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スピカ

 例えば、ふとした瞬間に急に懐かしい記憶が頭に蘇るのは、風がいたずらに運んだどこか遠い土地の土や草の匂いを嗅いだ時だったりする。


 例えば、唐突に寂しい感情に心を揺るがされたりするのは、大切だった人の仕草を偶然にも他人が取っているのを目にした時だったりする。


 人は何かちょっとしたきっかけがあると、急にモノクロだった景色に色を取り戻すことがある。自分と自分のいる場所を俯瞰して、いつの間にか狭まっていた視野がパーッと開ける瞬間が訪れることがある。


 後になって振り返れば、この時の私がまさにそうだった。


 部屋の中にいた男の子を見て、いつの間にかこの国と、城壁の外にあるあの大切な場所との二点間だけになっていた私の世界が、そこで一気に開かれた。



 だけど、この時はまだそうした認識はなく、目の前の出来事が何であるのか理解できずにただ固まっていた。



 その男の子は、六歳から八歳ぐらいに見えた。やわらかそうな栗色の髪に深いオリーブ色をした瞳、白い肌、顔立ちはいかにも無邪気で可愛らしい男の子って感じで、この国にはない珍しいデザインの服を纏っている。


 袋を担いだまま立ち尽くしている私を前に、その子も大きな目をさらに大きくして私を見ている。


 誰? ──まず思ったのはそれ。


 どうしてここに子供が? ──次はこう。


 それからふと嫌な予感がして、背後を振り返る。そして、まさかと思う。


 すると、しばらく私を観察していたその子も次第に動きを取り戻し始めて、「……あっ、よかった。ボクを追っかけてた人たちじゃないね」と言った。


「へへっ……。ラッキー、若いお姉さんだ」


 そう言って、にへらと笑った。


 だけどそこで、遠くから馬の蹄の音が近付いてくるのが聴こえた。

 音は真っ直ぐにこちらへと向かってくる。


 嫌な予感的中。男の子は顔を真っ青にして私に助けを訴えた。


「その袋に入って隠れて!」


 私は咄嗟に、部屋の隅の空っぽになった食料袋を指差した。

 男の子は猫のようにすばしっこく動いて、袋を頭から被った。

 その上に覆い被せるように、私は持っていた袋を投げる。


「むぎゅっ!」


 これでひとまずは隠れたか。


 馬のいななきがして、蹄の音がやんだ。

 振り返ると、既にすぐ目の前にその人物は立っていた。


「邪魔するぞ」


 そう言って、私の返事も待たずに部屋の中へと入ってきた。


 金色の髪に精悍な顔立ち、長身の体には豪奢な甲冑を纏っている。若くして国王直属の近衛騎士団の団長となった男で、名をレナドと言う。


「何しに来たの?」


 私が言うと、レナドは部屋をぐるっと見回した後で、鋭い視線をこちらに浴びせた。


「ガキが一匹、迷い込んで来たはずだ」

「知らない。ここにはいないよ」


 レナドはジッと私を睨みつける。それはハンサムで人の良さそうな顔には似合わない、氷のように冷たく、人を刺すような目だった。


 その目が離れたと思うと、レナドは再びゆっくりと部屋を見回す。


 そして、膨らんだ食料袋に目を止めると、おもむろにそこへ蹴りをぶち込んだ。


「!!」


 私は飛び上がるほどに驚いた。声を出さなかったのは奇跡に近い。


 重たそうな鉄靴が袋を突き破り、足を抜くと中からパンや干し肉などがこぼれ落ちた。


「やめろ! 私の食料だ!」


 叫んでレナドに飛び掛かった。だけど、手が触れる前にあっさりと殴り飛ばされる。そのまま床に派手に転がった。


「勘違いするなよ、スピネル」


 レナドは私の胸倉を掴んで引き上げる。


「大罪人の貴様に人権はない。こんな物でも、与えられるだけありがたく思え」


 そう言ってレナドは、こぼれ落ちたパンの一つを足で踏み潰した。

 私が怒って睨みつけると、レナドは口の端を吊り上げて笑いを吹かせた。


「いい目だ」


 両手で私の頭を掴む。指でまぶたをこじ開けようとしたので、私は思いっきり顔を背けた。


 平手打ちを喰らった。


 転がった私を再度掴み上げて、今度こそ指でまぶたをこじ開ける。

 医者の無感情な目とは違う、心の底から冷えて固まった氷の悪魔のような目が私を捕らえた。


「いい色だ。どうやらまだ〝禁書〟は使っていないようだな」


 私の頭をぐりぐりと動かして、乱暴に眼球を覗きこむ。

 医者にやられるのも大概気持ちが悪くて嫌だが、こいつにやられるのはまた違った意味で吐き気がする。


「〝禁書〟をくれたら、すぐにだってお前を吹き飛ばしてやる」


 そう言って手を払うと、それで私は解放された。

 レナドはそのまま、しばらく黙って私を見下ろした。私もその目をジッと睨み返す。


 やがてレナドは私を嘲笑うように鼻から息をこぼすと、


「その時を待っている」


 そう言って、一瞥をくれて部屋を去っていった。




 馬の音が完全に消えるのを待って、私は食料袋に飛びついた。

 慌てて食料の詰まった方をどかし、空っぽだった方の口を開ける。


「大丈夫!?」


 声を掛けると、中から「うーん……」と声が聴こえた。

 急いで袋を取り去ると、男の子は手で胸の辺りを押さえていた。


「あぶなかった……。もうちょっと角度が深かったら、内臓飛び出ちゃってたよ」


 痛そうに顔をしかめてはいるが、どうやら大きなケガはなさそうだ。


「ああ、今日はもう厄日だ……。ボクがなにしたって言うのさ」


 ぶつぶつと言っている。それだけしゃべれれば大丈夫だ。私はホッと胸を撫で下ろした。


 ひとまず私は、散らばった食料を集めた。新しい袋は穴が空いてしまったので、全部古い方へ移し変えていく。


 男の子はぶつぶつが終わると、作業をしている私に目を向けた。

「……お姉さん、だいじょうぶ?」と尋ねてきた。


「ん? ……ああ、大丈夫。ちょっと口を切っただけだよ」


 服に血が付いているのを見て、それに気が付いた。頬も痛い。もしかしたら腫れているかもしれない。

 だけど、殴られるのなんてもう慣れた。


「うん、それもあるけど。お姉さん、震えてるから」

「……」


 私は男の子に目をやって、それからため息をついた。


 まったく情けない。たぶん、レナドにも気付かれただろう。


 あいつに目を覗かれると、どうしようもなく震えてしまう。これだけはいつまで経っても慣れてくれない。


「大丈夫」


 無理やり笑顔を作ってそう答えた。




「さあ、じゃあ、聞かせてもらおうかな」


 詰め替えの終わった食料袋を部屋の隅に置くと、私は入り口近くの壁に寄りかかった。

 外の様子を窺いながら男の子にしゃべる。

 一応まだレナドや他の衛兵を警戒してのことだ。


「あなたは誰? 見たところ、この国の人間じゃなさそうだけど」

「ボクはスピカだよ。この世界の世界時計の時計技師をやってるんだ」


 男の子は屈託のない笑顔で答えた。


「なに? ……この世界時計技師?」

「あー、うん、今のボクの説明に多少の冗長があったことは認めるよ。けどさ、そんな雑にまとめた言い方ってないんじゃないかな」


 スピカは眉根を寄せて私を非難した。見た目は可愛らしいのに、随分とませた言葉遣いや仕草をする。


「世界時計ってなに?」


 無視して問いを重ねる私に、スピカは視線を逸らして食料袋に手を伸ばした。


「ねえ、それよりボク、お腹空いちゃった」


 勝手に中身を漁るスピカに、私は堪らず壁から背を離した。


「ちょっと、勝手に取らないでよ。私の食料なんだから」

「いいじゃん、ケチ。こんなにあるんだから、ちょっとぐらい分けてよ」

「それ、一週間分なの。それでも足りないぐらいなんだから」

「へぇ、そうなの。……あっ、なにこれ。パン? ずいぶん硬いパンだね。……うわ、こっちはお肉? カッチカッチだ。……うへ。この穀物はただただ不味そうだね」

「うるさいな! ほっといてよ」


 スピカの手を掴む。するとスピカは、こういう時だけ可愛い子供の顔をして「お願いだよ」と懇願する。


「……」


 私は舌打ちをして手を離した。


「やったね♪ じゃあ、このお肉もーらおっと」


 干し肉の塊を宝物のように掲げている。


「ねえ、ナイフは?」

「ないよ、そんなもん。適当に歯で噛み千切って」


 やけくそ気味に答える。そんなの、あったらレナドにいのいちに没収されて、そのまま牢獄行きだ。


「あー、ダメ。ボク、今、ぜんぶの歯がぐらぐらなんだ」

「ぐらぐら? どうして?」

「……まあ、お肉を噛んだから、かな?」

「は?」

「お姉さん、やってよ。適当に噛んでやわっこくしてくれればいいからさ」


 スピカが干し肉を差し出してくる。私は面倒くさくなって、黙ってそれを受け取った。

 歯で一口分噛み千切って、適当に咀嚼する。


「ああ! あんまり噛んで肉の旨みを吸わないでよ!」


 うるさいな本当に……。


「もうその辺で! はい、あーん」


 上を向いて大口を開く。ひな鳥か!


 私はスピカの手を取って、その上にベッと吐き出した。

 スピカは悲しそうな顔で私を見たが、抗議しても怒られると察したのだろう、そのまま口の中に放り込んだ。


「うわっ、唾くさい」

「殴られたいの?」

「あー、待って待って。ほら、こうして噛んでれば肉の旨みが……。げっ、まっず! やっすい肉だなぁ」


 私はこいつを助けたことを心の底から後悔した。

 次にレナドが来たら、迷わずこいつを差し出そう。


「あーあ。アークトゥルスの作ったローストビーフのサンドイッチ、食べたかったな」


 もそもそと肉を咀嚼しながら言う。


「ローストビーフ?」

「知らないの? それはお姉さん、人生の九割を損してるよ。それはもう、この世のものとは思えない旨みとやわらかさを持ったお肉で……」

「へー」


 私は特にどうとも思わず返事する。とにかくこいつの人生は、いかに肉がやわらかくて旨みを秘めているかで決まるみたいだ。


「アークトゥルスって?」

「アークトゥルスってのは、ボクの世話役と言うか、師匠と言うか……」

「ふーん」

「……ねえ、それよりお姉さん」


 スピカが私のことをジッと見ていた。


「なに?」

「お姉さんの目、面白い色してるよね」


 私はハッとして、スピカから顔を背けた。


「あれ、何で逸らすの? もっと近くで見せてよ」


 スピカが迫ってくる。私は逃げようとしたが、そこで手を取られて捕まってしまう。

 私が右に顔を逸らせば、スピカは右から覗き込む。左に逸らせば、左から。

 そうしてスピカは、とても興味深げに私の目を覗いた。


「すごいや。右目が青で、左目が赤だ。……あれ? 反対かな? お姉さんにしたら、右目が赤で、左目が青か」

「やめて……」


 私は自分でも思わず小さな声で反抗する。


「綺麗だね。宝石みたいだ」

「……これは呪いの目なの。あまり見ないで……」

「呪い? どうして? こんなに綺麗なのに」


 そう言ってどんどんと顔を近づけるスピカに、私の心臓は破裂しそうなほどに早鐘を打った。


 だけどそれは、医者やレナドたちの時とは違う、決して不快なだけではないドキドキ。

 人は誰もこの目を忌むべきものとして見るが、スピカはむしろ好意的に、純粋な好奇心で持って覗いているからだ。


 初めてそうした目で見られたから……。


「もういいでしょ!」


 両手で突き飛ばして、強引に離れさせた。

 スピカは二、三歩よろめいてぺたんと床にお尻を着けると、今度は乾いたパンを手に取った。ご機嫌な顔をしてパンを千切って、口に放る。


「──で、世界時計って?」

「ああ、うん。……ここからでも見えるかな? ここからしばらく北西に行ったところに、細く切り立った岩山があるでしょ?」


 スピカはパンを唾でふやかすように口をもごもごさせながら言う。


「あー、知ってる。見えるよ」

「あのてっぺんにおっきな神殿があって、その中に世界時計ってでっかい時計があるんだ」

「神殿って……。あれは確か、外からじゃ開けられない旧文明の遺跡って聞いたけど」

「へぇ。そう言われてるんだ。まあ、うん、確かにあれは普通の人間には入れない」

「あんたは入れるっての?」

「ボクは時計技師だからね。えっへん」


 スピカは誇らしげに胸を張る。私は疑わしげに目を細めた。


「──んで、年に一回、……お姉さんたちからしたら十年ぐらいに一回だけど、その時計をメンテナンスする決まりになってるんだよ。だけど、ちょっとした不幸な事故があって、ボクはあの岩山から飛ばされてここまで来ちゃったんだ」

「飛ばされたって……。あそこからどう飛ばされたらここまで来るのよ?」

「まあ、それはいろいろと、スペクタクルでハードボイルドなアドベンチャーみたいなことがあってね」

「……まあいいけど」

「それで、早く神殿に戻って仕事をしなくちゃいけないんだけど、ほら、あの岩山の麓って、凶暴な肉食動物の巣になってるでしょ? ボク一人じゃ、ちょーっと厳しいかなーって」


 スピカはまたパンを千切って口に入れる。不味そうにしてる割にはよく食べる。


「だからお城に行って、強そうな人たちに護衛をお願いしようかなって思ったんだけど、なんだか話をしたら突然怒り出しちゃって」

「まあ、そうでしょうね……」


 想像は容易にできた。それに、城の人間が怒る理由はもう一つある。


「あの神殿は、この国じゃ神聖な場所として、王家以外の人間が許可なく近付いちゃいけないことになってるのよ」

「そうなんだ」

「王家の人間が成人を迎えると、あそこで儀式を執り行ったりするみたい」

「全然そんな場所じゃないのになぁ」


 口をもごもごとさせて言うスピカ。その様子に、私は少しだけ可笑しくなって吹いてしまった。


「ともかく、それであんたはあそこまで行きたいって言うのね?」

「うん」


 私は考えた。


「──その、世界時計ってのをメンテナンスしないと、どうなるの?」

「すぐにどうなるってことはないよ。だけど、もし壊れたりしちゃったら大変なことになっちゃう」

「大変なこと?」


「この世界の時間が止まっちゃう」


「……そう」



 時計って言葉が出てきたからってわけではないけど、この時、私の中で、静かに時計の針が動き始めた感触がした。



「あっ。お姉さん、今、悪いこと考えたでしょう?」


「ねえ、私が連れてってあげようか?」


 スピカははっきりと戸惑った顔をした。


「お姉さんが? えー、どうだろ」

「いいでしょ?」

「いや、気持ちは嬉しいけど……。どうするの? お姉さん、見たところ強くなさそうだし。それに、ずっと言おうと思ってたけど、おっぱいも何だか残念だし。無理だよ」


 私はスピカの頭を叩いた。


「とは言っても、他に当てなんてないでしょう? ここにいても捕まっちゃうだけだし」

「まーそうだけど……」

「大丈夫。あのね、実は私も、普通の人間じゃないの」

「……そうなの?」

「うん」



 ──この国を。



 ──この世界を。



 ──この日が来るのを、ずっと待っていた。



「ねえ、お姉さん……。今、悪魔のような顔をしてるって自覚、ある?」

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