出会い
見合いの当日は、梅雨のさなかだというのに、嫌になるほどいい天気だった。
義理よ、義理。と、内心で強がって見せながらも、美容院へ行って新しいスーツも買ってって、準備をしたのは、課長から見せられた相手の写真が好みだったせいか、それとも彼の学歴に惹かれたのか。
待ち合わせに指定されたのは、ターミナル駅にあるホテルの喫茶ルーム。上司が一緒ではやりにくかろうと、二人だけで会うことになったコレも、見合いといって良いのかな?
スタッフに案内されたテーブルでは、窓の外を眺めている男性がいた。
「こんにちはぁ」
私の声に反応して振り返った彫りの深い顔が、静かに微笑んだ。
「お休みの日に、申し訳ありません。こんなところまで来ていただいて」
「いいえぇ」
向かいの席を手で示した彼にしたがって、腰を下ろす。
差し出されるメニューを受け取って。
「何か、頼まれましたぁ?」
「いえ。来られてから、と」
待っててくれたんだ。まぁ、年上の余裕、と考えれば当然だけど。
そう思いながら、メニューに視線を落とす。
あ、ここ。マンデリンがある。大学生の頃、一度だけ一緒にお茶をした年上の男性に教えて貰って、気に入ったコーヒーの銘柄なんだけど……。
飲みたいな、と思いながら、正面に座る人の顔を伺う。
「決まりました?」
「ええっとぉ」
最後から三人目の彼氏が、コーヒー嫌いで。私がブラックコーヒーを飲むのを、殊の外嫌がった。この人は、どうだろうと考えて、思い直す。
ま、いいじゃない。嫌いなら嫌いでも。
「改めまして。丹羽 慎之介です」
「稲本 登美、ですぅ」
注文を済ませた互いの飲み物が届くのを待つ間に、自己紹介をする。
丹羽さんは二歳年上で、国立大の大学院を卒業してって。
「高校ってぇ、どこだったんですかぁ?」
「高校、ですか?」
「はい」
「柳原西、です。ご存知ですか?」
曖昧に微笑みながら頷く。
蔵塚市内では一、二を争うトップクラスの進学校で、リョウの母校。大学は丹羽さんのほうがランクが上だけど。
心の奥の方で、”一勝一分け”ってカウンターが回った。
ブラックコーヒーに口をつけた私を、丹羽さんがじっと見ている。
「どうかしましたぁ?」
「あ。失礼。ブラックで飲めるって、すごいなぁと」
そう言いながら、グラスの中でストローをくるりと回す。
彼が頼んだのは……レモンスカッシュ。
「丹羽さぁん、飲めないんですかぁ?」
「はい。カフェインがダメみたいで」
頭が痛くなるんですよね。と、苦笑して見せた。
うーん。”一敗”かな。リョウは、コーヒーもお酒もガンガン飲んでいた。
そんな採点をしているとは知らずに、グラスの氷をカラカラ言わせながら丹羽さんの話が続く。
「コーヒーのカフェイン、すごいですよ」
「はぁ」
すごいって、何が、だろう。
「大学の実習で、カフェインの定量実験がありましてね……」
各自カフェインを含んでいそうなものを持ち寄っての実験らしいけど。
「コーヒーは、測定限度を振り切ってしまうから、NGなんです。少々希釈したぐらいじゃ、無理って」
「そんなにぃ?」
「あれを聞いたら、もう。飲めなくなりましたね」
って、私。飲んでいるんだけど。
じっと、手にしたコーヒーカップを覗き込む。
この一口に、カフェインが大量に……って。全然、イメージが沸かないわ。カフェインなんて、見たことないし。
いいじゃない。おいしかったら。それで。
丹羽さんの話は、そんな風に専門的なことを織り交ぜて、って感じで進んで行く。私の生活とは、まるっきり縁の無い科学的な話は、いつもの私だったら多分、”退屈”って、切り捨ててきただろう。
なのに、なぜか丹羽さんの話は、いくらでも聞いていたい。
そう思ってしまって。
時間を忘れて、彼の話を聞いた。
「そろそろ、でましょうか」
彼の言葉に、はっとした。
「えぇ、もぉう?」
「あまりに長居するのも、お店にも邪魔でしょうから」
軽く手を差し伸べるように、店内を指し示す。
その手に、導かれるように見た壁の時計は、待ち合わせから二時間近くが経ったことを示していた。
楽しい時間は、すぐに過ぎる。
「なんだかぁ、帰りたくない、かもぉ」
彼の反応を伺う。
軽く咳払いをして、窓の外に視線を流す彼の横顔。
うーん。やっぱり、好み。リョウみたいな女顔より、こっちのほうが断然、格好いい。
「じゃぁ。今度また、会って頂けますか?」
「今度ぉ?」
「はい。今度」
にっこりと笑った顔にいなされて。
言われるがままに、連絡先を交換した。
伝票を手に立ち上がった彼と並んで。
「丹羽さぁん」
「はい?」
「おおきい、ですねぇ」
「あー。まぁねぇ。高校時代はバレーをしてましたし」
リョウも大きかったけど。多分、見上げる視線の感じは……丹羽さんのほうが上。
ここでも、丹羽さんが、一勝。
いや、体格もがっしりしてるから。二勝、かな。
そんな感じで、始まった丹羽さんとのお付き合い。
次に会えるのは、三週間後。って。どうなんだろう。リョウのほうが、もう少しマメだったかも。
丹羽さん、一敗ね。
それにメールをしても、丸一日返事が無かったりする。
まぁ。リョウと付き合っていた頃には、メールなんて無かったから……ここは、丹羽さんの不戦勝ってことにしておこう。
次の約束に備えて、爪や肌の手入れをして。
ひさしぶりの”恋愛”に、気持ちが若返った気がする。
土砂降りの雨になった、二回目のデート。ストッキングが濡れて、足が気持ち悪い。
もう。せっかく待ち合わせの直前に駅のトイレで履き替えたっていうのに。
こんな雨だから、タクシー使うとかすればいいのに。
身長に見合った大きな傘で、飄々と歩く隣の男を見上げる。
丹羽さん、一敗。よ。
つれて行かれたのは、人目を避けるようにひっそりと建っているレトロな雰囲気の喫茶店。
「あのぉ」
「はい?」
「丹羽さぁん、コーヒー、ダメですよねぇ?」
「でも、稲本さん、コーヒーお好きでしょう?」
傘のしずくを切りながら、丹羽さんが微笑む。
「えぇ? わかるんですかぁ?」
「ええ。まぁ」
「ええぇ? どうしてぇ?」
「聞いたことも無い銘柄を注文されていたから」
「それで、ですかぁ?」
「はい。詳しいってことは、好きということでしょう?」
彼がぐっと押したドアで、ベルが音を立てる。よくある、軽いドアベルの音じゃなくって、カウベルだ。これ。
カウベルを集めるのが趣味だったのは……社会人になって、最初に付き合った男だったか。合コンに参加したことを責められて、別れたっけ
「どうしました?」
立ち止まって、ドアを見上げる私に、丹羽さんの声がかかる
「あ、いいえぇ。なんでもぉ」
嫌だ。私ったら。何を思い出しているのかしら。
丹羽さんの顔を見上げながら、とびっきりの笑顔で微笑んで。案内されるまま、奥まった席へと足を運んだ。
この日も、丹羽さんはジュースを頼んでいた。紅茶や緑茶も飲めない、って、家ではほうじ茶を飲んでいるらしい。
ちょっと……年よりくさいかも。丹羽さん、一敗。
「高校時代の友人が、『ほうじ茶なら低カフェインだから』って教えてくれまして」
「高校生でぇ、そんなことを?」
「ちょっとばっかし、変わり者でね」
「はぁ」
お冷のグラスを指で撫でている、丹羽さんの手が目に入る。
指も爪もがっしりとした、男らしい手。
バレーボールしていた、ってこの前、言っていたっけ。楽器を弾くしかできなさそうだったリョウの手とは、大違い。
丹羽さんの、一勝。
「お待たせしました」
低くかけられた声に顔を向ける。
トレイを手にした初老の男性は、さっき注文も取りに来ていた。この店を一人で切り盛りしているらしい彼の雰囲気は、お店の佇まいとどこか重なる感じがする。店内に小さく流れているインストゥルメンタルの曲をこの人が奏でていると言われたら、納得してしまいそう。
当たり前の顔で、丹羽さんの前にジュースを、私の前にコーヒーを置くと、静かに一礼をして立ち去る。
「丹羽さん、常連なんですかぁ?」
「うーん。それなりに、ですかね。どうしてです?」
「だってぇ。何も言わないのにぃ、マスターぁ? が私の前にコーヒーを置いたからぁ」
「あぁ。あの人は、プロ、ですからね。誰がどの注文を言ったかまで覚えてるようですよ。ファミリーレストランとかでよくある『ハンバーグのお客様は?』っていうの、しないですよ」
「へぇ?」
なにそれ。記憶力の無駄遣い、って思いながら、カップに口をつける。
小さく、雨の音が聞こえていた。
「このお店、静かですねぇ」
「でしょう? 外の騒音が少なくって、BGMも控えめだからか、お客さんも大声で話さないですし」
そう言われると、なんだか音を立てるのが申し訳なくなる。
そっと、カップをソーサーに戻す。
カチャリ、という陶器の音に、肩をすくめる。
「そんなに、緊張しなくっても」
クスクスと、丹羽さんが笑う。
子供みたいに声を立てていたリョウとは違った、大人の笑い。
丹羽さん、一勝。
「丹羽さんはぁ、普段どんなお仕事してるんですかぁ?」
「新薬の開発、ですよ」
「それはぁ、分かるんですけどぉ。何のお薬ぃ?」
「……企業秘密、ですね」
「ええぇ、ケチぃ」
唇を尖らせ気味にして睨むと、丹羽さんが目を逸らせた。
「丹羽、さん?」
「……」
無言のテーブルに、サックスが奏でるBGMだけが流れ落ちる。
「稲本さん」
「はい」
「どこの会社員も守るべきこと、だと思いますが?」
「はぁ」
「稲本さんだって、自社の秘密を俺にしゃべったりしないでしょう?」
「秘密なんてぇ、触れることないですぅ」
次々に流れてくる伝票を処理するだけの私に、秘密もなにもあるもんですか。
むっとした私の脳裏で、”営業の局”と呼ばれている一歳年上の総合職の女性が微笑む。あの人だったら……違うかもしれないけど。
そんなことを思い出させた丹羽さん、一敗。
「本当に?」
「えぇ。だってぇ」
「何が秘密に当たるかは、情報の処理しだいですよ」
そう言って、丹羽さんはストローをくるりとグラスの中で回す。
カラン、と、涼しげな音を氷が立てた。
店から出ると、雨が上がっていた。
なんとなく黙って歩く私たちの向こうから、シャコタンの車が近づいてきた。
「あー、すんませんー。この先って、ホントに行き止まり?」
ガムをくちゃくちゃさせながら窓から顔を出した青年が、声をかけてきた。
「ええ。Uターンする場所も無いですし、ここからバックで下がったほうが」
「バック、っすか」
情けない顔で青年が丹羽さんの言葉を繰り返す。
「細い道ですけど。この先はもっと細くなりますよ」
「あー」
顔が引っ込んで、助手席の女性となにやら話し合って。
「すんませんけど。代わりに……って、無理っすよね?」
「……いいですよ」
クスリ、と笑った丹羽さんが青年の代わりに運転席に座る。助手席からも女性が降りてきて、青年に寄り添う。
助手席のヘッドレストに手を置いて、軽く振り返るようにした丹羽さんが巧みなハンドル捌きで車を操る。そんな彼を見守りながら車について歩く私の横で、青年たちはヒソヒソ話をしては、くすくす笑う。
なんだか、イヤーな感じ。
睨みつけた私を、鼻で笑ったわね。この女。
イライラしている私をよそ目に、丹羽さんが車から降りてくる。車はお店から距離にして、百メートルほど先の曲がり角の手前でハザードをつけて停まっていた。
「あー。そっちの道まで出してくれればいいじゃん」
青年がため息をつく。
「それは、ご自分で。誘導くらいはしますけど」
青年は、その足元に向かってガムを吐き捨てると、彼女を促して車に乗った。
ブオンと、一回空ぶかしをして車がゆっくりとバックを始める。
軽く右にお尻を振ったところで、丹羽さんが窓ガラスをノックした。
パワーウィンドウが下がって、青年が首をだす。
「そっちに出ると、逆走になりますよ」
「はぁ?」
「ここ、一方通行です」
「なんだそれ、使えねぇ道」
そうぼやいた青年は、丹羽さんの誘導に従って通りに出ると、そのまま『ありがとう』も言わずに、走り去ってしまった。
ホント、いやな連中。
「丹羽さぁん、あんなのはぁ、放っておいてもいいと思いますけどぉ」
「ここの道は、時々ああやって紛れ込んでしまうみたいでね。何度か、お手伝いしたこともあるんです」
運転の邪魔にならないように預かっていた傘を私の手から受け取りながら、丹羽さんが肩をすくめる。
「だったらぁ、道を拡げればいいのにぃ」
「行き止まりの生活道路だから、あの店があれだけ静かなんですよ」
「はぁ。でもぉ、不便ですよねぇ」
この道も一方通行だって言うし。
「まぁ。そうですね。だから、今日みたいな雨の日でも、タクシーを使うのは気が引けるんですよ」
あ。
「それでも、今日は稲本さんにここのコーヒーを飲んでほしくって」
照れたような丹羽さんの笑顔に、心臓が音を立てる。
タクシーを使わなかった丹羽さんに、『一敗』って、思っていたけど。
この笑顔で、帳消し。ね。