再会
”素のまま”の爪を見せる決心がついたのは、ゴールデンウィークに入る頃だった。
この年はカレンダー的に超大型連休になる状態で、うちの会社も九連休だった。慎之介さんは、研究の区切りがどうとかで、後半の五連休だけらしいけど。
連休入りの前の晩、ネイルを落とした。
現れた爪に泣きそうになりながら、クリームで手入れをする。
次のデートの約束までの間に、少しでも戻ってと祈りながら。
そんなに、甘くないのは承知してたけど。やっぱりデートの朝には、変化がなくって。
せめて『爪の面積を狭く』と、今までに無いほど短く整えた私は、指先を隠すように手を握りしめて電車に乗った。
待ち合わせの改札口にすでに立っていた慎之介さんは、顔を見るなり
「登美さん、どうした?」
と、尋ねてきた。
「なんかすごく悲愴な顔をしてるけど。電車でなにかあった?」
黙って首を振る私をじっと上から下まで見た彼は、すっと両手を伸ばして私の右手をとった。
いやぁー。
どうして、ピンポイントで手に関心を持つのよ!
「何も無いわけ、ないだろ? こんなに肩にも手にも力をこめて」
彼の左手に、私の手の甲が優しく撫でられる。
「ほら、力抜いてみな?」
動物みたいに唸る私を安心させるように、笑いながら手の甲を撫で続ける。
「登美さん? 何を隠してる?」
何度も繰り返される言葉に、手の力が抜けた。
緩んだ拳の隙間に彼の大きな手が差し込まれて、そのまま指が伸ばされる。
「いや、見ないでっ」
「爪?」
だから、嫌だ、ってばぁ。
うーむ、と言いながら、爪を眺めていた慎之介さんが、いきなり私の頭を抱え込んだ。
「登美さん、ごめんな。つらかったよな、この爪で電車に乗るのは」
「気持ち悪い、よね?」
「いや。よくここまでがんばったな」
「がんばった?」
「キレイでいるために、身を削ったのも。俺のわがままに、付き合ってくれたのも」
「う、ん」
『ありがとう』って言う慎之介さんの言葉に、鼻の奥がツーンとしてきた。
「慎之介さん、離して」
「何で?」
「お化粧、落ちそう」
このまま泣いたらマスカラがパンダになるし、慎之介さんの服にもお化粧がついてしまう。
慌ててバッグからハンカチを取り出して、目元を慎重に押さえる。
涙を何とか引っ込めて。お手洗いで軽くお化粧を直して。
その日は、駅前デパートへと向かった。
『従妹への結婚祝いを選ぶのを手伝って欲しい』と言われていたので、生活雑貨のフロアへと上がる。
食器とかタオルとかが並ぶフロアで二人歩いていると、『近い将来、慎之介さんとの新生活に……』なんて想像してしまって、頬が緩む。
「そういえば、登美さんは大学こっちだったっけ?」
「うん。もっと西の方だけど」
今日待ち合わせをしたのは、市境を越えた西隣、楠姫城市。市役所があって、”東のターミナル”と呼ばれている駅だった。
学生時代は、”西のターミナル”と呼ばれているあたりをメインに生活をしていたけど。こっちの駅も映画館があったり、このデパートがあったりで何かと足を運んでいた懐かしい街でもあった。
「お昼ご飯にお勧めの店とか、ある?」
「そうねぇ」
お祝いの品も決まって、配送の手続きもして。
ゆっくりとエスカレーターで一階に降りながら、相談をする。
「ああ、そうだ。イタリアン、でもいい?」
「いいよ。どっちの出口?」
「ええっと、確か西だったと思う」
西口を出てから、確か三つ目の交差点を……。
道順を思い出しながら、彼と手をつなぐ。
彼の指が、裸の爪を撫でる。
ふふふ。慎之介さんの体温が爪を通して直接伝わる気がする。
ネイルを落として知った、初めての感触。
細い路地に入って、お店まであと少しのところで、横合いの店から人が出てきた。
「あ、」
思わず出た声に、相手がこっちを見た。
「トミィ、か?」
「リョウ……」
芸能人のクセに。何で、こんなところにいるのよ。
デビューから十年。
最近、そこそこ売れるようになってきている彼は、一段と華やかになって。それでいて、どこか落ち着きを醸し出していた。
それは、つきあっていた頃には無かった、自信、のようなもの、だろうか。
「元気か?」
「うん」
「そうか」
「リョウも、元気そうで」
「まぁな」
別れてから流れた十年以上の時間は、互いをどこか他人行儀にして。
会話がポツリポツリと、途切れる。
懐かしいけど、なんとなく居心地の悪い空気を、慎之介さんの声が断ち切った。
「とおる、か?」
「え?」
色素の薄い眼を見開くように、リョウが慎之介さんを見る。
「丹羽、さん?」
あれ? 知り合い?
でも、『とおる』って?
「どうも、ご無沙汰してます」
頭を下げたリョウに、一歩近づいた慎之介さん。
「おまえが『リョウ』かっ」
そう叫ぶように言った彼は、リョウのお腹にパンチを叩き込んだ。
咽喉の奥で、悲鳴がかすれた。
お腹を右手で押さえたリョウが、咳き込みながら慎之介さんの肩に左手で縋り付く。
「ちょ、丹羽さん。おもっきり入ったんすけど」
「おもっきり入れたからな」
「いきなり、何ですか?」
「登美さんに、余計な”色”をつけやがって」
「……訳、判りませんって」
そんな会話をしながら、慎之介さんがリョウの背中を軽く叩いている。
「『トミィ』なんて呼びやがって。おまえ、登美さんの”昔の男”だな?」
「ええっと……まあ、その……」
「もう一発、殴らせろ」
「勘弁してください。今日は夕方、仕事なんですから」
『仕方ないな』とか言いながら、険しかった慎之介さんの表情が緩む。
「トミィ、丹羽さんと付き合ってるのか?」
「『トミィ』って呼ぶな、他人の彼女を」
「うわ、すいません」
どつき漫才の様相を呈してきた二人に、唖然としていた私は、ようやく口を開くことができた。
「慎之介さん?」
「うん?」
「リョウと、知り合い?」
「高校の部活の後輩」
「はぁ?」
「だから、キリや俺の後輩」
慎之介さんがリョウの頭をボールみたいにぽんぽん叩く。
「リョウ、バレーしてたの?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「聞いてない、と思う」
「こいつのバンドのボーカルも、だぞ」
慎之介さんが笑いながら、もうひとつリョウの頭を叩く。
「バレー部の大魔神コンビが、文化祭で組んだユニットが元、だよな」
「ええ」
頷きながらリョウが、一歩後ろに下がる。
「逃げるな」
「そんなにバンバン叩かないでくださいって」
そう言いながらも、声を立てて笑う。
あ、変わってない。
笑いを収めたリョウが、まじめな顔で私を見た。
「丹羽さんに幸せにしてもらえよ、トミィ」
「おまえに言われる筋合いじゃない」
言い返す慎之介さんの腕に手を添える。
変色した爪が、目に入る。
さっき『がんばったな』って言ってくれた慎之介さんの声が、もう一度聞こえた気がした。
「リョウは、今、幸せ?」
私が慎之介さんと出会えたように、本当の恋を見つけることは、できた?
昔なら考えられないほど、穏やかにリョウの”今”を尋ねる。
「ああ。やっと俺を、”RYO”から”亮”に戻してくれる相手と、出会えた」
「とおる、って?」
そういえばさっき、慎之介さんもそう呼んでいたような……。
「俺の本名。初めて、俺を本名で呼んでくれるヤツと、人生が重なった」
「そうか。『リョウ』じゃなかったんだ」
「うん。それは、ステージネーム。今は『RYO』だけどよ」
”亮”と書いて、『リョウ』と読むと思い込んでいた。彼も、間違いを正さなかった。
「丹羽さん、そろそろ失礼します」
慎之介さんに改めて頭を下げて立ち去るリョウの姿は、なるほど、先輩に対する運動部員のそれだった。
彼の後姿をなんとなく、二人で見送っていると、最初の角で振り返った彼が左の握りこぶしを上げた。
そして。三本指を立てて、次に一本。
『十、三、一で”ト・ミ・ィ”な?』
『十じゃなくって、それはゼロでしょ?』
『両手挙げたら、鍵盤が弾けないだろうがよ』
長い指を立てて見せながら、そんな会話をしたのは。いつだっけ。
ライブを見に行くと必ず、ステージのどこかで合図をくれた。
最初はグー、そして三本の指が立って最後は一本。
二人だけの合図だぜって。『トミィ』だぜって。
角を曲がったリョウの姿が見えなくなる。
「Aクイック?」
慎之介さんが横で呟く。
「は?」
「いや、違うか」
自分の手を握ったり開いたりしながら、首を傾げている。
「どうしたの?」
「うん。さっきの亮のサイン。バレー部の作戦サインと似てるんだけど。ちょっと違うなって」
『確か、こっちがAで。いや、Bだったっけ?』なんてブツブツ言っている彼の手に、自分の手を乗せる。
「登美さん?」
「いいじゃない。何でも。それよりご飯に行こう、ね?」
多分、リョウとこうやって話をするのは最後だろう。
あの合図を目にするのも。
それでもいい。それでいい。
私には、慎之介さんが居てくれれば。
「そう言えば、登美さんは亮の本名を知らなかったんだ?」
ピザを取り分ける私に、慎之介さんがさっきの出会いを蒸し返す。
「うん。『リョウ』だと思い込んでいた。他のメンバーも、本人も否定しなかったし」
「で、あいつは『トミィ』って?」
「私が『登美なんて、お婆ちゃんみたいな名前』って言ったら、『じゃあ、トミィって呼んでやるよ』って」
彼の前に、シーフードピザを置く。
自分の分を取り皿にとろうとしていると、腕組みをした慎之介さんがうなるような声を出した。
「なんだか、変な関係」
「そう?」
「本名を教えない恋人って、どう考えてもおかしいよ? そのクセにあいつ、『本名を呼んでくれるやつに”やっと”出会えた』って、ひどすぎるじゃないか」
『もう一発、殴っておけばよかった』と言いながら腕組みを解いて、憎らしそうにピザを齧り取る。
「慎之介さん」
「うん?」
「私も、やっと”素のままの私”を見せられる人に出会えて、幸せよ?」
「登美さん」
指についた油分を、お手拭きでぬぐう。
メガネをかけていても、すっぴんでいてもいい。
変色した爪を、そうなった原因までひっくるめて愛おしんでくれる
そんな人と出会えた。
「もしも、リョウと付き合いを続けていたとして、私がありのままの自分を見せられる日は永遠に来なかったと思う」
「……」
「装って、装って、装い疲れて。遅かれ早かれ、いつかはダメになってたんじゃないかな」
「そうか」
「たぶん、だけどね。リョウも『亮に戻してくれる相手』って言ってたじゃない? 私といるときは、ずっとステージ上の『リョウ』だったんだろうね」
「変な恋人同士だな」
「十代、だったから。背伸びをしてた、かも」
背伸びしていることにすら気づかずに、もっと高みを目指して、無理を重ねて。
「やっぱり、もう一発殴っとけばよかった」
「慎之介さん?」
「十代って、どう考えても”最初の男”だよね?」
いや、そうだけど。
これ、どう答えるべき?
ピザを齧りながら答えを迷う私の顔を見ながら、慎之介さんが悔しそうに言う。
「あいつとの恋愛が、登美さんの人生を左右したのかもって思うと腹が立つ」
「そう?」
「うん。最初が変な恋愛だったから、その後まで妙な男に引っかかってきたんじゃない?」
「うーん?」
「納得いかない?」
「リョウがどうこうじゃなくって、私が背伸びの方向を間違えてたんじゃないかな、って気がする」
お皿に残ったピザを口に入れてしまう。モグモグと噛み締めながら、思う。
いい男って、外見や収入なんかの”条件”じゃないよね?
なのに”条件”に目をくらませた私は、相手の内面なんて見ていなかった。
だから、相手にも”条件”で判断されるのを恐れて、装って装って。
自分の体が上げている悲鳴にも耳を塞いで、”男に好かれる私”を作り上げていた。
軽率な言動を軽く見られて居ることにすら、気づかないまま。