焦り
年度が変わって、研修を終えた新人の配属先も決まった。
『あまり、年度替わりって意識することないな』なんて言っていた慎之介さんは、三月の終わり頃からなんだか忙しいそうで、時々職場に泊まりこんでいるらしい。休みの日にも、あくびをしているのを見たら、『ゆっくり寝てて』って、彼の部屋で僅かな時間を過ごす。仮眠をとっている彼の邪魔をしないように、静かに食事の支度をしただけで帰ることも。
検定試験の勉強をするには好都合と自分を宥めながら、一人テキストに向かい合う。
爪は少し綺麗になってきた。
あとは、試験に合格さえできれば。胸を張って、慎之介さんと結婚できる。
試験まであと二ヶ月と少し。
ゴールデンウィークを目前にしたある夜、珍しく部屋の電話が鳴った。
最近では両親も携帯にかけてくるから、そろそろ解約しようと思ってたのに。珍しいこともある、と思いながら受話器を手に取る。
[もしもし。トミィ? 洋子だけど……覚えてる?]
かけてきたのは、学生時代の友人だった。
[洋子ぉ! 久しぶりぃー]
[良かったぁ。トミィの電話、変わってなくって]
[悪かったわね、変わってなくって。で、どうしたのぉ? 急に]
[この春、ダンナの転勤でこっちに戻ってきたから。久しぶりに会えないかな、って]
連休中に、会おうか。なんて約束をして、その日の電話を切った。
洋子との待ち合わせは、ターミナル駅だった。
二十五、六で結婚した彼女とは、旦那の転勤のせいで疎遠になっていたから、顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。
「トミィ?」
改札について、くるりと見渡した私に左側のジュースの自販機の前から声がかかる。
「洋子!」
「トミィ、会いたかったぁ」
友人のうちで一番の美人は、相変わらず美人だった。
例え、小さな子の手を引いて、ジーンズにスニーカーを履いていても。
お昼時だったこともあり、そのまま少し歩いたところにあるファストフードに入る。
「洋子が、こんな所に入るなんて」
「そう? 子供は喜ぶし、お財布にも優しいわよ?」
平然と言いながら、息子とメニューの相談をしている洋子を見ていると、『あー、お母さんだな』って思う。
「トミィは? 決まった?」
「うーん」
めったに入らないから、メニューを見てもピンと来ない。
無難そうなセットメニューを選んで、飲み物は……。
「オレンジジュースで」
「トミィがオレンジジュース?」
「だって……」
数回入った経験で、コーヒーがあまり美味しくなかったんだもん。
ふくれながら、トレーを受け取る。
「彼氏の影響?」
「はぁ?」
「結構、トミィって彼氏に影響されること、多かったから」
「そうかなぁ?」
「あれ、自覚なかった?」
空いてる席にトレーを置いて、洋子がクスクス笑う。
笑いながら、壁際においてある幼児椅子を取りに行く間、息子を私の横に放置、って。あんたねぇ。
息子は慣れているのか、セットについていたおもちゃを握りしめて、ニコニコしているし。
母は強し? かな?
食事をしながら、互いの近況なんかを話してて、ふと有線らしきBGMに意識が捕まった。
「あ、」
「どうしたの?」
天井を指差すようにした私に、洋子も耳をすませる。
ボーカルの声に特徴のある、リョウのバンドの曲だった。
洋子も一時期、リョウのバンドのメンバーと付き合っていたことがあった。
最初、ドラムの子にアタックして『彼女が居るから』って断られた洋子は、いつの間にか、ベースの子と付き合っていた。
グループ交際、ではないけど。たまに四人で飲みに行ったりもしたっけ。
そんなことを思い出しながら、曲を聴く。
あれから、十五年、か。
曲が変わる。黙って聴いていた私達も、食事を再開する。
「若かった、よねぇ」
ポテトを齧りながらそう言って、洋子が微笑む。
「若かったねぇ」
「あのまま、だったら私達、芸能人の奥さんだよ?」
「今になったら、『別に、いいや』って感じ」
リョウの奥さんになりたいわけじゃない。今の私は、慎之介さんの奥さんになりたい。
「まぁ、ね」
相槌を打ちながら、洋子が息子の口元を拭う。その手元、学生時代のようなネイルはなく、きれいな爪をしていた。
まだまだ、遠いなぁ。
ため息を付きながら、自分の爪を眺める。
「ね、洋子?」
「なに?」
「ネイル、いつ止めたの?」
「妊娠した時」
「ダンナさん、なにか言ってた?」
「うーん? 別に?」
「そうかぁ」
「私の見た目がどうでも興味ない人だから」
「へぇ」
さすが美人。化粧しててもしてなくっても、ダンナからの評価が変わらないとは。
「もともと、子供時代から知ってる人だし」
「そうなんだ。幼馴染みかぁ」
いいなぁ。幼馴染み。
私も、慎之介さんの子供時代を見たかった。
「ううん。従兄」
「ぶ!?」
オレンジジュースに咽た。
洋子の息子が『だいじょーぶ?』って、小さな手で背中をトントンしてくれる。
「ちょっと。洋子。なにそれ、聞いてない」
「うん、言ってない」
「超スピード結婚って……」
「いや。実はこっそり付き合ってたんだけど。うちの母親と、伯母さんが仲悪くってさ」
「はぁ」
「お祖父ちゃんがとりもってくれて、『どうにかOKが出そう』ってところでダンナの転勤があって」
『で、仕事辞めてついてっちゃった』なんて言いながらも、フーっとため息をつく。
「どうしたの?」
「こう景気が悪いと、ダンナのお給料も上がらないし。手に職もないからパートをするにしても、仕事ないし。ちょっと反省する時があるんだよね」
「反省?」
「うーん、なんて言うか……バブル期に遊びすぎたなとか。もうちょっと、足場を固めてから一緒になったほうが良かったかなとか」
「そうか」
『手に職』と聞いて、反射的にキリさんの奥さんを思い浮かべた。
専門職のあの人は、職場から請われて復職したよね。
もしも私が、仕事を辞めたら……洋子と同じように、反省するのだろうか。
『帰って夕食の支度をしなきゃ』って言う洋子と別れて、一人電車に乗る。
自分の手のひらをボンヤリと見つめながら、考える。
今、受けようとしている検定試験。合格したら、”手に職”がつくだろうか。
それからは、更に勉強に力を入れる。
通勤の合間、昼休み。一分たりとも無駄にできない。
連休明けに仕事が一段落ついたらしい慎之介さんは、そんな私を『無理だけは、しないで』って言いながら、見守ってくれていた。
試験までの日数を数えては、焦りが胃を締め付ける。
五月最終の土曜日。慎之介さんは職場の同僚の結婚式だとかで、私が彼の部屋に泊まりに行った。
合鍵で入った部屋で夕食を作って待っていた私に、『おみやげ』って、テーブルフラワーと引き出物のケーキをくれた彼の礼服姿に、一瞬、見惚れる。
いつものデートの姿も、互いの部屋でくつろいでいる時の姿も大好きだけれど。
上背も肩幅もあって、彫りの深い彼の顔立ちにスーツは特によく似合う。
「登美さん?」
「はぁい?」
「どうしたの? そんなに見て」
「うーん。格好良いなぁって」
言った途端に、彼の顔に血が上る。
「だ・か・ら。俺で遊んで楽しい?」
「遊んでないわよ? 正直な感想。スーツ、似合うなぁって」
「だったら、もっと格好いい俺、見たくない?」
「もっと?」
「新郎の礼装」
そう言われて、想像してしまった。白いタキシードを着た慎之介さん。
見たくないわけないじゃない。
「俺は、見たいよ? ウェディングドレスを着た登美さん」
「うん」
こっちまで顔が赤くなる。
そんな私を一回、ギューと抱きしめて。
『着替えてくる』と言ってキッチンから部屋に向かった慎之介さんが、部屋を仕切る引き戸を閉めた。私もコンロに向かって夕食を温めなおす。
「今日の式の新婦とは、同じ実験チームで……」
寝物語に、そんな話をする慎之介さん。
「研究所に女の人、居るんだ」
「居ないわけないじゃない?」
「研究職って、男の人だけだって思ってた」
「それは、完全に偏見。だって、キュリー夫人って、女性だよ?」
「あー。そうか」
「少ないのは、事実だけど。それでも、理系の女子大だってあるわけだし」
「うん」
ゆるやかに髪をすく、慎之介さんの手が気持ちいい。
「それはさておき。新郎が、俺達を知りあわせてくれた上司の息子」
「へぇ。縁って、不思議よね」
「だろ?」
額にキスをされた感触。
「焦らせる気はないけどさ。俺は、もっと登美さんとの縁を強くしたいって思ってるからね」
「う、ん」
私も。
慎之介さんとの縁。もっと強く結びたい。
その夜。夢を見た。
自分でも、夢だと判っている夢。
母校である女子大の大教室に、私は一人で座っていた。
机の上には、仕事で使っているのと同じノートパソコン。
起動スイッチを押す私はなぜか、ウェディングドレスを着ていた。
聞き慣れたメロディーを奏でて、パソコンの画面が立ち上がる。
立ち上がったけど……何、これ?
アイコンが、理解できない。
検定試験の本番なのに、どうすればいいの?
早くアプリケーションを開いて、問題をクリアしないといけないのに。
適当にマウスを当ててクリックすると、爆弾マークが出てシャットダウンしてしまった。
どうして? どうして?
慌てて、もう一度立ち上げる。
今度は、アイコンすらなくって。意味不明の外国語らしいミミズみたいな文字が並んでいる。
どうすればいいのか、頭をかきむしりたくなっていると、教室のドアが開いた。
「登美さん?」
慎之介さんの声がする。
「お願い、待って」
「登美さん」
彼の声に、ため息が混じる。
「合格するから、絶対に合格するから。お願い待って」
彼が背中を向けたのが判る。
「慎之介さんっ」
他の誰かの手をとるのが、逆光のシルエットで見えた。
「行かないで!」
縋るように伸ばした手は、彼に届かないまま。教室のドアが閉まる。
パソコンの画面に、理解できる文字が浮かんだ。
”TIME OVER”
「慎之介さん、慎之介さん……」
涙で、画面が歪んだ。
「登美さん?」
泣きながら求め続けた声に呼ばれた。
「どうした? 登美さん」
肩をゆすられて、目が覚めた。
半身を起こして覗き込む慎之介さんの姿が、メガネのないぼやけた視界に映る。
「しん、の、すけさ、ん」
「『待って、待って』って、うなされていたけど。怖い夢でも見た?」
「……うん」
怖かった。
今でも心臓がドキドキ言っている。
「一度、ちゃんと起きな」
そう言って、引っ張り起こされた。
膝を抱えるように座布団に座って、お湯を沸かす慎之介さんの後ろ姿を、見つめる。
その視線に呼ばれたように、彼が振り返る。
「登美さん。暑いけど、ゆず茶、飲む?」
「うん」
頷いた私に柔らかい笑いが返される。
その笑みに、肩の強張りが溶ける気がする。
「熱いから、気をつけて」
幼子に言い聞かせるようにして、マグカップが置かれる。
フーフーと冷ましながら、口をつける。
「登美さんが見た夢、聞かせて?」
「嫌」
「怖かった夢は、人に話せばいいんだよ?」
「どうして?」
「正夢にならないから」
自分も同じように、カップに口をつけた慎之介さんが、ちょっと考えてから言葉を足す。
「それにほら。俺、『ピヨ』だし」
「へ?」
「ニワトリは、魔除けになるらしいよ。害虫を食べるから」
「そうなの?」
『バクみたいに、悪い夢も食べてやるよ』って、言った彼の言葉に、さっきの夢が口からこぼれた。
話し終えた私の頭の上で、ポンポンと軽く撫でるように手を弾ませる。
「もう、これで大丈夫」
と言って、冷めかけたゆず茶をすする。
「正夢、にならないんだから。登美さんは、ちゃんと合格できるよ」
「うん」
なんだか、そんな気がしてきた。
「もう一度、眠れそう?」
「うん」
「じゃぁ、それを飲んだら、お休み」
「うん」
残ったゆず茶は、ハチミツだけじゃない甘さがした。




