13色目-終わりの始まり-
「――懐かしいね」
「一年前、いろんなことがあったもんね」
美影が言うような色々なことを経て今のぼくたちはまた同じクラスで文化祭実行委員になり、こうして毎日安定した日々を過ごしている。あれから変わったことといえば色がもう殆ど何も見えなくなったということくらいだろう。今はオレンジしか見えない。あの夕焼けがようやく見えるくらいだ。
あ、もう一つだけあった。ぼくはあの後美術部をやめた。色がどんどん見えなくなるのだから何も出来なくなることだろう。描きたい欲を抑えるためにスケッチブックは机の引き出しの奥にしまい。色鉛筆のケースにも触れていない。きっと触った途端に描きたいという衝動に負けてしまうだろう。でもそれを繰り返すと空しくて疚しくてやりきれない思いで胸がいっぱいになる。折角手に入れた幸せを見失うような真似はしたくなかったからぼくは絵を封印した。
「今年もまた、屋上で夕焼け見ようね」
「うん……そうだね」
もし。
もしもその約束が果たされる前にぼくの世界からオレンジが消えたらどうなるだろう。ぼくはその時、平静を装って美影の隣に居ることができるだろうか。
……そんな自信はない。普通じゃありえない事が起こって、誰にも信じて貰えないようなことが起こって。それでいて普通で居られるほどぼくは自分が大人だと思えない。そしてそんな人間らしい感情を、思考を失ってしまうくらいならぼくは大人なんかにはなりたくない。耐えられなくて、何をしだすかわからない。
ぼくは作業の手を止めて考え込んでしまった。
美影は日が暮れる前に先に帰ったけどぼくは教室に残って考え事をしていた。教室の明かりもつけずに雲ひとつない夜空を見てこれからのことを考えていた。
やっぱり色が見えなくなっていくことを美影に話すべきなのだろうか。でもそんなことをして怖がらせたくない。ぼくはちゃんと普通の人間であるという事を彼女には疑って欲しくはなかった。ぼくは普通の人間で、普通に幸せでありたい。
それでも、そんな願いは叶わなかった。
文化祭全日。準備期間は去年と同じように一日余らせた状態で準備は終わった。そうして一日ゆっくり出来るというその日にぼくの視界から、世界から最後の色であるオレンジが消えた。
そんなことがあってもぼくは思いのほか冷静だった。まるで今日、こうなることがわかっていたかのように驚きも動揺もしなかった。ただ冷静にその事実を、現実を受け入れていた。
そして思った。ぼくはもう子供ではなくなっているのかもしれないと。子供のように怯え、泣き、そして涙を流すことなんてできなくなってしまったのかもしれない。子供で居られないことに対する悲しみも不思議と湧いてこない。
ああ、これが大人になるってことなんだね。
――嫌だな。美影を残して一人だけ大人になるなんて。置いていくみたいでなんとも嫌な話じゃないか。ぼくはそんなの納得できない。けれどもそれすら他人事のように遠くの出来事のように思える。それでも確かに嫌だとは思った。ならいつもみたいに行動にするしかないじゃないか。
ぼくが決めた行動は一つだけだった。
美影が眠っている間に自分に割り当てられた部屋で黙々と作業を続ける。それは朝まで続いて、結局眠る時間は残らなかった。それでもいい。これを渡せるならそれでもいい。
そうして出来上がったものを文化祭で渡して最後にしよう、終わりにしようと心に決めた。身勝手な我侭かもしれないけれどそれはぼくをこんな風にしてしまった世界が悪い。だから……。
*
「美影、これ、あげるよ」
文化祭最終日、屋上で夕日を見ながらぼくは夜通しかけて描いたそれを渡した。
「これ……」
「また描いたんだ。気分転換にね」
「美術部やめてから……もう描かないのかと思ってた……。嬉しい。ありがとう」
「もう描かないよ。最後の一枚。もうスケッチブック使いきっちゃったからさ」
そう、最期の一枚。
美影の為の一枚。
ぼくの生存記録と言える一枚。
彼女の手元にそれがあるならぼくはもう何の未練もない。
美影には先に家に帰らせた。両親の墓参りに行くと家を空けることを告げた。美影は何も疑うことなくそれを承諾して先に帰ってくれた。
そうして誰も居なくなった屋上で自分自身と向き合った。
――こんな世界、もう嫌だ。空も海も木々も太陽も、みんな色を、意味を失った。ぼくはもう耐えられない。だから――
さようなら。
そう呟いて息を止めると、転落防止用のフェンス飛び越え、そのまま重力に従って落下する。下からは楽しそうに盛り上がっている生徒たちの声が聞こえる。アスファルトの熱が反射する。最後はぼくに生きていた感覚を植え付けた。
声が消えた。その理由もすぐ解った。焼けつくような太陽と、陽炎を作るアスファルトの温度が、肌に残っていたような気がした。
再び目を開けたのは知らない場所だった。
そこは、真っ白だった。目の前に広がる空間には今までのぼくの人生が早送りで、まるで映画の様に映し出されていた。
それは見たこともないけれど、走馬灯を連想させた。
「やっぱりあなたはここに来てしまったのね」
隣から不意に声が聞こえた。見ると黒いドレスを纏った長髪の女性が腰に手を当てて立っていた。
「あなたは誰?」
「あたしはレイ。最初を創った存在よ」
「レイさん……。どうしてここにいるの?」
「償いをする為よ」
「それはどういうこと?」
「全て説明してあげるわ。貴方が知りたいことを全て、教えてあげる」
ぼくは息を飲んで聞き入った。
「あなたは巻き込まれた存在なの。あの子との因果が強すぎて、あたし達選ばれた者と創られた者の世界に引きずり込まれてしまった」
「あの子?」
「あなたも仲がよかったでしょう?」
「仲が……よかった……?」
「今わからないならそれでいいわ。近いうちにもう一度会うことになる。そしてここは世界の狭間。あなた達の世界の干渉を受けないけれども、その世界に関わることができる場所。あなたはあの世界で死んだからこの世界に来てしまった。そうなることを阻止しようとしたのだけれど、確率操作は難しいことだから、完全に因果を曲げることはできなかった」
レイさんの説明は常軌を逸した、まるで夢やおとぎ話の中の出来事のように非現実染みていた。
「――それで? あなたはぼくに何をしてくれるの?」
それでいてぼくが彼女に対して向けた言葉は思っていたものとは違っていた。棘があって攻撃的だった。自分でもこんなことを言ったのには驚いている。
「あなたの望みを一つだけ叶えてあげる」
「――本当に?」
「あなたは巻き込まれた存在だもの。それ位の特権は持っているわ」
「――じゃあ、みんなの中から、ぼくを消してよ」
「わかったわ」
「理由とか、訊かないんだ……」
「訊いて欲しかったの?」
「最期に話しておくのも悪くないと思っただけ。聞いてくれる?」
「独り言ね」
「何でもいいよ。みんなにぼくのことを忘れてほしいのは、ぼくのことで悲しんでほしくないからなんだ。ぼくが居なくなって泣く人なんていないと思うけど、一応ね」
一人の少女の顔が脳裏に浮かんだ。
「そう。あなたはとても――自分勝手ね」
衝撃を受けた。ほしかった言葉と違ったからかな。
「他の人を考えずに自分の都合で消えるなんて、随分自分勝手なのね。あなたは考えた事ある? 他人にどう思われているのか、自分がどういう存在なのか」
「自己満足でも自分勝手でもいいよ。最期のわがままなんだから、叶えてくれるでしょう?」
イライラしてしまった。
最期くらい、肯定してほしかった。
「まあいいわ。あたしには関係ないことだものね。自分の道は自分で切り開きなさい。あたしは手伝うだけだから」
彼女はそう言うとぼくの前からいなくなった。ああ、これで本当に終焉なんだ。やっと楽になれる。
さよなら、世界。
さよなら、みんな。
さよなら、美影。
ぼくのことなんて忘れて幸せになって。ぼくのことなんかで悲しまないで。楽しく暮らして。自分勝手でも許してほしい。
最期の願いなんだから。
レイさんはいつの間にか居なくなってた。気付けばぼくの走馬灯も終わりを迎え、そこに映し出されていたものも消えた。残ったのはぼく一人だけ。何があるわけでもないその空間に、独り取り残されていた。
今さら帰る場所だってない。それでいい。
ああ、でも……。やっぱり色のある世界を見たかったな。
ここには色なんてない。ただただ白い空間。色も匂いも音も風さえもない、ただ存在するだけの空間。
いわば箱の中にいるみたいだった。
なんだ。ぼくはまだちゃんと子供だったみたいだ。
*
もうこうしてどれくらい時間が経ったんだろう。なんて、時間を止めたぼくには少しばかり矛盾したことだと思ったけど、止めたのは見かけの時間であって、体感時間はしっかり動いている。前に進むわけでもなく、後ろに戻るわけでもない。でも停滞しているわけでもない。
解らないよね。
ぼくの感覚を無理やり説明してるんだから伝わるなんて思ってないよ。でもさ、誰かに何かを言っていたかったんだ。
誰でもいい。ただ口から言葉が零れるだけなんだ。
もうここから出ることはできないと思う。閉ざされた世界。色亡き世界。それがぼくの世界だった。
誰か寂しいなんて思ってくれるだろうか。涙してくれるだろうか。そんなはずない。だってみんな忘れちゃったんだもの。
大切なことは失って初めて気付くというけれど、それは本当のことなんだね。ぼくは今、とても孤独だ。他人の存在が恋しい。
こんなことって初めてなんだ。大切な人がようやくわかったんだ。
ごめんなさい。もう二度と独りになりたいなんて言わないよ。
だから……だからここから出して。ちゃんとぼくを殺して。
薄々気付いてた。ぼくはまだ死んでないって。死ねてないって。
「誰も……応えるはずないのに……」
虚しさ、疚しさ、寂しさ。言い様のない感情がぼくを支配した。それに抗う術は持ち合わせていない。時間のままに侵食されるだけだ。
「殺して……! 殺してよっ……!」
叫んでも誰にも届かない。声はやがて嗚咽に混じって消えていった。頬には涙の跡ができた。
「色のない世界なんてもう嫌だ! ねえ、神様……! いるんでしょ!? どうしてぼくをこんな目に逢わせるの!? ぼくが何をしたっていうの!?」
遂にはいないはずの神にまで怒りをぶつけた。でもそうでもしないと気が済まなかった。
「反省は済んだみたいね」
いつからか数メートル先に、レイさんが立っていた。
「……ここから出して」
「何もしなくとももうじき出られるわ。あなたの友人のおかげでね」
「友人……?」
「大切な人なんでしょう?」
大切な人。そう言われて思い浮かべるのはただ一人。肉親なんかよりも大切な人。
――泉堂美影。
親友にして家族で、自分よりも大切なかけがえのない存在。ぼくを肯定してくれた人。
彼女がぼくをここから救ってくれる? ありえない。美影は普通の女の子だ。例えこの世に生を受けてからの境遇が常軌を逸したものであっても、彼女は普通の女の子だった。そんな彼女に何ができる? こんな特殊な状況に巻き込まれたぼくに、手を差しのべられるっていうの?
「答えはすぐにわかるわ。待っていなさい。その時を――」
レイさんはそれだけ言うとぼくに背を向けて歩き去った。取り残されたぼくは再びその場に蹲った。眠るようにただゆっくりと息を止め、静かにそこにいた。眠ってしまったみたいに、記憶も途切れ途切れになった。こんな何もない所に記憶があるのかなんて分からないから、もう眠っているのかさえわからない。




