2色目-夕焼けの色-
帰り道、ぼくと美影は肩を並べて歩いていた。どうやら帰る方向も同じらしい。
どうしてこんなにも共通点が多いのに今までお互いの存在を認知していなかったのだろうと今では不思議でしかたない。
ぼくの家は学校から遠い方だった。徒歩三十分くらい。それでもバスを使わないでいつも歩いて帰るのには理由があった。
帰り道には、色んな情景が潜んでいるからだ。悲しい色の夕焼け、優しい色の水溜まり、雨上がりに空に虹が架かった時には空が笑ったように思える。世界はこんなにも色んな情景を見せてくれているのに、それを見ずに狭い乗り物に押し込められるというのは嫌だった。
日課はスケッチ。水彩色鉛筆で軽く色を着けるところまで、その場で描いてから帰る。それがいつものことであり、いちばん心が休まる時だった。
学校を出た時から、美影とは会話がなかった。美影にとっては帰宅とは作業の一環なのかもしれない。ぼくから言わせればそれはとてももったいないことだ。
「ねえ、美影。寄り道してもいい?」
「……どこに?」
「とても風が気持ちいいところだよ」
来て、とぼくは美影の手を取った。美影は一瞬それを拒むような仕草を見せたけれどもぼくはそれをものともせずに走り出した。風が気持ちいいものだと感じてほしかった。ただ、それだけのために急いでもいないのに走った。狭い路地裏を抜けて、誰も知らなそうな道に出る。
荒れた道だった。旧道とでも言えばいいのか、コンクリートの割れ目が所々に見え、そこからは生命力の強そうな雑草が生えている。
「……どこに……いくの……」
さっきより少し息を切らして美影が訊ねる。
「とってもきれいなところだよ!」
ぼくは振り替えって笑顔で答える。その時は別に笑おうなんて思ってもいなかった。ただ、あれを見せて美影が笑ってくれるところを想像したらとてもたのしくなっていたのか、自然と口元が緩くなり、わらっていた。
そのまま数分走り続けると、小高い丘の上に出た。そこはこの街を一望できる場所だった。この時間は夕暮れ時だから、オレンジが街を包み、紺色の中に様々な色の灯りが見え始める。
その光景がたまらなく好きだった。色のコントラストも、移り行くグラデーションも、すべてを好きになれた。いつかこの絵を描いてみたいと心から思わせてくれる、そんな風景だった。
「これが……私の住んでいる……街……?」
美影はこんなの見たことないというように目を見ていた。
それもそうだろうね。ここはぼくしか知らない秘密の場所なんだから。
今まで誰にも教えていないし、誰も訪れない。だからぼくしか知らないと思っている。偶然が重なっただけかも知れないけどね。
「ねえ、美影。このあと用事がないなら、もう少しだけ……陽が沈むまでここにいてくれないかな。もちろんぼくもいるからさ」
「……どうして?」
「空が暗くなるとまた違ったよさを見せるんだよ」
闇夜が魅せる芸術。そう表現した方がいいかも知れない。見せるというよりは魅せるのだ。現にぼくは魅せられた。虜になった。移り行く景色は鮮やかで、ぼくはこの景色を美影にも見せたかった。
「星が……」
美影は視線を空に移した。夕陽も半分が顔を隠し、空も深い藍色に遷移していた。そこにはちらほらと一等星が見える。あのいちばん星は金星かな。
「これからもっときれいになるよ。ほら、見て。あっち」
ぼくは見てほしい方を指差した。美影もそちらに視線を落とす。街灯りが華やかに暗闇に栄える。
「これが梓が言ってた……?」
「そう。いいものだよ。きれいでしょう?」
「きれ……い……」
美影はきれいという言葉がわからないみたいだった。
「美影、もしかしてきれいってわからないの?」
「わか……らない……。こんな感覚は初めて……。きれいなものなんて見たことないから……」
戸惑っている。自分が感じたものが本当に正しい感覚なのかがわからず、信じられない。それはぼくも前に経験したことがあるから知っている。つらいものだよね。感覚と言葉が結びつかないんだ。だから、自然に言葉が出てくるように、教えてあげなければいけない。
「今日、この景色を見てどう思った?」
「……わからない。上手く言葉を見つけられない」
「逃げないで。ゆっくりでもいいから、美影の言葉で教えて。ぼくはいくらでも待つよ」
「…………」
美影は視線を泳がせた。本当に困っているみたいだった。それでもぼくは美影の言葉を聞きたかった。
「……見たことなくて……びっくりした……。それで……」
「うん……」
ゆっくり静かに相槌を打つ。
「それで……きれい? だった……」
ぼくはびっくりした。美影が笑っていたから。それは昼休みに見たぎこちない笑い方ではなかった。心から笑えた、そんな笑い方。
「美影……ありがとう!」
ぼくも嬉しくなって笑った。
「きれいってこういうこと?」
「そうだよ。そう感じるものがきれいなんだよ」
「初めて知った。世界にはまだ知らないものがあるんだね」
美影の言葉は悲しいものだった。きっと狭い世界で、閉ざされた世界で生きてきたんだろうと連想させる。
「そうだよ。世界には美影が知らない楽しいもので溢れてるんだよ! だからさ、そんなものを知らないうちに死に急がなくても……いいんじゃないかな?」
美影の手を掴んで諭す。こんな顔も出来るのに、死んじゃうなんてもったいない。どうせ死ぬなら、きれいなものや楽しいこと、優しい人を知って、しあわせになってからの方が絶対いい。
「美影……まだ……死にたいと思う?」
「わからない。ここに来るまでは死にたいと思ったけど……今は少し違う……」
「美影、死にたいなら止めないよ。つらいことがあるなら逃げたいと思うのが普通だもんね。でもさ、死ぬなんて簡単なことなんだからさ、もう少しあとでもいいじゃん。世界はさ、きれいなものや楽しいことでいっぱいなんだよ? せめてそれを知ってからでもいいんじゃない?」
「梓の言ってること……今ならわかる気がする。世界には私の知らないものがいっぱいある。私は少しだけど興味を持ったみたいだから……少しだけ頑張ってみる」
ほっとした。
何故だか美影には生きててほしいと思った。だから、その答えに安堵していた。
「そろそろ帰ろうか。もう真っ暗だし」
通ってきた旧道には街灯が少ない。街灯りが見えるこの丘と違って正真正銘の暗闇の中を帰らなくてはならないから、あまり遅くなれない。もし不審者なんかに美影が襲われたりしたら大変だ。
「うん。帰ろう」
美影は素直に頷いた。
「この場所のことは誰にも言わないでね。ぼくと美影、二人だけの秘密だよ」
人差し指を口元で立て、秘密にすることを強いた。もしあそこに人が来るようなことがあれば、汚されて、壊されてしまうかもしれない。美しいものが壊れるのは許せなかった。だから、誰にも近付かないでほしいと願う。
「……じゃあ私、こっちだから」
戻ってきた道を戻り、通学路である商店街を抜け、住宅街に入る。複雑に入り組んだ道を歩いていると、T字路で美影が立ち止まり、言った。
「そっか。じゃあ、また明日」
「……これは……挨拶?」
「そうだよ。また明日会おうね、っていう挨拶だよ」
「また明日……梓」
「また明日、美影」
美影はふっと微笑むと、背を向けて行ってしまった。彼女の後ろ姿を見送ったあと、ぼくも帰路を辿る。家まではもう少しだ。
会話をする相手もなく、ただただ家までの道を歩いていたが、退屈だとは思わなかった。美影のことを思い出すだけで楽しい。笑った顔を思い出すと高揚感が湧いてくる。明日会うことを待っている自分がいる。幸せってこういうことをいうんだな、なんて一人で思ってニヤニヤしてしまう。すると不意に後ろから声をかけられた。
「ねえ、駅までの道を教えてくれない?」
「あ、はい。そこの道をまっすぐ行って――!」
道を尋ねてきたのは仕事の帰りだと思われるおじさんだった。反射的に振り返り、説明を始めると、身体の一部に――胸に違和感を感じた。
――触られている。それは明白で、疑いようのない事実だった。
「ちょ……やめてください……」
「ずっと見てたんだ。君の事……。可愛い子だなぁって……」
「触らないでください!」
「それがさ……。何なの? あんな薄幸ぶってる女なんかと肩並べて笑って……。ムカつくんだよね……。だから、お仕置きが必要だね」
男はそう言ってぼくの身体を撫で回した。汗ばんだ手はいつしかYシャツのボタンを一つ、二つと開け、中に進入してきた。素肌に手が触れた瞬間、流石に怖くなって声を上げた。
「ひっ……ぃや……ゃめて……」
それでも手はぼくを撫で回す。気持ち悪い。帰ったら念入りに身体を洗おう、なんてところまで思考が飛んでしまった。
逃げようにも恐怖で膝が笑っている。これでは逃げられない。腕にも震えがあって上手く動かせない。どうやって逃げればいいのか、恐怖が脳を支配してしまって思考を阻害する。これでは思うままだ。
「梓?」
遠くから美影の声が聞こえた気がした。
「やっぱり、梓だ。ねえ、おじさん。梓に何してるの? 警察、呼ぼうか?」
空耳ではなかった。後方数メートル先には帰宅したはずの美影が立っていた。
タッチパネル式の携帯をちらつかせ、脅す。男性は少したじろぐとやがて諦めたようにその場から立ち去った。
ぼくは安心したのか、へなへなとその場に座り込んだ。
「梓……大丈夫?」
「うん……。ちょっと触られただけだから……」
「不審者には気を付けて。今は性別に関係なく襲われる時代だから」
「そうだね……」
「立てる?」
「待ってもう少し……」
「わかった」
まさか女の子に助けられる日がこようとは……。
いろんなことが渦巻いて、足に力が入らない。立ち上がれなかった。
「そういえばどうして美影がここに?」
「道を間違えた。暗くてわからなかった。本当はもう一本次の道だった」
「そっか。こんな遅くに帰るのは初めて?」
「……梓に会ってからは初めてなことばかり」
「そっか。ごめんね。……ありがとう」
「何が?」
「助けてくれて、ありがとう」
「ああ……そのこと……。気にすることはない。犯罪を見つけただけだから」
「美影……そういうときは、どういたしましてって言うんだよ」
「……どういたしまして」
「よくできました」
「……帰ろう」
美影はそっぽを向いて言う。そして早足で行ってしまう。
「待ってよ」
それを追いかけようとしたら立ち上がることができた。足にきちんとちからが入る。だから歩けるし、走ることもできた。ぼくは美影を追いかけ、横に並んで歩いた。
そして無事に帰宅することができた。
美影には本当に感謝している。まだ恐怖心が完全に消えたわけではないけれど、少し和らいだ。明日お礼に何かしてあげたいな。