44.銀翼の使者
翼を広げた翼竜の姿が描かれた二本の柱に護られた、小さな祭壇がある。山の頂に存在するその祭壇こそが、風の祭壇。風界『ジュピター』と『オリジン』を繋ぐ場所。界と界の狭間に最も近き、力の混ざり合う場所。
その祭壇の前で、フーアは天を見上げる。胸元に仕舞い込んだ力のカケラに触れて、そして息を吐く。風の精霊神・シルフを呼び出す。それが自らの役目だと知っていながら一瞬躊躇うのは、終わりが近いと知ってしまっているからだと彼は理解していた。
けれど、これは逃れる事ができない運命。成さねばならない使命。そう解っているからこそ、彼はそっと唇に言葉を乗せた。諳んじてしまえる程に覚えてしまった時空魔法。異界と異界を繋ぐ道を生み出す時空縫合を、彼は行う。
「我が名を解放の力の礎と成せ。今、我は請う。隔たりを持ちし風界との境をしばしの間取り除き、我が前に彼の風の精霊神の御姿を遣わし給え。」
大地から宙へと吹き上がる風があった。それはまるで全てを攫う程に強い力。 けれど、決して害意がない事をフーアもアズルも知っていた。天より降り注ぐ晄の中に、風を纏う少女の姿がある。風に靡き広がる緑の髪に、緑の双眸をした少女だ。そう、風の精霊神・シルフが、そこにいる。
穏やかな、子供っぽい無邪気さを残した微笑みだった。ふわりと舞い降り、剥き出しのつま先が祭壇に触れる。二本の柱に刻まれた翼竜達が、その一瞬咆哮を上げる。けれどそれを気にした風もなく、少女はニコリと笑みを浮かべる。
屈託のない表情だった。汚れを知らない無垢な少女そのものな姿をして、風界を生み出した風の精霊神はそこに佇む。一瞬息を呑んだ後に、フーアは自らの役目を果たす為に口を開いた。それが彼の成すべき事であり、生きている理由なのだから。
「お初にお目にかかります、風の精霊神。我が名はフーア。救済の使命をおびしこの世界の勇者です。」
「えぇ、知っています。仲間達から聞きました。貴方の事も、彼の事も…………。」
「…………また、俺の事を知っているという事か。」
「知っていて当然ですよ。貴方は私達と同じ時期に生まれた存在なのですから。」
『…………っ?!』
穏やかな口調で告げられたシルフの言葉に、二人は目を見張った。その言葉の持つ重要さを、彼等は瞬時に理解してしまったのだ。アズルは精霊神達と同時期に生まれた存在だという事。それは即ち、この邪神が、神代の時代に生まれた者だという事だ。始まりの神オリジンは世界を生み出し、精霊神を生み出し、その後にしばらくの時を経てから他の種族を生み出した。伝承は、そう伝えている。
その意味を問いただそうとして、フーアは止めた。聞いたところで、今の自分には何の関係もない。そう思い、彼はすっと掌を指しだした。目の前の少女が、それを促してきたからだ。
重なる掌は、柔らかく暖かで、温もりに満ちていた。淡い光に掌が包まれた次の瞬間、それはそこにあった。淡い緑の輝きを放つ力のカケラたる宝玉は、エメラルドに似ていながらそれよりも美しかった。 シルフの掌が離れた後、フーアはそれをしっかりと握りしめた。そこにある事を確認するように。
アズルが、ゆっくりと息を吐く。その横顔は、驚く程真剣だった。邪神となった青年は、その前の己を忘れている。それが当然なのだと、邪神となった時に、全てのモノは、生まれ変わるのだと、フーアはアズルに聞かされていた。
「本当に、何も覚えていないのですね……。」
「悪いが、俺はお前達など、知らぬ。」
「思い出した方が、貴方の為ですよ、アズル。そうでないと貴方は、また、同じ苦しみを味わってしまう……。」
「……同じ、苦しみ……?」
「私には言えません。それは貴方が自ら封じる事を願った、忌まわしくも哀しい記憶なのですから。」
寂しげに、風の精霊神は微笑んだ。その微笑みの理由を、アズルもフーアも理解できなかった。戻りますと告げて姿を消し始める少女に向けて、アズルは思わず腕を伸ばしていた。けれどその腕が届くよりも先に、シルフの姿は掻き消える。残像のように、風だけが吹いていた。
「……いったい、俺は誰だったというんだ……。」
掠れた声で、アズルは呟いた。それに答える言葉を、フーアは持たなかった。答えの代わりに、少年は青年の肩を叩く。お前はここにいる。それだけを知っていて欲しいと、何故かフーアは思った。
風の吹き抜ける祭壇で、何も知らぬ邪神と勇者が、迫り来る終末への何かを抱き始めていた…………。




