子ヤギたちの受難
昔々あるところに、お母さんヤギと、七匹の子ヤギたちが住んでいました。
「今日はお母さんは用事で出かけますが、良い子でお留守番をしているのよ。最近は狡賢い狼が出ると噂になっているし、気をつけてね」
お母さんヤギは、七匹の子ヤギたちによく言い聞かせた。狼はヤギを喰らう捕食者だ。子供達のためを思えばこそ、自然と語気が強くなる。
「鍵をかけてお留守番をしていれば大丈夫だよ」
「そうですね、鍵をかけていれば安全です。それじゃあ、お母さんは出かけますね」
「うん、いってらっしゃい、お母さん」
母親の背中を見送ると、子ヤギたちは早速、家の扉に鍵をかけた。
それから一時間ほどして、家の扉をノックする音が聞こえた。お母さんヤギが言っていた、狡賢い狼がやってきたのだ。
「坊やたち、お母さんが戻ったよ。扉を開けておくれ」
「お母さんの声はそんなに汚くない。お前は偽物だ」
「お前、お母さんが言っていた狼だな」
子ヤギたちは狼の特徴的な声を聞き、その正体にすぐに気がついた。
――流石に声でばれるか。
狼はすぐさま薬屋へと向かい、声が綺麗になるという不思議なチョークを口にした。すると、あら不思議、ガラガラだった狼の声は、美しい女性的なものへと変化を遂げた。
――どうせなら、もっと入念に。
いくら声だけを変えても、この黒い足では母親を装うのは難しいと考え、今度はパン屋へと忍び込んで小麦粉を盗むと、大量の小麦粉を足を中心に塗りたくって、母ヤギのような真っ白な足を手に入れた。
これで、警戒を解かせるための準備は万端だ。
狼は再び、子ヤギたちの待つ家へと向かった。
「坊やたち、お母さんが帰って来たよ」
女性的な声に扉の下から覗く白い足。
子ヤギたちは、母親が帰って来たのだと信じてしまった。
「わーい、お母さんが帰って来た」
六匹の子ヤギたちが扉を開けると、本省を露わにしたガラガラ声の狼が家の中に飛び込んできた。
「聞いてたとおり、ご馳走の山じゃねえか!」
子ヤギたちはビックリし、慌てて隠れようとするが、すでに後の祭り。
「まずはお前だ!」
「あああああ、助け――」
恐怖に凍り付いてしまった三男の子ヤギは、逃げることも隠れることも出来ずに狼に飛びかかられ、絶叫を上げる間も無く喉を噛み千切られてしまった。
兄妹の惨たらしい死に様を、他の兄妹たちはそれぞれの隠れた場所から声を殺して眺めていることしか出来ない。
長男ヤギはベッドの中。
次男ヤギは火の入っていないストーブの中。
四男ヤギはテーブルの下。
五男ヤギはクローゼットの中。
六男ヤギはカーテンの裏。
末っ子のヤギは柱時計の中。
だが、子ヤギたちが隠れたのは狼が家に現れてからのことだ。おおよその場所はすでにばれている。
「そこかな!」
「あっ! い、痛い――」
狼は台所から包丁を持ってくると、ベッドの中に隠れていた長男ヤギ目掛けて思いっきり振り下ろした。長男ヤギの悲痛な叫びと共に、ベッドに赤い染みが広がっていく。
「次はそこかな?」
「待っ――」
狼は強引にクローゼットの扉をこじ開けると、逃げ場を失った五男ヤギの腹にかぶり着き、肉を噛み千切った。
「さあ、次だ次だ――」
狼の勢いは止まらない。次から次へと子ヤギたちを見つけては噛みつき、食い千切り、殺していく。
狩り場となった家の中は、子ヤギたちの血で満たされた地獄絵図と化していった。
「けっこう食ったな、一度水でも飲みに行くか」
口元から滴る血液を拭いながら、狼は家の裏手にある古い井戸の方へと向かったが、
「うわあああああああ――」
突如響き渡る狼の悲鳴、その声がどんどんと遠くなっていき、何かが落下した音と共に止んだ。
「……何て、ことなの――」
それから程なくしてお母さんヤギが家へと帰って来た。
開けっ放しの扉に真っ赤な血が飛び散った室内、姿の見えない子ヤギたち。お母さんヤギが事態を察するのに、時間はかからなかった。
子供達はどこかに隠れているだけだろうと希望を持ち、お母さんヤギは一匹一匹の名前を呼ぶ。だが、その呼びかけに応える声はなかなか帰ってはこない。
絶望感に打ちのめされそうになりながらも、最後の一匹である末っ子の名前を呼ぶと、
「お母さん、僕はここだよ」
末っ子のヤギが、柱時計の中から姿を現した。末っ子のヤギは他の兄弟たちが扉を開けようとした時点で危険を察し、いち早く隠れたので、狼に隠れ場所を悟られずに済んだのだ。
「ああ、あなただけでも無事で良かった……」
末っ子のヤギを抱きしめ、お母さんヤギは大粒の涙を流しました。
「怖かったよ、お母さん」
末っ子のヤギもお母さんヤギを強く抱きしめる。母の愛情を、その身に感じて。
「おい、井戸の底で狼が死んでるぞ!」
家の周りが騒がしくなり、裏手の井戸に、近くの住民達が集まっていく。
深い空の井戸の底には、転落した狼の亡骸が転がっている。
六匹の子ヤギたちを食い殺した狼は、何とも呆気ない最後を遂げていた。
「この井戸は大分脆くなってたから、中を覗き込もうと手をかけた時に崩れたんだな」
近隣住民のそんな声が、母親に抱きしめられる末っ子のヤギの耳にも届いていた。
――よしよし、僕の作戦通りだ。
抱きしめられ、母親からは顔が見えない位置なのをいいことに、末っ子のヤギは何ともいやらしい、策略家の微笑を浮かべていた。
一連の惨劇は、実は全て末っ子のヤギによって仕組まれたものだ。
末っ子のヤギはあらかじめ悪名高い狼と接触し、今日のこの時間帯には母ヤギが家を空けていて、家には子ヤギたちだけであり、警戒心が薄いことを吹き込んでいた。
あの狡賢い狼のことだから、きっと情報を提供した自分のことも喰らおうとするだろうと末っ子のヤギは読んでおり、狼に隠れ場所を悟られないように真っ先に柱時計の中へと隠れた。念には念を入れて、一度中に入れば、外からは絶対に開けらないように細工も施しておいた。
狼が裏の井戸で転落死したのも、末っ子ヤギの計算通りだ。自分が今回の事件に絡んでいることを知っている狼には、死んでもらわないと困る。
子ヤギを何匹も喰らえば、狼は喉が渇き水分を欲するはずだ。それを見越して、裏の井戸には、ちょっと体重をかけただけで崩れるように細工を施しておいた。井戸に水が有るのかどうかを確認するために、狼が井戸の中を覗き込めば最後、そのまま空井戸の底に真っ逆さまというわけだ。万が一、狼が誤って転落しなかった場合は直接背中を押すことも考えていたが、幸いその必要は無かった。
実行犯である狼も死に、真実を知るのは黒幕である末っ子のヤギ一匹だけだ。彼は自らの手を汚すことも無く、思惑を成し遂げのだ。
全ては母親の愛を独り占めするために計画したことだ。母ヤギはとても優しく、七匹の子ヤギたちに変わらぬ愛情を与えていたが、末っ子ヤギにはそれが不満だった。
他の兄弟たちが死ねば、それまでは七分の一だった母の愛情を一身に受けれるという、実に短絡的かつ無邪気な発想が全ての始まり。
「大好きだよ、お母さん」
大きな幸福感を感じ、末っ子のヤギはもう一度お母ヤギを強く抱きしめる。その笑顔は純粋そのものだ。
狡賢しこく凶暴な狼すらも、末っ子のヤギの蹄の上で踊らされていたにすぎなかった。
悪魔の知恵を持つ、この子ヤギこそが、真に凶悪な獣だったかのかもしれない。
蹄の上で踊らされていた、という一文、個人的にはお気に入りです(笑)