名前に誇りを
その翌週。私の部屋にやってきた慎之介さんは、一枚の紙を見せた。
「婚姻届?」
「うん」
「どうして?」
試験はまだ先なのに
「登美さんさ、何のために試験受けるの?」
「なんのため、って?」
「結婚するための試験なの?」
「……違う」
「だよね。でも先週、登美さん、言ったんだよ? 『合格できなきゃ、お嫁さんになれない。”丹羽 登美”になれない』って」
「言ったっけ?」
「うん。ゆず茶を飲みながら、そう言って泣いたよ?」
うーん?
「俺は、別に試験の結果なんて気にしてないよ?」
「……」
「いつの間にか本末転倒、してるでしょ?」
本末転倒?
「自信を持つための試験で、追い詰められてどうするの」
「追い詰められて、る?」
「うん」
そうかなぁ?
「登美さんに、俺が余計な思い込みを与えたのも悪いんだけど」
私が手にしたままの用紙の一ヶ所を慎之介さんが指差した。
「ほら、これ」
『結婚後の姓の選択』と書かれた、チェックボックス。
「結婚して、”丹羽”姓を名乗らないと”いけない”わけじゃないんだ」
「え?」
「俺が、”稲本 慎之介”になる選択肢もあるってこと」
それは……有り、なの?
「慎之介さん、婿養子になるの?」
「ならないよ。それが”思い込み”だって」
そう言って、説明してくれた慎之介さんによると。先週結婚した慎之介さんの同僚は、奥さんの姓を選んだらしい。
「奥さんの方の親と養子縁組をしたわけじゃないから、養子じゃないらしいよ」
「へぇ」
改めて、この日初めて手にした用紙を眺める。
そうか。ここにチェックを入れて、『丹羽』になるか、『稲本』になるかを選ぶんだ。
「登美さん、貸して」
「うん」
テーブルに広げた用紙に、電話の横のペン立てから抜いたボールペンで慎之介さんが、記入を始めた。
「し、し、し、」
「うん? なに?」
「し、しん、の、すけさん?」
「登美さん、言えてないよ?」
楽しそうに笑いながら、欄からはみ出しそうな勢いのおおらかな文字で”丹羽 慎之介”と記入がされる。
「どうして?」
やっとのことで喋れた。
「うん?」
「名前、書いちゃっていいの?」
「いいよ。俺は」
書き終えて、ノック式ボールペンの芯が収められる。
「登美さんが”丹羽”になる決心か、俺を”稲本”にする覚悟ができるまで、登美さんが預かっておいて?」
軽く二つに折った書類を手渡されて、つい受け取ってしまった。
「登美さんが記入したら、一緒に届けに行こう」
「……はい」
薄い一枚の紙なのに。
とても重く感じた。
試験の日が迫っているのに。
気を抜いた一瞬に、考えてしまう。
”丹羽”になるのか、”稲本”になってもらうのか。
どうしたらいいのだろう。
そんなことを考えていたのが良かったのか、検定試験は思ったよりも気楽に受けることができた。
試験の週は、さすがに慎之介さんとは会わずに過ごして。
その翌週は、彼の部屋に泊まった。
夕食を食べて、お風呂に入って。
いつもと同じ時間が流れる。
試験が終わって、力の抜けた肩をグルグルと回す。首もクキクキと音を立ててみる。
あー肩が凝ってる。視力も落ちた気がするから、来週は眼医者に行って。一度コンタクトの検診を受けないと。
そう、考えて。
洗面台にコンタクトのケースを置いたままな事に気づいた。
お泊り用に置いてあるケースだから、そのままでも良いのだけれど。
慎之介さんが生活をする邪魔にならないようにと、彼の部屋に置かせてもらっている私の持ち物は一ヶ所にまとめるようにしているから、片付けておこうと立ち上がる。
ノックをするべきだった。
いくら親しいとはいっても。
後悔は……先に立たない。
脱衣所と兼ねた洗面所のドアを開けた正面に、下着だけを付けた慎之介さんが居た。
「登美さん!?」
慌てたような声がして、裸の肩からバスタオルを羽織る彼。
でも。
その一瞬の間に見てしまった。彼の背中。
背中の右半分が、斑に白く色が抜けたようになっていた。
「見た?」
黙って頷いた私に、痛そうな顔をした慎之介さん。
「ごめん、一回出て?」
もう一つ、頷いてドアを閉めた。
さっきまで座っていたテレビの前に、腰を下ろして。パジャマを穿いた膝を抱える。
目をつぶると、さっきの背中が浮かんでくる。
どうして?
「登美さん」
静かにかけられた声に、顔をあげた。
「ごめん。驚かせたね」
「……うん」
向かい合うように床に腰をおろした慎之介さんは、きちんとパジャマを着てて、肌を見せてはいなかった。
「けが?」
恐る恐る尋ねる。
「うん。子供の頃に、火傷してね。痕が残っちゃって」
命に関わるような酷い火傷じゃなかったものの、傷跡が変色したらしい。
「傷が残りやすい体質、らしくって」
「そっかぁ」
そっと腕を伸ばして、右肩に触れてみる。一瞬とはいえ目に入った背中は、この辺りが一番広く色が抜けていた。
「痛い、とかは大丈夫?」
「うん。傷自体は治っているから」
「そうなんだ」
私が触れるに任せている慎之介さんが、小さな声で尋ねる。
「気持ち悪く、ない?」
「気持ち悪い?」
「うん」
「どうして?」
気持ち悪かったり……するかなぁ?
「今まで付き合った相手が……」
「そんなこと、言ったの?」
「う……ん」
慎之介さんの彫りの深い顔が、泣きそうに歪んだ。
「体質なのにね」
そっと顔を寄せた、彼の首筋。
耳の後ろの白い部分に唇を当てる。
「ごめん、言わなくって」
「ごめん、気づかなくって」
謝る彼の口調を真似て、私も謝る。
「いや。登美さんの眼が悪いのを利用して、隠してたから」
「そうなの?」
「うん。だから、『部屋ではコンタクト止めて』って」
なるほど。
確かに、薄暗い部屋でメガネを外したら……多分見えてない。
ぎゅっと抱きしめた腕の中で、くぐもった彼の声がする。
傷痕を引け目に感じてた彼は、長い間、女子から距離を置いていた。自分は恋愛とは縁がないと思って、ご隠居が『若いねぇ』と眼を細めて見るように、周囲の恋愛沙汰を眺めて過ごしていた。
そんな彼も年頃になると、見た目と学歴が女性との縁を呼んだらしいけど。
女性との会話に慣れていないせいで、すぐに赤面してしまう上に、喫茶店ではジュースを頼む彼の”幼さ”に、女性はすぐに愛想を尽かした。なんとか付き合いが続いても、ベッドで肌を目にした途端に離れて行ったらしい。
「ありのままの慎之介さんなのにね」
コクリと、頭が頷く。
「ありのままの慎之介さんを、見せて?」
「本当に気持ち悪く、ない?」
「私の爪、気持ち悪かった?」
「いや。登美さん自身だから」
「でしょ? 同じことよ?」
肩を押すようにして、彼が頭を上げる。
ゆっくりとひとつずつ、パジャマのボタンがはずされる。
すべり落とすようにして、上着が床に落ちる。
膝で立ち上がって、彼の背後に回る。
そっと、指先で白い痕を撫でる。
変色した爪と、変色した肌が触れ合う。
「慎之介さんも、がんばってきたのね」
「うん?」
「山、登ろうとしてきたんでしょう?」
「俺は……逃げてたかもしれない」
うなだれた彼から、吐息のような声がする。
そんなこと無い。
ありのままを見せる怖さを知っているから。彼は、私のありのままを受け入れる広さを持った。
「慎之介さん」
「うん」
「ありがとう。ありのままを見せてくれて」
背中から、抱きつく。
彼の頬が赤くなるのが見えた。
彼の”広さ”に敬意をこめて。
赤くなった頬に、キスを。
その夜、私を抱いて眠る彼の寝顔を眺めながら、考えた。
ベッドに入るときには、必ず部屋の照明を極力落として。いつも手の届くところに脱いだパジャマを置いていた。事後の処理の前に、上着だけは羽織って、私にも服を手渡してくれる。
彼のそんな習慣は、ことごとく私に肌を見せない努力だった。
嫌われたくない、って、思ってくれてたのかなぁ
彼のあごに残る傷痕を撫でてみる。
指を滑らせて、右の耳の下に触れる。
ドクドクと彼の鼓動が、頚動脈を通じて感じられる。
うん。決めた。
「ねぇ、慎之介さん」
「うん?」
翌朝、ご飯を食べている彼にひとつ、提案。
「今日、映画に行く前に、私の部屋に寄ってもいい?」
「何? 忘れ物?」
「うーん。まぁね」
ふふふ。慎之介さん、どんな反応をしてくれるかな?
そう、思いながらお味噌汁を飲む。
その向こうで怪訝そうに首をかしげる彼が、小松菜の煮浸しに箸を伸ばす。
「上がって、待ってて」
「うん」
勝手知った風に、靴を脱いでローテーブルの前に腰を下ろした彼を横目に見ながら、本棚代わりに使っているカラーボックスの前に膝をつく。
ええっと。クリアファイルの青。
目的のものを引っ張り出して。
ボールペンと一緒に、ローテーブルに並べる。
「と、と、と、と」
「なぁに? また、ニワトリ?」
「登美さん?」
「はぁい」
軽く返事をしながら、丁寧に。今までの人生の中で一番丁寧に。一番書き慣れた文字を書く。
”稲本 登美”と。
”妻となる者”の欄に。
「決めた、の?」
あたりをはばかるような小さな声に、頷く。
深呼吸をして、ボールペンの先を、チェックボックスへ。
婚姻後の姓は……”夫となる者の姓”。
「慎之介さん」
ボールペンを置いて。
姿勢を正して、彼を見る。
「はい」
彼も、まっすぐに私を見てくる。
「私は、魔よけの『にわ とみ』に、なるわ」
「え?」
「いつだったか、慎之介さんが言ったじゃない? 『悪い夢を食べる魔よけのニワトリになってやる』って」
「ああ……うん」
「だから。私は、慎之介さんの『つらいことを食べる魔よけの”にわ とみ”になる』わ」
テーブル越しに伸ばされた彼の手をとる。
まだ完全には戻らない爪を、彼の大きな手が撫でる。
真っ赤になった彫りの深い顔が、クシャクシャと泣き笑いのように歪む。
「ありがとう、登美さん」
「ううん。こっちこそ。ありのままの私を好きになってくれて、ありがとう」
彼が抱え続けてきた色々な”体質”を、劣等感と呼ぶのは間違っているかもしれない。
けれど、私は彼の体質ごと愛して。
劣等感を喰らい尽くす。
劣等感なんて誰にだってあると思うの。
それを克服する努力が、成長の原動力だって信じてた。
努力では変えられないモノだって……世の中にはある。
それも含めて”私自身だ”と、愛してくれる人に出会えて。
それも含めて”彼自身だ”と、愛することができる人に出会えたから。
『ニワトリ』と呼ぶなら、呼べ。
私は、丹羽 登美になる。
一生をかけて、互いの胸に巣食う劣等感を喰らい尽くしてみせるわ。
END.




