17
“これからどうするの雅人”
「よし、よし。今日こそ帰ったら言う。言うの」
ここずっと用意してい台詞を復唱し、決意を固くして私は拳を握った。
朝一緒に遅く起きて、私が帰るまで一応起きてはいるものの、風呂を入っている隙に寝てしまう雅人とは生活リズムが合わず、核心をついた話をするタイミングを逃してずるずると時間だけが過ぎていってしまった。
このまま雅人を部屋に置いているだけではどうにもならない。
そろそろ本当に、今までの事とこれからの事でも話し合わないと。
もう私情や同情を挟まず落ちついて話せる頃だろう、残業から帰る道すがら考えていると、部屋の明かりが消えている事に気づいた。
ドアノブに鍵を差し込むもそれは意味を成さず、そのまま扉を開くと、ここ1週間迎えてくれていた人はいなかった。
スマホも与えた着替えもなく、捜すように部屋に入れば、カラーボックスに置いてある小箱の蓋が開いているのが見えた。
そこには通帳が入っていた筈だったが、中には何も入っていなかった。
「…………ねぇ、庸子……」
「うん、分かってる。言いたい事は」
流石の私も心が挫け、空になった小箱を見た2日後の金曜の華々しく賑わう夜中12時過ぎに、飛鳥の行きつけのバーに呼び出したのだった。
その間雅人は帰ってきていない。
それもその筈、相鍵はテーブルに残されていた。
「下ろされていたの?」
「ううん。それは無かったけど。でも仮に下ろされてたとしても、過去の教訓を生かして貯蓄用の通帳を3つ作ったから3分の1で済んだよね」
「そういう問題じゃないから!」
飛鳥がカウンターを叩けばグラスの氷がカランと鳴った。
私は目の前のジントニックを啜り、その苦味と冷たさが心地よく、思わず顔を顰める。
「どうしてあいつが現れた時点で私に連絡しなかったの!?」
「全くだ。どうしてしなかったんだろうね、私」
「もう庸子! どうしてそう流されっぱなしなの!? そんなの、あいつらパチンカスは1度味を占めたらハイエナのように群がって、最後の血の1滴まで残らず啜るような図太い生き物なのよ!? ああ、もうっ! 連絡してくれてたなら私が投げ技絞め技全部かけて追い払ってあげたのに!!」
「飛鳥にやられたら死んじゃうよ」
どこまでも制裁方法は同じな飛鳥に思わず笑ってしまう。
私の方を向いてまだ何やら言おうと口を開けていたけれど、曖昧に笑ってグラスを空けて4杯目を頼む。
今日はまだ酔える気配がない。
「……全く。クリスマスが近いっていうのに、どうしてこんなにお通夜にならなくちゃいけないのよー」
「ごめんね」
「あんたじゃないよっ。雅人のクソ野郎よ。クズよ。……ほんっと、さいてー……」
勢いよくワインを開けていく飛鳥。
涙は出ない私の代わりに飛鳥が流してくれる。
うん、最低。
私も最低。
学習しない馬鹿なヤツだ。
余程出て行ったあの日の1人の部屋がきいていたのだろう。
この2ヶ月、忙しい事を理由に考えなかったツケが回ってきた。
―――目を瞑れば、雅人の笑顔がよみがえる。
『渡辺庸子ちゃん? 俺雅人。ようちゃんって呼んでいい?』
2年前、向こうから告白されてあれよあれよで付き合う事になって。
好かれるよう猫を被っていたけれど、私は嫌いな人に流されたりはしない。
『ようちゃんにお金返せるかなって。そんで、また昔みたいに、さ。ようちゃんと一緒に暮らせたらなって思って』
もういちど、しんじてみたかったんだ。
『もう一度、やり直したいよ、ようちゃん』
わたしだって、すきだったのだ。
「―――よし、庸子! 今日は朝まで飲もう!」
ダンッと拳を置き、マスターにボトルを頼む。
まだ半分くらいある私のグラスに注ぎ、新たなカクテル(?)を作っている飛鳥。頬は赤く、その目は座っている。
「そして忘れよう! 次の恋を見つけよう、庸子! 今度は自分からちゃんといい人を見つけて好きになるのよ!!」
「お、おー……?」
「声が小さい!」
「おーっ」
いつかしばかれた時の様なノリに、思わず笑ってしまった。
それを止める事が出来ず腹を抱えていると、マスターと飛鳥が目を剥いているのが目に入る。
「飛鳥……、今日はずっと一緒にいて欲しいな」
乾杯用にグラスを傾けると、気づいた飛鳥はにかっと歯を見せて笑い、コツンと当ててくれる。
その奥でマスターが小さく笑っているのが見えた。
飛鳥スペシャルを口にすれば、やはりというか、口の中で大戦争が起こった。
「…………まずっ」
あまりの不味さに、少し涙が出たかもしれない。
*
「おはようございます」
午後19時前。
いつもより30分程早く休日出勤した私に、部屋の主は驚いた顔を上げた。
結局、飛鳥とは5時頃まで飲んで、それから家に帰ってベッドに倒れるように眠り込んでしまえば、次に目が覚めた時には17時を過ぎていた。
かなり寝た。
そして翌朝までの酒で顔がむくむくだ。
プラス土曜の休日が丸潰れ。
起きて特にする事もなく、世の恋人達がクリスマス前のこの妙な緊張感溢れさす大切な時期に暇を持て余した私は、『ケーキいかが?』と呼び止めてくるサンタを振り切って早めに出社したのだった。
「おはよう。今日は早いな、ヨーコ君」
「暇だったので」
いつものようにソファに座り、DVDを見ている室長の後ろを通り、自分のデスクに鞄を置いた。
画面から流れる額に雷の傷を持った男の子の呪文が、部屋に響き渡る。それを熱心に見つめる室長。笑う所なのだろうか。
後30分。
皆が来るまでゆっくりしていようと、室長の隣に腰掛けた。
「腹は空いていないか、ヨーコ君」
「食べてきたので大丈夫です」
イカソーメンを勧めてくる室長に手のひらを向け、ソファーに背を預けて画面を見つめた。
「喉は乾いていないか?」
「大丈夫です」
ポリポリとしきりにイカソーメンを食べる音が隣から聞こえる。
「……」
「……」
まだ聞こえる。
そんなに食べたら喉が乾くだろうに―――って、ああ、そういう事か。
「気が利かなくてすみませんでした。今淹れてきますね」
ソファーから立ち上がり台所へ向かおうとすると、後ろに腕をひかれた。
あまりの力強さにバランスを崩してひかれるまま倒れると、視界が黒に包まれる。直ぐ目の前に透明のボタンが見え、どうやらいつの間にか立ち上がっていた室長の胸にたどり着いたみたいだ。
「……室長?」
いきなりの抱擁に戸惑いながら声をかけると、室長の腕が私の背に回る。
それはここへ来た時と同じ手のひらで、変わらない体温をしていた。
「……大丈夫か、ヨーコ君。いつ話してくれるのかと思えば……全く君は……」
はぁ、と溜息が頭の上を掠める。
後半部分は溜息と共に小さく呟かれたが、近距離のお陰でバッチリ聞こえた。
「そんな腫れた目をしていれば、いくら私でも気付くぞ。辛いなら今日休んでも構わない。1日くらい私達でもつ筈……はず、だ」
泣いてはいないけれど、と悪態をつくのも面倒だ。
「……室長」
「なんだね」
雅人とは違って上背もあって、目の前にある胸の位置も違う。
広い胸も長い腕も意外としっかりしていて、簡単に私を受け止める。
いつの間にか馴染んでいる存在に、思わず背中に回してしまいそうになっていた手を止めて、目の前にある身体を押した。
「……残業の方は大丈夫です。昨日友人に慰めて貰ったので問題はありません」
「むっ!?」
そう言って離してくれたけれど、腕を器用に持ち替えながらくるりと向こうを向いて、私の腕を腰に巻き付けた。
……何がしたいんだこの人は。
「ははは、そうか。すまんすまん。あー……、ならこれならどうだ? 背面からの方がやり易いか? 君の気が済むまで私を好きにしなさい」
「はい?」
「心が落ち着いているのならば、次は身体を動かしてスッキリするのが一番だろう!」
「……室長、それって慰めて……くれているんですか?」
勿論だともと笑って肩越しに見下ろしてくる室長に、思わず溜息が出た。
さっきのアレもそのつもりだったのか?
何にしろよかった。理性が働いて。
しかし、この人は私をなんだと思っているのだ。
これからそのスッキリする事が待っているのに。
……それでも。
何故だかその真白で無防備な白衣に、重たい頭を預けていた。
するとビクリと背筋が伸びる室長。何を期待しているのだ、変態め。
「……室長」
「……う、うむ」
「私……、最初見た時から雅人の広い背中が好きでした」
「む……?」
『まあ君の背中、広くて素敵っ(ハート)』
あの台詞はあながち嘘ではないのだ。
目を閉じれば、雅人の背中が瞼の裏に写し出される。
「腰に手を回してジャーマン・スープレックスをかけようか……、それとも首に抱きついてスリーパーホールドをかけようか……どちらもかけやすそうなその程よいその広さと厚みに結局何も選べなくて、ずっと指を咥えて見ている事しか出来なくて。私の乙女心をガンガンに揺さぶってくる極上品なんですよ、本当……。―――だけど結局、キャラ壊せなくて別れるまで何一つ出来なくて、後悔ばかりで笑っちゃいますよ」
はぁ。勿体無い。
出来たらきっと、気持ちよかったんだろうなぁと思う。
やはり最初から遠慮していてはいい事はないのだ。
「―――全く、本当馬鹿だな」
「返す言葉もありません」
「馬鹿なのは君の恋人だった男だっ!」
室長が珍しく声を荒げている。
私の為に慰めの言葉をくれるのだろうか?
「君の技を……あの素晴らしき技の数々を、一度もかけられた事が無いだと……?」
「……はい?」
何やら雲行きが怪しくなってきたのは気のせいか?
「……それは勿体無い事をしたな恋人君よ、そこは自分からヨーコ君の真なる力に気づいて誘い込むべき所だったな……っ! ヨーコ君がそんな可愛らしいだけの女の子ではないというのに! ……ふふふ、ヨーコ君のあのタイマンでの圧倒的征服力を知らないとは……っ! あのギリギリ絞まり迫りくる快感、身体が浮遊する開放感、何よりヨーコ君がとても楽しそうに笑うあの顔を見れば、パチンコなんてチンケな玉を打つだけの物に興奮は覚えなかった筈!! というか外出用のヨーコ君から鬼人の如く豹変する瞬間を間近で見ていて何故痺れない!? ―――はっ、ヨーコ君! 今からでも遅くない、世界を知らない彼に誤解を解いて絞めに行っ―――」
突撃すべく本当に動き出そうとする身体を、ぐっと掴んでその場に押し留める。
それでもまだ動こうとする室長にもう1度声を出してストップをかけると、今度こそぴたりと止まった。
……どうして今このタイミングでそんな事言えるのだろう。
世間で使われる慰めの言葉じゃなかったけれど、私にとって何よりも嬉しい言葉だ。室長が前を向いていてよかった。
それに室長の事だ、きっとそれは本心で計算も何もない本能の言葉だと思う。
ぶりぶり猫被る私も、人を投げ飛ばす私も、どちらも否定せず受け止めるなんてどれだけ雄大な御心なのだ。
これはM男の成せる技なのか?
だけどこうやって室長に、そして宮さんと佐久間さん達に、限りなく素で接する事が出来るとか不毛すぎる。
急な左遷に混乱して猫被る暇も無かったのが功を奏したのだろうか。
「ヨーコ君?」
それに比べて恋愛って難しくて面倒だなと、ゆらゆら揺れる目の前の白衣を見ながら思った。
「ヨ、ヨーコ君……っ」
「ふふ。なんですか」
何やら室長がワザとらしく咳払いをする。
「あ、あー……あのだな……。あまりそう強く抱きしめるのはよくないぞ。男は勘違いをしてしま―――」
「え? あ、それ佐久間さんです、多分」
視界の隅に見えるダークブラウンのセーター。
いつの間にか来ていた佐久間さんが、私の後ろから室長の腰に手を回しているのだ。
私の頭の上にあのシャープな顎を置いてまったりしている人に、疑問をぶつけてみた。
「で、佐久間さんは何をしているんですか?」
「……来ても誰も気づいてくれなくて。何やら楽しそうだったので、仲間外れは寂しいなぁと……」
だから私の真似をしてくっついてきたと佐久間さんは言う。
「僕も庸子さんから快感欲しいです。室長だけずるいですー」
「……佐久間さん、その言い方やらしいですよ」
あははと笑うから、振動が頭から伝わってくる。そんなに気持ちよく見えているのだろうか。ならば今度等価交換で剣道を教えて貰おう。
ていうか私はまだ室長の背中を掴んでいるだけなのに、こんな簡単に背後を取られるとは非常に悔しいものがある。
気配さえ察知出来ない程まだ本調子ではないという事か。
……もしや室長は、それを見越して私に技をかけさせようと……?
そのまま残業に向かえば危険があるかもしれないと、こうやって事前に準備運動の機会を与えてくれたのか?
それなら話は早い。
早速有効に活用せねばと腕を抜き、室長を抱く佐久間さんの腕を掴んで引き剥がそうとすると、私の腹に極太な何かが巻きついた。佐久間さんの腕は私が頂いている。
ならば。
温もりを持つそれに目をやれば、私の手の指では届かないしっかりとした手首が見えた。
「……宮さん……?」
「おう。何か楽しそうな事やってんじゃねぇかー」
「そう見えるんですか?」
「む!? ミャー君ももう来たのか!?」
ここの男性陣は多分おかしい。
まるで同性と接するかのように女性の私に簡単に接触するのだ。
しかし今はそんな事どうでもいい。室長にキメなければ。
剥がす対象を佐久間さんの腕から腹に巻きつく宮さんの腕に移せば、太い指がそれぞれ動いて腹を揺らした。
「宮さん。何しているんですか」
「んー? ああ、別に? 前よか腹筋ついてきたなぁと思って」
「えっ」
それは嬉しい。
やり続けた甲斐があったものだ。
「……宮さん……重い……」
「ああん? これくらいで根をあげてどうすんだ男のクセに」
脳天に直接響く佐久間さんの声を聞く限り、というか頭に重さが加わったから、宮さんも佐久間さんの頭の上に重力をかけているに違いない事が伺えた。
「ヨーコ君ヨーコ君! 今何がどうなっているんだね……! 私先頭だからさっぱり何も見えないんだが……!」
「私も室長しか見えません。宮さんに聞いてください」
「ミャー君! 私は一体どういう事になっているんだね!?」
「んぁー、なんだ、亀のおんぶみたいな?」
何だそれ、と室長と一緒に聞けば。
親亀の背中に小亀を乗せて小亀の背中に孫亀乗せて孫亀の背中に曾孫亀乗せて親亀こけたら小亀孫亀曾孫亀みなこけた。
と早口に言われた。
「ふむ。不思議な呪文だな。今度何かに取り入れてみないかヨ―――」
「無理です」
「……ていうか電車ごっことか……猿とか、色々あるじゃないですか」
「成程ー。ってじゃあ、途中でツッコめよ佐久間!」
「それはどうでもいいんですちょっと言いたい事があったんです聞いて下さい。私一応女子ですよ。皆さん気軽に触りすぎだと思います。私が勘違いしたらどうするんですかぐえっ」
埋もれる中、必死の私の訴えも3つの巨塔にかき消される。
相変わらず近距離で騒ぐ3人。
ていうか電車ごっこなんて、平均年齢29歳の大人がする事じゃないと思うのだが。
だけどどうしようか。
それが嫌いじゃない自分がいる。
12月半ばの寒さが身に染みる今日の日には、押し付けられる3人の体温が温かすぎたのだ。
*
今日は風吹きすさぶビルの屋上で、レベル3の魔物1匹とレベル7の魔物2匹、レベル10の魔物が1匹と、非常にテンションが上がる顔ぶれだった。
「今日は全部、私にやらせて下さい」
高山さんを肩に担ぎ、どれから仕留めようかと算段を立てながら皆にお願いをした。
すると3人は顔を見合わせて頷いてくれる。
「いいぞ、ヨーコ君。好きに暴れたまえ!」
「タイトル奪取戦ってとこか?」
「それならこの四方のフェンスはリングって所ですかね……」
私のキャラがあらぬ方へ固まってしまっている気もするが、今は目の前の魔物を倒す事に集中するべきだ。
フェンスの隅に寄ったのを見届け、名乗りも程々にレベル3とレベル7の魔物を普通に撲さ……叩きのめす。今は雑魚に構っている暇はない。
さっさとお帰りになって貰えば、お目当てのボスが目の前に舞い降りた。
【サンマンエンだと?】
「あ、すみません、口に出していましたか?」
トカゲの体躯にコウモリの翼、全身は燃えるように赤い色をしている。
しかしトカゲと言っても這いつくばっている訳ではなく、逞しい足で二足歩行をしている。簡単に言えばドラゴンだ。
「復帰戦にドラゴンが飛んで来るとか、凄く熱い展開ですね」
【ほう、娘。達者な口を聞く。楽しませてくれるのだろうな―――?】
鋭い牙を見せるように笑い、夜空に届くかのように首を高く伸ばした。
大気を震わす咆哮を上げるその姿に思わず身体が震える。
回りはコンクリートジャングル。静まり返った屋上に、ぬらりと首をもたげるドラゴン。
私はその畏怖の権化へと立ち向かうべく、高山さんを握る手に力を込め、私を滅そうとするドラゴンに向かって走り出す。
―――ファイッ!
そんな声が、どこからか聞こえた気がした。