている時間だ。
空は晴れていて、見上げれば満天の星空が広がっている。丸い月が白く光を放ち、そのおかげでかろうじて足元が見えた。
私はスピカの手を引いて、貧民街を城壁の方へと進んでいく。
「ねえ、やっぱりやめない? ボク、嫌な予感しかしないんだけど」
スピカはまだぐずっていた。
「何となくだけど、お姉さん、今リスクを払ってるでしょ? とても危ないことをしてるんだってことぐらい、ボクでもわかるよ。お姉さんにそこまでしてもらう気はないし、ボクの目的は無事に神殿にたどり着くことなんだ。もっといい方法を探すべきだと思うよ」
「いい方法って? 誰か他に請け負ってくれる人を探す?」
「うん、無理だと思う。神殿には普通の人は行っちゃいけないんでしょ? きっと誰も請けてくれないよ」
「じゃあ、どうする? もう一度城に行って交渉してみる?」
「それも難しいだろうね」
「レナドになら掛け合ってあげられるけど」
「あいつは嫌いだよ。どんな理由があっても、食べ物に蹴りをくれるやつなんて信用できない」
「あのね、この国に来ちゃった時点で、何かしらリスクは付くの。わかるでしょ?」
「まあ、それは……なんとなくは」
「それにね、これは私のためでもあるの」
するとスピカは、何かを案じたように声を小さくする。
「……実はそれが一番の心配の種だったりするんだ」
だけど、私はあえてその言葉を無視して、先を急いだ。
真っ暗な中を進んで二十分ほど。私たちは城壁のある場所までたどり着いた。
私たちの目の前に、真っ黒の壁が聳え立っている。それはもちろん夜だからそう見えるんだけど、容易には超えられない高さのそれを前にすると、思わずウッと息の詰まる思いがする。
「どうするの?」
スピカも壁を見上げている。これをどう超えるのかと訊いているのだろう。
「こっち」
しかし私は、壁には目もくれずにスピカの手を引いて歩き出す。
目印はおにぎりの形をした大岩。
城壁と岩の間に別の小さな岩があって、それを木の棒で、てこの原理で動かす。
するとそこに、地面に空けられた穴が顔を覗かせた。
「わぉ。プリズンブレイク」
スピカが言った。よくわからないけど、感心したってことだろう。
「入って」
スピカを先に入れて、私はカモフラージュ用の草の束で穴を隠しながらそれに続く。
穴は城壁の外まで続いている。
大罪人としてこの貧民街に連れてこられてから、およそ九年。監視の隙を見てはこっそり掘り続けたものだ。
だけど、これは決して逃げるためではない。
私は自分の罪から逃れるつもりはない。
この穴は、ある大切な場所へ行くために掘ったもの。
私はそれを、一つの償いと思ってやっていた。
城壁の外に出ると、星空が一層広く感じられた。
空気が美味しく感じられ、身も心も一気に軽くなったように感じられる。この国がいかに窮屈なのかがよくわかる。
「うっひゃあ。こりゃすごいや」
スピカが両手を広げて、夜空に向けて盛大に息を吐き出した。そう言えば、スピカはどうやって国の中に入ったのだろう?
「んで、ここからどこへ行くの?」
そう言って、きょろきょろと辺りを窺う。
「真っ暗で何も見えないと思うけど、ここを真っ直ぐ歩いた先に森があるの。目的の場所はその中」
手前は草原。その向こうに、今は黒い影の塊にしか見えない森が広がっている。
「ねえ、知ってる? 夜の森って危ないんだよ」
またぐずり出した。
「知ってるよ。大丈夫、何度も行ったことあるから」
「何度も行ったことがあったって、今回も大丈夫だって言う保証はないじゃん。急に野犬にガブリってされたらどうするのさ?」
「ガブリってされたら、その時は諦めて」
「ええーっ!?」
「ほら、行くよ」
スピカの手を取って歩き出した。
足元と動物の気配に注意しながら、静かに進んでいく。
スピカの手が、私の手をぎゅっと握っていた。
……私だって、夜の森に入るのは怖い。この草原だって、何度歩いた経験があったって恐怖がなくなるものじゃない。
だけど、スピカが代わりに怖がってくれているせいか、今は不思議と怖くなかった。
あるいは、この手に伝わる感触が、勇気をくれているのかもしれない。
誰かと手を繋いでこの道を歩く。
そんな日が来るなんて夢にも思わなかった。
森に入ると、闇はまた一段と深くなった。
まるで、奥で巨大な怪物が大口を開けて獲物が入ってくるのを待っているかのように、そこには異様な不気味さが広がっている。
風が吹くと木々がざわめいて、その不気味さに拍車を掛けた。
「やっぱり引き返さない? 今ならまだ間に合うと思うんだけど」
「シッ。声出すと、動物を起こしちゃうよ」
「どうせ足音がしたら起きちゃうよ。そうしたら、ちょっと夜食をって感じでボクらをガブリってしにやってくるんだ。……ああ、そうだ。風上はどっちかな?」
スピカは指を舐めて、風向きを測り始めた。
私はそれを無視して、暗闇に目が慣れるのを待った。
わずかながらでも月明かりは届いている。しばらくすると、影に濃淡が生じてかろうじて道が見えてきた。
「風はどう?」
「うん。こっちは風下みたい」
「じゃあ、一気に行っちゃおう」
「オッケー」
どっちが風下だって関係ないように思うけど。まあでも、スピカが行く気になってくれたので良しとする。
そうして、足を引っ掛けたり木にぶつかったりしないよう気をつけながら、三十分ほど進んだ。
見えたのは、古い木造の小屋だった。
ちょうど地面が大きく窪んだところにあって、誰かが周囲から隠して建てたのだということが一目でわかる。
斜面を滑り、小屋の前に立つ。中は当然真っ暗だ。
「すごいね。こんな所で暮らす人がいるなんて」
「誰も住んでないよ。そもそもこれは、住むために建てた小屋じゃないの」
「じゃあ、何のため?」
首を傾げるスピカを置いて、私は小屋の右側へと回る。
「ちょっとちょっと! 手、離さないでよ!」
スピカが慌てて私にくっ付く。これだけ暗いから、二メートルも離れたら姿は一切見えなくなる。
服の背中を掴むのをそのままに、私は小屋の側に落ちた岩を一つ転がす。その下にドアの鍵を隠していた。
正面に戻って、ドアを開ける。
ここに入るのはどれぐらい振りだろう?
少しかび臭い匂いがした。中に入ってドアを閉めると、今度こそ何も見えない真っ暗闇がそこに広がった。
「何も見えない」
わかっていることをわざわざ言ってくれる。
私は手探りでロウソクを探す。道具を置いた場所は全部覚えているから、すぐに手がそれに触れる。
火打石を使って火を点けると、部屋に温かな光が生まれた。
「おー」
スピカの顔も何時間か振りによく見えた。ようやくほっとしたように笑顔を浮かべている。
ロウソクをガラスの器に入れ、それを三つ用意して部屋の各所に置く。それで部屋全体が見えるだけの明るさが確保できた。
壁を埋め尽くす大きな書棚と、古い木製の机。それだけが置かれた簡素な部屋だ。
「すっごい! 何ここ? 本がたくさんある」
スピカが口を開けて部屋を見回す。そこでふと私に目を向けると、
「……ねえ、ボク、さっきから『すごい』ってばっかり言ってる?」
そんなことを言った。
「うん、言ってる」
私が素直に答えると、スピカは何故か「くっそう!」と悔しがった。
「覚えておいてよ! 神殿に行ったら、今度は絶対お姉さんが『すごい』を連発するんだから! ひっくり返って驚くんだからね!」
「ああ、うん、そう。わかった。覚えておく」
スピカは「よし」と満足そうに頷いた。
「──んで、ここは何?」
私も部屋を見回して、それから一つ、大きく深呼吸をする。
ここに来るとすごく気が落ち着く。
無条件に嬉しくなる。
本当は私に来る資格なんてないんだけど……。
それでも、ここは私に残された最後の〝居場所〟だった。
「ここはね、クラナガ博士の研究室だよ」
顔は自然と微笑んでいた。
「クラナガ博士?」
「そう……。私の、父だった人」
家の外は、夜の森のシンとした静寂に満ちている。
「父だった人?」
スピカはきょとんとした顔を横に傾けた。
「うん」
「なんで過去形なの?」
「それはだって……、もう死んでるから」
「……おおう」
スピカはばつが悪そうに顔をしかめた。
私はスピカの頭を撫でると、書棚から一冊の本を取り出した。
「それは?」
私が差し出すと、スピカは興味深そうにその表紙を覗く。
「〝魔法〟って知ってる?」
「知らない。何ソレ?」
即答……。まあでも、仕方ない。
「簡単に言うと、奇跡を生み出す術のこと」
「奇跡?」
「そう。例えば、火打石もないのに火を起こしたり、水もないのに氷を作り出したり、声を遠くまで飛ばしたり、重たいものを軽くしたりって、そういうの」
「へぇ、それはすご……」
スピカは両手で口を塞いで、意思だけ示すように二度頷いた。
「これはね、その魔法について書かれた本」
「見せて」
本を受け取って、ペラペラと捲る。だけど、すぐに眉を寄せてギブアップの表情を見せた。
「全然読めない……。ボクの知ってる文字と全然違う」
「そうなの? 少し古い文字が使われてるけど、世界標準だよ」
「ボクの好みじゃない」
「どういうことよ」
「だけど、わかったよ。お姉さんはそのマホウってのが使えるんだね? それでボクを神殿まで護衛してくれるってことだ」
私は返答を躊躇った。
「……違うの?」
スピカが不安げに私を見上げる。
「ううん、違わない……。だけど、ちょっと待って」
「うん……?」
心臓の動きが速くなって、呼吸が苦しくなった。それを誤魔化すように、私は話を始める。
「あのね、クラナガ博士ってのは、ずっとその魔法と、魔法が使われていた文明を研究していた人なの」
「うん……」
スピカの案じた声。私は微笑んで心配ないことを示す。
「魔法文明って言って、……まあ、そのまんまなんだけど、さっき言った魔法を使って、人々が今よりずっと豊かな生活を送っていた時代について調べてたの」
「へぇ、初めて聴いた。そんな時代があったんだね」
「うん。まあ、知らない人は知らないから。──三百年以上も昔の話だし」
「でも、じゃあ、どうしてみんなそのマホウを使ってないの? 見たところ、誰も使ってないよね? この国はだけど、すごく豊かって感じでもないし」
「もう使えないからね」
「えっ? でも……」
「そもそも魔法は、精霊って存在の助けが必要なの」
「セイレイ? なんだ、また知らない単語が出てきたぞ」
「精霊は、この世界を守ってくれるもののこと」
「ほう」
「実は魔法文明の前にカガク文明って言うのがあったんだけど、そこで人類は大きな過ちを犯して、世界を壊しそうになったの」
「あー」
「精霊って言うのは、この世界ができた頃から存在していたとされてる。でも人の前には姿を現さないで、ずっと世界の裏でひっそりと守ってくれていたの。ところが、カガク文明の過ちで世界が大きくダメージを受けて、精霊たちはひっそりしているわけにもいかなくなって、表に出てきたの。それで、壊れた自然を治してくれて、再び人や動物が住める世界に戻してくれたの」
「うー」
「魔法ができたのは、その後。さっき言ったような魔法が起こす奇跡は、そのままずばり精霊の力なの。人がある特殊な言語によって精霊にお願いをして、力を貸してもらうことで実現していたものなのよ」
「おー」
「……大丈夫? 理解できてる? ごめんね、説明が下手で」
「だいじょう……ぶ……」
「これはただの前置きみたいなものだから。わからなかったら、聞き流してくれていいよ」
「オッケー。じゃあそうしよう」
「……」
……まあいいか。
「──だけど、せっかく精霊が現れて魔法を授けてくれたのに、人はまた過ちを犯した。せっかく生活が豊かになったのに、魔法で狂気の発明をして、また世界をダメにしちゃったの。その発明はカガク文明の時より罪深くて、一説にはその発明のせいでこの世界の精霊たちは死滅してしまったとされている。もしかしたら、単に愛想を尽かしていなくなったってだけかもしれないけど。……いずれにしても、だからもう、人類は魔法を使えないの」
「……ひゃー」
スピカは驚きと軽蔑を浮かべた表情で首を横に振った。
その気持ちはよくわかる。私もこの歴史を知った時は同じような反応をした。
「あれ? でも、お姉さんはマホウでボクを助けてくれるんだよね?」
「うん」
「だけど、もう人間はマホウを使えない……。ムムム。これ如何に?」
スピカは腕を組んで考え込む。だけど、程なくして顔を上げた。
「──その、狂気の発明ってのは何?」
私は笑顔で頷いた。本を棚に戻して、机の椅子をどかす。
その足元に嵌め込みの板があって、それを外すと床下の物置へと続く階段が現れた。
「おわっ、す……」
と言い掛けて、スピカはまた口を押さえる。右手の親指と人差し指で輪っかを作って、掲げて見せた。たぶん、「すごい」という意思表示なのだろう。
「ここで待ってて」
そう言って、私は明かりの一つを手にする。
「なんで? こんな面白そうな場所なのに。ボクも下りたい」
「下は狭くて埃とカビだらけだよ? それでもいいならおいで」
「うん。ボクはここで待っているとしよう」
私はどうとも反応せず、一人階段を下りた。
一段、一段と下るごとに、胸に懐かしさがこみ上げてくる。九年以上も前、私がまだ幼かった頃、ここは私にとって遊び場の一つだった。
しかし、それとは別に、一段ずつ下るごとに胸を締め付け、頭を苛むものが生じる。
すべてはこの物置にあるものから始まった。そして、あの日以来、二度とあれを使うことはないだろうと思っていた。
しかし、私は今、その封印を解こうとしている。
それは一体、何のため?
誰のため?
階段を下りると、そこはスピカに告げたとおりの埃とカビが支配する空間。広さは、幅三メートル、奥行き四メートルぐらい。天井が低く、膝立ちでないと頭をぶつけてしまう。
壁の一辺に小さな棚が置かれていて、そこにノコギリやバケツなんかの道具が並んでいる。棚の向かいの壁沿いには大きな木箱が三つ並んでいて、その中にも様々な道具や雑貨が収められている。
そして、真っ直ぐに進んだその一番奥。目的のものはそこにある。
鉄でできた重厚な箱。しかし、鍵は掛けられていない。九年前に開けてそのままになった錠がその脇に転がっている。
私は重たい蓋を押し上げた。
その箱が大きく口を開くと、そこには二冊の本が鎮座しているのが見える。
一冊ずつが石でできたように厚くてずっしりとしている。厳格な装丁。この物置にあるあらゆる物が埃とカビに侵されているのに、この二冊の本だけは作られた時とそう変わらないであろう姿でそこに存在している。
それは私がこの小屋へ来るごとに手にするから、と言うこともあるが、それだけではない。この本はただの本ではないのだ。
片手では容易に持てないその一冊を、私は手にする。表紙、裏表紙を確認し、適当にパラパラと捲ってから、背表紙を見る。
そこには前文明の文字で、『シルフ』と書かれている。
心臓が壊れそうなほどに大きく暴れ始め、全身に悪寒と震えが走る。視野が狭まり、不快な汗が噴き出す。
この本は、現文明の中で〝禁書〟と呼ばれている。
私はこの〝禁書〟を、使う目的で今、手にしているのだ──
階段を上がっていくと、スピカが待ってましたとばかりに笑顔を向けた。
「本?」
私の手の中の物を見て、スピカが言った。
「また本? それとも、これが?」
私は頷いて、それから禁書をスピカの方へ向けて差し出した。
「そう。これが〝狂気の発明〟。──圧縮魔法書だよ」
「アーカ……なに?」
「いや、圧縮魔法書ぐらい聴き取れてよ……」
スピカは私の言葉を無視して、禁書に手を触れさせる。
「開いていい?」
「うん」
さすがのスピカも禁書が放つ異様な空気を感じ取ったのだろう。いつになく慎重な面持ちで禁書のページを開いた。
「……なんじゃこりゃ」
開口一番、そう呟いた。しかし、無理もない。
「さっきの本も大概読む気を無くさせてくれたけど、これはそれにはるかに勝る意味不明さだね」
スピカの言い分は正しい。そこには文字と言うより、何かの記号のようなものがびっしりと並んでいる。これは私でさえもまともに読むことはできない。
そもそもこれは、人間が読むための物ではない。本の本質である、人に何か情報を与えるものではないのだ。
「これはね、かつてこの世界に存在した魔法を一冊の本の形にして、保存と携帯を可能にしたものなの。そしてこれが、現在この世界に残された最後の〝使用可能な魔法〟……」
私が言うと、スピカがその容姿にそぐわぬ神妙な表情で私を見た。
するとその時──
突然ドアが開いて、私に絶望を告げる声が響いた。
「そうか。やはり貴様は隠し持っていたんだな、スピネル──」
開け放たれたドアに代わるように。
レナドがそこに立っていた。




