山に登る決心
お盆休みも終わり、仕事が再開した日。
松葉杖をついた状態で通勤ラッシュの波にもまれるのは怖くって、かなり早い時間の電車で出勤した。
会社の入っているオフィスビルの三階。
エレベーターを降りたところで、困ってしまった。
どうしよう。鍵が開いていない……。
入社以来、一番乗りなんてしたことが無いから、どうすればいいのかも分からず、エレベーターホールで立ちすくむ。
壁に寄りかかるようにして誰かが来るのを待っていると、軽やかな音がしてエレベーターが止まる。
「おはよう、ございます?」
「……おはようございます」
「どうしたの? その足」
「ちょっと……」
降りてきたのは、一歳年上の”営業の局”。
「上がってきたものの、鍵が開いてなくって……って?」
「ええ、まあ」
「その足じゃぁ、もう一度守衛室に下りるのも大変ね」
「はぁ」
「私も『誰か来ているだろう』って守衛室に確認せずに上がってきて無駄足、ってよくやるわ」
華やかに笑いながら、彼女が鍵を回す。
そういうことにしてもらっておこう。
とりあえず、明日からは守衛室に立ち寄って、上がってくること。
心のメモに、書き込む。
近くの壁に松葉杖を立てかけて、自分の席に座る。
あぁぁ。疲れた。
両手をグーパーグーパーとほぐしていると、少し離れたパーティションの向こう側、営業部の辺りで、パソコンが起動するメロディが聞こえる。彼女がパソコンを立ち上げたらしい。
できる人、って、こういう人なんだ。『始業まで、どうしようか』と思っている私とは、何もかもが違っている。
手持ち無沙汰にデスクの引き出しを開けて、休み前にボールペンのインクが切れていたことを思い出した。棚から替え芯を取り出して、残りが少なくなっていることに気付いた。
そうだ。
コピー用紙とか、庶務に請求を出したほうがいい消耗品をチェックしておこうか。
コットンコットンと、杖を突きながら消耗品の在庫を確認していると、人事の課長が出勤してきた。それからも、ちらりほらりと出勤してくる人たちに『今日は、早いね』とか『足、大変だな』とか言われる。
そして、私が普段出勤している、始業の十五分前ごろに、どっと波がくるように人が増えた。
さて、今日も一日が始まる。
足が治るまでの一ヶ月弱、朝早くに出勤していてわかった。
”仕事ができる”人、は、みんなよりもがんばっていることを。
人よりも早く来て、準備をして。始業時間にはフル回転で仕事に取り掛かれるように、アイドリングをしている。
「ねぇ、慎之介さん」
「うん?」
やっとギプスが外れて、久しぶりに外で夕食を摂った。
「私も”仕事ができる”ようになれるかなぁ」
「お、やる気だねぇ」
「やる気、っていうか。今まで、サボりすぎてたなぁって」
慎之介さんの家の近くのビストロで、スープをすくいながらそんな話をした。
「まぁ、まずは、人並みを目指しなよ」
「人並み?」
「そ。"山を登る”にしてもさ、まずは近場の山から始めないと。ギプスを巻いた足で富士山に登るのは無茶でしょ?」
スプーンを置いた慎之介さんが笑う。
「そんなに無茶かなぁ?」
「無茶、っていうか、目標が大きすぎたら、潰れるよ?」
「目標は大きく、って、言わない?」
「言うけどさ。限度があるよ」
私たちが中学生の頃に流行った、”鷹になれる日を夢見る 雀の歌”を慎之介さんが口ずさむ。
そんなに大それた夢かなぁ。
「登美さんがそこまで大きく望んだら、いつ、俺と結婚してくれるか分からないし」
歌を止めた慎之介さんが、ワイングラスに手を伸ばす。
その顔が赤く染まっているのは、アルコールのせいじゃないと知ってる。
「やっぱり、時間がかかるかなぁ?」
「そりゃね。十年分積み重ねた評価を覆すのに、同じだけかかるとして、十年。その上まで、って考えたらさ」
「そうか」
営業のお局様や、キリさんの奥さんみたいにゼロからのスタートじゃないんだ。
マイナス十年のスタート。
「スタートラインまで戻すのに、十年か」
「そこまで、待たせないでよ?」
不服そうに、慎之介さんが口を尖らせる。
「待ってくれないの?」
「待てない。一日でも早く、って内心は思ってる」
うわわ。
ストレートな物言いに、照れる。けど。うれしい。
「俺は、がんばる登美さんを傍で支えたいよ」
「今でも、支えてもらってるよ?」
指先で、ペンダントを撫でる。
「もっと近くで。目を離したら、どんな無理をしてるか」
「……うん」
サラダをつつきながら、考える。
どうなれば、自分に自信が持てるのだろう。
どこがゴールラインなのだろう。
「爪のほうが先かなぁ」
「うん?」
「自分に自信が持てるよりも、爪が治るほうが先かも」
相変わらず変色している爪を眺めて、ため息が出る。
先は、長い。
それからも早めの出勤を心がけつつ、先輩が退職した穴を埋める戦力に少しでもなりたいと、自分なりに努力をする。最低限仕事に必要な操作を覚えただけで満足していたパソコンのスキルを上げるための講座にも、自腹を切って通った。
その年の暮れに、森山さんが結婚退職をして。
送別会を兼ねた忘年会の席で、私は課長にお酌をしていた。
「最近、がんばってるな」
ビールを注ごうとしていた手が、その言葉に驚いて揺れる。ビール瓶とグラスがぶつかって、硬い音がする。
「は、い」
「稲本さんは、もともと計算が丁寧で間違いが少ないから信頼していたけど」
信頼、してくれてたんだ。
「仕事の遅いのが難点、だったんだよな」
グラスに口をつける課長の言葉に、首をすくめる。
無駄な時間をすごしていて、すみません。って。
「森山さんがやめて、年明けには若い子ばっかりになるからさ。頼りにしてるよ」
「はい」
スタートラインに一歩、近づけただろうか。
心地よい酔いにふわふわしながら、帰りの電車に揺られる。
明日は、土曜日。
慎之介さんに、会える。
一歩、進めたよ、って報告したいな。
ふと見上げた電車の戸口に張られたコンピュータ学院の広告。
コンピュータ技能の検定試験の合格率が、書いてあった。
これ、合格できたら。
ひとつ、自信になるかもしれない。
秋から通っているパソコン教室で、講師の先生と相談しながら検定試験の情報を集める。
春から夏にかけて、受けることができれば……。
「ちょっと、登美。何この爪!」
お母さんの声が広くもないキッチンに響く。
今年は、少しだけおせち料理を手伝ってみようかと、早めに帰省していた。
エプロンを付けて、手を洗っていた私の手首を、お母さんが握りしめる。
「病院は? 行ったの?」
「うーん」
半年、ネイルを止めて。綺麗になったような、なってないような爪。
「行ってないのね?」
「仕事が忙しくって」
「忙しいって、言ってもね。自分の体でしょうが!」
「うーん」
生返事をしながら、サツマイモを手に取る。
「ちゃんと、診察をうけなさいよ」
「はぁーい」
『本当に、わかってるのかしら』って、お母さんの声を聞き流しながら、菜切り包丁を手にサツマイモをまな板に置いた。
三ヶ日の間、チラリチラリと両親が私の手元を見ているのが判った。
帰ってくるときだけ、ネイル、しておけばよかった。
心配かけているのはわかるけど。
その視線が、煩わしい。
慎之介さんの、視線の暖かさが身にしみる。
『その爪もひっくるめて、登美さんだから』って言ってくれる慎之介さんに、会いたい。
年が明けて、本格的に忙しくなった。
「うわ、これも森山さんが担当だったか。稲本さん、引き受けられそう?」
「たぶん……あー。はい。いけそうです」
そんなやり取りを係長と交わすことが度々あって、先輩が抜けた時以上に仕事の割り振りが増えた。その仕事量に、森山さんがいかに”仕事をしていた”か、思い知る。
残業も増える中で、検定試験の勉強もして。
仕事用と勉強用とデート用に、体が三つくらい欲しくなる。
「また、無理してない?」
後ろから抱きつかれて、慎之介さんがお風呂から出たことに気づいた。
一足先にお風呂を済ませた私は、隙間時間を利用してテキストを開いていた。
かつては寝化粧に当ていたこの時間も、積み重なればきっと大きい。
「無理、はしてない」
「そう?」
彼の大きくてがっしりした手が、肩に乗る。そのまま、ぐーっとツボを押されて、うめき声が出る。
「ほら、凝ってるよ?」
「うー」
盆の窪、こめかみと、手が移動する。
お風呂あがりの体温と、絶妙な力加減が心地いい。
「邪魔する気はないけどさ。ほどほどにしときなよ」
「でもぉ」
「でも、なに?」
「覚えた端から、忘れてっちゃう」
歳、かなぁ。学生の時のようには、勉強がはかどらない。学生の時も、出来が良いわけじゃなかったから、なおさら焦る。
「実務でやってるんだったら、基礎はあるでしょ?」
「あるのかなぁ?」
「それすら、不安?」
「うん」
指圧をしていた彼の手が、私を抱き込む。
「大丈夫。登美さんは、ちゃんと虹をつかめるよ」
肩越しに伸びた右手が、テーブルにおいていた栞を摘み上げてテキストに挟む。
「山登りの良い所ってさ。休憩の楽しみもあるらしいよ?」
「誰が言ったの?」
「俺」
テキストを閉じた彼の手が、私の顎にかかって仰向けられる。
彫りの深い顔が近づいてきて、目をとじる。
「ちょっと、一息いれなよ」
ささやき声が聞こえる。
「う、ん」
「休憩してもいつかは頂上につくから」
ね? とか言っている慎之介さんに、メガネを外された。




