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リセット

 ゴールデンウイークのあけた月曜日。

 私は就職後初めて、ネイルをしないまま仕事に行った。

 誰かに何か言われたら、どう答えようかと前の晩シミュレーションまでしたけど。

 意外と、他人の手元なんて見ていないものだと、思い知る。


 ゴールデンウィーク明けは、十日締めの仕事に追われる。それはいつもの年の恒例行事のようなものだけど。

 今年は特に営業二課が大口の伝票を連休前に出し忘れていたとかで、二歳年上の先輩は鬼気迫る形相で電卓とパソコンモニタを睨んでいた。

 そんな先輩の邪魔にならないように、小口の伝票を引き受ける。今月締めの分はほとんど終わっているけど、置いておくと積み重なって、来週からが大変なことになる。


 いつものように電卓を叩いてて、違和感を覚えた。キータッチがいつもと違う。

 なんだろう、と手を眺めて。

 爪が短くなったことに気づく。


 試しに、パソコンのキーボードに手を滑らせる。

 おお。押しやすい、かもしれない。


 慎之介さんの声が聞こえる。

 『がんばってきたんだな。でも、ありのまま、でいいんだよ』って。

 社会人になって、十年。”無駄な労力”を使ってたのかもしれない。

 外見を磨くことに、力を入れすぎて。



 午後三時を過ぎて集中力が切れてきた私は、ちょっとした気分転換にお手洗いに立った。

 個室の鍵をかけたところで、入れ違うように隣のドアが開く音がした。


 トイレのドアが開く音と同時に声が聞こえる。

「森山ちゃん、おつかれー」

「おー。疲れたよー」

 どうやら後輩の森山さんとその同期が、洗面台で顔を合わせたらしい。

「ごめんねー、うちの”僕ちゃん”のミスで……」

「ほんと。経理に顔出したら、吊し上げだって言っておいてよ」

 なるほど。営業二課、なら……あの子、か。

 なんとなく、森山さんと仲の良い子を思い浮かべる。


「でさ、うちの”トミ婆”が」

 森山さんの声に、トイレットペーパーを手繰る手が止まる。

 『トミ”婆”』?

「何? 今日は何やったの?」

「ネイル、してきてないんだけど」

「うわ、何事。明日、槍でも降ってくる?」

「槍が降るより怖いわよ?」

「へぇ?」

「人間の爪じゃないのよ」

「なにそれ」

「色がさ……」

 漏れ聞こえる会話に、ただ両手を握りしめる。


 『トミ婆』なんて、陰で呼ばれてたんだ。

 『人間の爪じゃない』って、じゃぁ、何なのこの爪は一体。


「とうとう、結婚諦めたんじゃないの?」

「かもね。年末からやけにイライラしてたし。更年期よ、きっと」

「そんな歳だっけ?」

「来年あたり、年女でしょ?」

 年女は再来年、よ。なんて、反論する気も削がれる。

「あー。バブルの丙午、か。馬鹿にしてるわよね、景気はよくって、同級生は少なくってって」

「だから、あんなに仕事ができなくっても採用されるのよねぇ。今日もさ、あんたのところからの伝票で皆カリカリきてるのに、一人のーんびり来月締めの伝票やってんの。こっち、手伝えっつーの」

「おつかれ!」

「ほんと、疲れたよー。夏には先輩が一人辞めるから、トミ婆が女子の最年長だよ? どうやって仕事を回すのか、ダレか教えてほしいよ」

「トミ婆の方が、辞めればメデタシメデタシ、なのにね」

「結婚諦めたんだったら、居座るじゃない!」

「まあまあ。落ち着けって」 

 トイレのドアの開く音がして、話し声が遠ざかっていく。


 膝の上にぽたりと一滴、涙がこぼれ落ちた。



 何とか気持ちを落ち着けて、デスクに戻る。

 私がトイレに行く前と変わらず、みんな必死の形相で仕事をしている。森山さんも、先輩も。

 私が席をはずしていたことに、誰も気づいていないように。


 ふーっと。意識が飛ぶ感じがして。

 高校の教室を思い出した。


 あれから、十五年も経つのに。

 私は……相変わらずこの部屋の片隅に、埋もれている。居ても居なくても同じ。



 それから、五時の終業までの時間は長かった。

 五時十分。

 みんなが残業をしている中、私は逃げるようにタイムカードを押した。



 高校を卒業して、”地味な私”をリセットをしたように。

 会社から、卒業をすることは……。



 家に戻って、ベッドに身を投げ出すようにして携帯を操作する。

 慎之介さん、慎之介さん、慎之介さん。


 彼はまだ仕事中なのか、何度かけ直しても留守電に繋がってしまう。

 メールの作成画面を呼び出して、作成した文章を送信する。


 薄暗い部屋の中、ぼんやりと天井を眺める。

 『ちょっと、聞いてよ!』

 そんな風に愚痴を言う同期は、すでにみんな会社から居なくなった。結婚退職だとか、転職だとか言って。

 いや、例え居たとしても。言えない。格好悪すぎて。後輩にバカにされてるなんて。


 目の上に腕を置く。

 腕の重みでコンタクトレンズがずれそうだけど。そのままじっとしていると、袖が湿るのがわかった。



 どれくらいそうしていただろう。

 微かなメロディーが聞こえて、腕をどける。


 携帯が着信を告げていた。


〔もしもし? 登美さん?〕

〔慎之介、さん〕

 待ちわびた声が聞こえた。

〔何? あのメール〕

〔……うん〕

〔いきなり、どうしたの? 『結婚して』なんて〕

〔私、もう嫌だぁ〕

 一息に、今日の出来事を話す。


〔あのさ、それ、結婚して解決するわけ?〕

〔だってぇ……〕

 呆れたような慎之介さんの声に、また、涙が落ちる。

〔登美さんの言うように、結婚退職してリセットしたとしてさ〕

〔うん〕

〔この次、嫌なことがあったら、どう”リセット”する気なの?〕

〔それは……〕

〔専業主婦になって、母親になって、ってした時に逃げる道って、どこにあるのさ?〕

 ”主婦”から、逃げる道? 母親を”卒業する”って、何?


 慎之介さんの言葉は、涙にふやけた私の頭を殴った。


〔登美さん〕

〔……はい〕

〔貴女は『登美』なんだよ?〕

 そう、だけど?

〔困難の山を”登って”、”美しい”モノを手に入れるんでしょ?〕

 あ……名前。

〔今まで、仕事中に”困難の山”、登った?〕

〔……〕

 登ってないかも。

 面倒くさそうな伝票とか、教えてもらってないこととか。自分から手を出すことは無かった。

 『やれ』って誰にも言われないから、いいじゃない、って。

〔社会人になって、十年、だよね?〕

〔うん〕

 十年以上、経ってる。

〔十年の積み重ね、だよ? その評価は、きっと〕

〔うん〕

 電話を取った時とは違う涙が流れる。


 悔しい。

 今まで無駄にした時間が、職場での私の存在を消した。


〔登美さん〕

〔は、い〕

〔ちょっとだけでも、がんばれる?〕

〔うん。がんばってみる〕

〔そうか〕

 頭をなでるような相槌が、電波に乗って私に届いた。


〔慎之介さん〕

〔うん?〕

〔さっきのメール、忘れて?〕

〔忘れるの?〕

〔だって……〕

〔忘れないよ〕

〔え?〕

〔登美さんからの、プロポーズだし?〕

〔嫌ーっ〕

 なんて恥ずかしいことを……。


〔それは、冗談としても〕

〔冗談、なのね?〕

〔まあまあ〕

 クスクスと笑う声がする。

〔登美さんの”逃げ道”を塞いだ代わりに〕

〔うん〕

〔お守りを、あげる〕

〔お守り?〕

〔そう。仕事中、『俺がそばにいるよ』って支えになるようなもの。何がいい?〕

〔なにって……〕

〔『結婚、あきらめてないわよ』って、指輪でもする?〕

 そう言われて、自分の左手を眺めて。

〔いらない〕

 と、答えた自分に驚いた。 

 今までの男に、そんなことを言われたら、遠慮なく高いブランドのアクセサリーを頼んだだろう。

 いや、そんなこと言う男いなかったか。こっちから、『あれ買って』って、おねだりはしても。 


〔いらないの?〕

〔指輪は、もう少しだけ爪がキレイになってから、ちょうだい?〕

〔そう?〕

〔うん。指輪をして、人の視線が手に来るのは嫌〕

 指輪をするのは、人間の爪になってから。

〔時間がかかるかもしれないけど〕

〔そうか。そこの山も登る?〕

〔うん。がんばってみる〕

 山を登って、美しい爪、手に入れる。


 『爪の健康には、栄養バランスも大切らしいよ。サプリだけじゃなしに、ちゃんとご飯、食べなよ』

 そんなアドバイスをくれて、慎之介さんは電話を切った。 


 ご飯、食べよう。


 部屋着に着替えて、髪をくくる。

 食器を置いてある棚の、マグカップの横。サプリメントの瓶を横目で睨んでおいて。

 炊飯器のスイッチを入れた。



 翌週、デートの時に慎之介さんは、プチダイヤのペンダントをくれた。

「それなら、手に視線はいかないでしょ?」 

 と言って。

「いいの?」

「うん。俺からの、応援の気持ち」

「ありがとう」

 モノに絆されたわけじゃないけど。


 この一週間、自分なりにがんばろうとしたことが、認められた気がした。



 あの翌日。朝一番に、先輩に訊いてみた。

「お手伝いできることは、無いですか」

 って。

 ものすごく勇気が要って。先輩に『何事?』って顔をされて、穴があったら入りたかったけど。

「今、抱えてる仕事、後どれくらいで終わりそう?」

「……午前中には」

 いつもなら、もう少しかかってた気がするけど。爪が短くなったおかげかミスタッチが減って、昨日のうちに、かなりはかどっていた。 

「だったら、終わったら声かけて。その時の状態で、お願いするかも」

「はい」


 午前中に、片をつけて。

 午後からは、先輩のお手伝いをしたのだけれど。

「あのぉ」

「なに?」

「この、付箋は……」

「え?」

 そこかしこに二色の付箋がヒラヒラとしている伝票の束を渡されて、困惑してしまった。

「あ、知らない? もしかして」

「はぁ」

「あー、今まで、やったこと無かったっけ」

「は、い……」

 あからさまに先輩の顔に、『今まで、何してきた。この給料泥棒』って書かれている気がして、キューっと背中が丸くなる。

 背後から森山さんが噴き出した声が聞こえて、唇を噛む。


 『十年、積み重ねてきたことだよ?』

 慎之介さんの声が聞こえる。


 劣等感を克服する努力が、成長の原動力。

 若い頃、そう思ってがんばってきたでしょ。


 自分に言い聞かせて、顔を上げる。


「すみません。教えてください」

「これは今、時間が無いから。締めが終わってから、もう一度訊いて。じゃぁ、こっちはできるわよね?」

 改めて手渡された、違う伝票の束。

 これだったら……したこと、ある。

「はい。できます」

「じゃ、おねがい」

「はい」

 デスクに戻って、さっきの分からなかった仕事を後で訊けるように、メモを取る。

 来週、忘れずに訊くこと。それが、成長のための栄養になる。



 つけてもらったペンダントをなでながらこの一週間を思い出していると、私と目が合った慎之介さんの顔が赤くなる。

「慎之介さん?」

「うん?」

「どうしたの?」

「なにが?」

「赤くなってる」

 うわわ、と呟きながら顔を覆った彼の仕草にちょっと笑ってしまいながら、メニューを広げる。


 今日は初めて一緒にご飯を食べたあの洋食屋に来ている。

 オムレツ、おいしかったけど。今日は、コロッケにしてみようかな。


「登美さん」

「はぁい?」

「あのさ、この前のプロポーズ……」

「忘れて、って言ったじゃないっ」

「忘れない、って言ったじゃないっ」

 口調を真似されて、こっちが赤くなる。

「冗談だって……言ったくせに」

「冗談にする気は、無いよ」

 お冷を口に運んだ慎之介さんが真面目な顔で私を見つめる。広げたメニューをテーブルに倒して、彼と視線を合わせる。

「仕事を辞める口実に、結婚するのは嫌だけどさ。俺は、登美さんを結婚相手として見てるからね?」

「う、ん」

「”にわ とみ”として、仕事続けてもいいって思えたら、もう一度、言って? 爪がどうでも、左の薬指に指輪を嵌めさせるから」


 そうだった。

 慎之介さんと結婚したら、ニワトリみたいな名前になるんだった。

「”ピヨ子ちゃん”って、陰で呼ばれない自信がつくのと、爪が元気になるのとどっちが早いかな?」

 彼は、そう言いながら、テーブルに載った私の左薬指の爪を撫でる。

「呼ばれない自信?」

「そう。半人前の”丹羽(にわ)とり”なんて言われないように、がんばれ」

 私の首元を指差す慎之介さんに、”応援のお守り”を意識する。


 うん。

 ”丹羽 登美”を、ニワトリなんて言わせない。それも半人前だなんて。


 胸を張って、慎之介さんのお嫁さんになってみせる。

 その決意は多分、成長の原動力になる。

 劣等感を克服したのと同じくらいの。

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