世界時計
光の足りないその空間には、静謐で少し冷んやりとした空気が満ちていた。
扉から身体を振り返らせると、そこにはスピカの言ったとおり、何か巨大な物の影。
──世界時計。
外観は知れない。
時計と言うには、何か動くものも感じられない。
針の音も、歯車の音も聴こえない。
その印象は、まるで墓石だ。
これが本当に世界の時間を動かしている物なのだろうか?
むしろ逆で、あらゆる時間を止めたもの──つまりは死者を祀る慰霊碑だと言われた方がすんなり信じられる。
だけど、これはスピカが言っていたとおり、この世界の時を動かすためのものなのだ。
そしてそれを……、どうすると言った?
「壊す? ……これを?」
「そう。まだとっておきの魔法があるんでしょ? そのアーカイブに。それで一発、ボカーンといってみよう!」
スピカの声はこんな時でさえ楽しげだ。
「それに、お姉さんの目的はそれだったんでしょ? だったら、今、ボクがそれを許可する。やったね。念願叶っちゃうね」
「そんな……」
「貴様、何を考えてる!? ふざけたことを抜かしてないで、早くここを開けろ!」
レナドの憤激した声。
扉がドンドンと振動する。外でレナドがスピカに暴力を働いているのだ。
「スピカ!」
「……ねえ、お姉さん、聴いて……。今ここで、ボクら全員が助かる道はこれしかないんだよ……」
「口を閉ざせ、ガキ! ──おいスピネル、今すぐここを開けろ! こいつがどうなってもいいのか!?」
「もうこんな世界、うんざりしてたんでしょ? 三度目の正直で、今度こそ人類まるごと滅んじゃえばいいって、そう思ってたんでしょ? ……それで、ボクから世界時計の話を聴いて、それが叶うって考えたんだよね?」
「そう……だけど……」
言葉がつかえた。
「でもそれは……」
「できるよ。お姉さんのそのアーカイブなら、世界時計なんて木っ端微塵さ……。二つの時間軸をまたがる扉と違って、神殿の中にあるものならボクと同じようになんでも干渉できる。本を開いて、叫べばいい。それでお姉さんの目的は達成されるよ……」
喉が動いて、硬い唾を呑み込んだ。
手が震えて、思わず圧縮魔法書を落としそうになった。
「黙れと言っている!」
扉に振動。
スピカが盛大に咳き込んだ。
「やめて! スピカが死んじゃう!」
私は扉を叩いた。
「……お姉さん、時計を壊すんだ。早く……。そうじゃないと、本当に死んじゃう。もうね、こうしてしゃべってるのも億劫なんだ。だから、早く……」
「本当!? 本当に、時計を壊せばスピカは助かるの!?」
「そうだよ……。だから……」
「ふざけたことを!」
「ボクを信じて……。お姉さんの行動ひとつで、ここで誰も死なずに済むんだ」
「スピネル、わかっているのか!?」
二人の言葉が頭を駆け巡る。
私の中で想いが錯綜する。
足が震える。
全身が震える。
寒気と熱さが同時に背中を覆う。
荒い呼吸を繰り返して。
そして──
私は振り返って、世界時計に向き合った。
震える指で圧縮魔法書を開いた。
「スピカ……」
明かりがなくてもページはわかる。
どんな状況でもすぐ開けるように、そこだけ爪を折ってあるから。
それに叫ぶ言葉も記憶してる。
私はやっぱり、いつかはこれを解き放つべく準備していたんだ。
「世界時計を……壊すよ?」
「オッケー……」
微かだけど、スピカが笑ったような気がした。
ここへ来るまでの三日間。
本当に短い時間だったけれど。
楽しかった。
だから私は、──スピカを信じる!
「おい、聴いているのか!? スピネル!」
レナド……。
「チャプター99……」
ごめんなさい。
自分の罪から逃れるつもりはないけど。
「『そして王は風に戻る』」
今は何より、スピカを助けたいの。
「スピネル!!」
「──解凍!」
唱えると同時、
圧縮魔法書は光の繭となり、
浮き、
そして、
迸る──
本来、圧縮魔法書は使うとこうなる。
一冊まるまるひとつの魔法だから。
すべて魔法の光となり、放たれる。
空気が震え、
神殿全体が揺れ出し、
青と黄の光がまるで二匹の大蛇のように、
私の前で交わり、
絡み合い、
大きな渦となって、
前へ──
世界時計へ──!
そのあとはもう何もわからなかった。
激しい光と風に視界を奪われ、全身を揺すぶられて。
腕を上げて、耐えるだけで精一杯。
足を踏ん張って、立っているだけで精一杯。
それでもすべてを見届けようと、必死に目を開けているだけで精一杯。
「お姉さん、ありがとう……」
その中で、確かに聴こえた。
最後に、聴こえた。
スピカの声──
「それと、……さようなら」
そして、時が静止した──