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第二章② マクシミリアン隊

 ソフィーは斃れた敵の間をゆっくりと歩き、まだ焦げ臭い木板の床に目を落とした。鉄のように冷たい視線が、戦の全体像を測るかのように広がっていく。その時、肩越しに柔らかな声が響いた。

「圧勝ね。怪我人も少なそう」

 ソフィーが振り返ると、そこにはアニータの姿があった。まだ戦場の余韻が残る空気の中で、彼女だけが穏やかな調子を保っていた。

「でも、何かがおかしい」

 ソフィーは答えた。手にした短剣を鞘に戻しながら静かに言葉を継ぐ。

「私、一度だけエドガー本人に会ったことがあります。ひと目見ただけでもわかります。今回は分隊とはいえ、あの人がこんな正面から正々堂々と戦ってくるなんて信じられない」

「……陽動?」

「そうかもしれません。でも、何か違う……もっと、根のところが。これは戦略ではない。何かもっと……異質な意思を感じる」

 アニータはしばらく黙っていたが次の瞬間、周囲の空気が変わった。

「……!」

 遠く、海の向こうに黒い帆影が現れた。しかも、進路は完全に《ブリュヌ号》の横合いを目指している。

「新たな艦影、右舷より接近中! 方角変わらず、進路直線! 距離、八百!」

 見張りの声が悲鳴のように響いた。すぐさまグウェナエルが船首へ向かい、マクシムも視線をそちらに向ける。

「……挟み撃ちだ。あの船、エドガーの二番手か」

「舷側の砲を回せ!回頭しながら迎撃体制、急げ!」

 マクシムの指示が飛び、乗組員たちが慌ただしく配置へ走る。

 ジョルジュは敵艦の大きさを一瞥しながらつぶやいた。

「まるで、ボクたちの出方を読んでいたみたいだな」

 敵艦が徐々に距離を詰めてくる中、先程まで制圧していた海賊船の甲板には生き残りがほとんどいないはずなのに、まるで何かが指示を出したように沈黙が漂っていた。その異様な静けさが不気味に波間を滑ってくる第二の敵艦と同調していた。

 グウェナエルが剣を構え、誰にともなく言い放つ。

「この戦、まだ終わっていない。全員、第二波に備えよ」

 甲板に火薬の匂いと焼けた木の香りが立ち込めていた。砲撃の鳴りを最後に、潮風がぐらりと戦局を変えた。接舷。海軍船と海賊船の間に掛けられた板を伝い、叫び声と共に剣が閃く。

 いよいよ、刃を交える距離だ。波がぶつかり、足元を揺らす甲板。その上で、剣戟が続く。火花が飛び、呻き声が響く。海軍と海賊、青と紅の制服が泥と血に染まりながら乱戦の中で交錯した。

 マクシムは海軍船の中心、背を合わせる形でリラ・シャネルと立っていた。ふたりを囲むように、五人、六人と海賊がじりじりと距離を詰める。だが、ふたりの間には焦りも恐怖もなかった。

「ここまで来てくれるとは、ずいぶん積極的な客人だこと」

 リラが微笑んだ。口元は余裕を保ち、手にしたサーベルの切っ先は寸分の狂いなく敵へ向いている。

「お構いなしのようですね、今日の貴女も」

「あなたを守るためです。今日も側にいさせてください」

 リラの言葉にマクシムもまた静かに応じ、右手に握る斬撃剣を肩の高さに掲げ、首にロープを垂らしていた。一瞬の間を裂くように、海賊たちが一斉に飛びかかる。だが、リラは滑るように敵の間を抜け、脚払いでひとりを倒し、倒れた男の背を踏み台にして舞った。高く、そして流麗に。宙で旋回する刃が海賊の首元を薙ぎ、血飛沫が鮮やかな弧を描く。

 マクシムはその後ろで別の敵の腕を試しにロープで絡め取り、瞬時に引き寄せてサーベルで腹を突いた。重い音がして、海賊が崩れ落ちる。視線も動かさず、次の敵へと体勢を変えた。呼吸が静かだった。

「本当は……こんなことしたくないのに」

 マクシムの低い呟きが風にさらわれる。

 一方、船尾寄りの階段付近ではダヴィットが背を低くしながら剣を構え、ペネロペがその横をすり抜けるように移動していた。

「上から来るよ!」

 ペネロペが叫び、手にした短銃を構えた。マストに仕掛けた滑車からロープを伝い、ひとりの海賊が宙を舞ってくる。

 ダヴィットが剣を掲げ、着地寸前の海賊を強引に弾き飛ばす。その隙に、ペネロペが脇腹を撃ち抜いた。

「連携、悪くないんじゃない?」

「少なくとも、シャルルと組むよりはマシだ」

 ダヴィットの言葉にペネロペが笑った。二人の呼吸は乱れていたが、足取りは淀みなかった。さらに甲板中央、砲手隊のメリッサとスザンヌは砲の装填を終えた直後、複数の海賊に押され気味だった。

「ダメ、間に合わないよ!」

「動かないで!」

 叫びと同時に海賊の剣が振り下ろされる直前、二つの影が割って入った。

 サミュエルがサーベルで一閃、もう一人の敵はシャルルのレイピアの出番もなく、彼の蹴りで吹き飛ばされた。

「今さら僕らが来たところで、華は奪えないだろうがね」

 サミュエルが軽く笑い、剣を振って血を払う。

「いいから守れよ、この子たちは戦力だ」

 シャルルが短く告げ、スザンヌの前に立った。

 仲間が次々と連携していく中で、戦局は一進一退。だが、不穏な気配がじわりと滲んでいた。

 船尾、舵の近く。敵の目が届きにくい場所にソフィーはしゃがみ込んでいた。ここにはまだ誰もいない。が、不意に重たい音がして彼女の足元に誰かが転がり込んできた。

「ジョルジュ!」

 ソフィーが駆け寄る。海賊船から乗り移ってきたらしく、右腕を深く切られて血が滲んでいた。息が荒く、だが意識はある。

「すま……ちょっと、追いつかれて……」

「喋らなくていい。傷、縛るよ!」

 ソフィーは咄嗟に自分のスカーフを外して彼の腕に巻きつける。焦る指が震えるが、できる限りの応急処置を施す。そのとき、船べりにふわりと影が差す。気配を感じて顔を上げたソフィーの視界に、栗毛色の髪が風に揺れるのが見えた。

「これは、まさか。お嬢さん……再会は、もっと華やかな場で願いたかったな」

 軽く跳ねるようにして、男が船へと乗り移ってくる。甲板に降り立った彼のブーツが、濡れた木を軽やかに鳴らした。顔の半分にかかった髪を払い、目元を細めて微笑む。そう、あのときと同じ飄々とした声音。

「……フェルナンド」

 思わず、名を呼んでいた。驚きも、警戒も、油断も、そのすべてを含んだ声音で。

 そこに立っていたのは、赤いシャツに黒の外套、涼しげな微笑を浮かべた男——フェルナンドだった。火の粉が舞う中、まるで舞台の主役のように気品すら纏いながらソフィーを見下ろしていた。それから、フェルナンドは次に傷ついたジョルジュをちらと見やると興味なさげに肩をすくめた。戦場のただ中にいるというのに、その佇まいにはまるで気負いがない。

 風を纏い、影を連れて現れたような——「銀の猫」の異名にふさわしい登場だった。

「あなた……何のつもり?」

 ソフィーの声には震えが混じっていた。

「んー……何のつもり、っていうと難しいな」

 フェルナンドは冗談めかして言いながら、船の縁にもたれかかる。戦闘の気配は微塵もなく、むしろこの騒乱をひとつの芝居のように眺めている。

「君がまだソフィーという役を続けているなら、ボクも共演者として登場しただけさ」

 あの港町でのやりとりの続きのようでもあり、まったく新しい始まりのようでもあった。ソフィーの眉がわずかにひくつく。視線をそらすことなく静かに問うた。

「これは、あなたの台本どおり?」

 フェルナンドはふっと笑った。その笑みの奥には何かを探るような光が揺れている。まるで、彼女の返答が答え合わせになるとでも言わんばかりに。

「違うよ。ボクは台詞も演出も与えられてない。これは……即興劇ってやつさ。君と、ボクの」

 フェルナンドが剣帯のサーベルにそっと手をかける。だが抜かない。まだ、演目は始まっていない。この幕が上がるかどうかを決めるのはソフィーのほうだった。

 ソフィーはゆっくりと立ち上がった。その動きには、微かに怒気が混じっている。海風に吹かれた前髪を払うこともなく、フェルナンドの瞳を真っ直ぐに射抜くように見つめた。

「この作戦を考えたのは誰?」

 淡々と、けれど逃さぬように。

「エドガー? それとも、あなた?」

 フェルナンドは一瞬目を細め、それから愉快そうに首をかしげた。

「うーん、正解を言うなら……八割はエドガーの案、ってとこかな。残りの二割は、ちょっとしたアドバイザーがいてね。舞台裏から気の利いた囁きをくれる」

「また芝居」

 ソフィーの吐き出す声は冷ややかだった。フェルナンドは唇の端だけで笑ったまま、視線を空へと逸らす。

「じゃあ訊くけど……」

 ソフィーは真正面から問いをぶつけた。

「エドガー海賊団は、何を考えてるの?」

 彼女の言葉にフェルナンドの顔からは笑みが消えることはなかったが、声の調子がほんの少しだけ低くなった。

「そうだなあ……じゃあ、特別に教えてあげよう。君へのサービスってやつだ」

 ゆっくりと一歩踏み出し、甲板の血溜まりを避けるように歩み寄る。

「ボクたちは——ロジャース船長が掲げる、海軍への復讐に加担してる。喜んで、というほどでもないが、やる意味はある」

「復讐……?」

 傷を抑えながら立ち上がったジョルジュが唸るように呟いた。その目には明らかな警戒と怒りが宿っていた。

「そんな! じゃあエドガー・ロジャースも、隊長の命を狙ってるのか?」

 その言葉に、フェルナンドはぴたりと足を止めた。沈黙が一瞬だけ甲板を支配する。

「ほう」

 低く、抑えた声で彼は言った。

「今のセリフは……実に、興味深いねぇ」

 銀の猫が、猫らしく目を細めて笑う。問いに答えるでもなく、否定するでもなく。ただ、その反応そのものが答えを想像させる余白だった。

「じゃあ、君たちは誰を守ろうとしてる? 誰を信じて、誰に裏切られる覚悟があるのかな?」

 その声は、からかうようでいてどこか試すようだった。戦場のど真ん中で。

 海軍と海賊、主役と共演者の線引きはますます曖昧になっていく。

 フェルナンドは静かに目を閉じ、ひとつ呼吸を整えると軽く首を振って笑った。

「……さて」

 その声色にはもはや愉快さも優雅さもなかった。

「そろそろ、くだらない芝居はやめにしようか」

 乾いた音を立てて、彼が腰の細身剣を抜く。昼の光が刃に反射し、その軌跡に紅い筋と薄い虹のようなきらめきが走った。その刃の状態に、今まで誰を襲ったのかは聞くまでもない。

「ソフィー、ボクはがっかりしたよ」

 その声は冷たい水のように澄んでいた。

「素敵な出会いをしたと思った相手が、よりによって海軍の人間だったなんてね」

 ジョルジュが苦しげに呻きながらも立ち上がろうとするが傷は深く、動きは鈍い。

「さあ、武器を取って」

 フェルナンドの声が刃と同じく鋭く、断ち切るように響く。

「決着をつけよう、ここで」

 ソフィーは一歩も退かず、身構えもせず、まっすぐに彼の瞳を見返した。

「私は——」

 その声は怒りも恐怖も纏っていなかった。ただ、静かに真実を述べるように。

「フランス王国海軍、第七艦艇部隊マクシミリアン・ブーケ隊の軍医。剣は持たない」

 その手をゆっくりと胸の前に広げて見せた。

「この手は、人を救うためにある。人を殺すためじゃない」

 沈黙。そして、その沈黙の中でフェルナンドは瞳を細め、再び口元に笑みを浮かべた。

「——そうか」

 その一言と同時に彼の体が弾かれたように前へ。剣が音もなく振り下ろされる。

「じゃあ……ここで大人しく死ね!」

「——ソフィー!!」

 ジョルジュの叫びが咄嗟に空気を裂く。ソフィーの瞳が見開かれ、彼女はただその刃を受け入れるように瞬きを止めた、その瞬間。

 ——パンッ!!

 乾いた銃声が、海鳴りに重なるようにして響いた。甲板の空気が一変する。ソフィーの眼前、振り下ろされかけた剣が寸前で止まり、フェルナンドの肩口から鮮血が迸った。

「……っ!」

 フェルナンドが咄嗟に後退し、剣を振り払う。彼の視線は銃声の鳴った方向へと鋭く向けられる。火薬の匂い、戦場に差し込む新たな存在の気配。

 そして、硝煙の向こうに現れたのは——黒い外套に身を包み、深くフードを被った一人の人物だった。

 その手から煙を上げるフリントロック式の短銃が落とされ、カランと音を立てて転がる。

「……誰?」

 思わず漏れたソフィーの声に、応じる者はいない。その人物は、もう一丁の銃をゆっくりと抜いた。

「貴様ァアアアアアア!!」

 フェルナンドが怒声を上げ、痛む肩を庇いながらも剣を持ち直す。だが次の瞬間、再び火花のように閃光が走る。

 パンッ!!

 別の銃声。今度はフェルナンドの逆の肩、左肩に二発目の鉛弾が撃ち込まれた。

「ぐっ……ぉぉぉぉおおっ!!」

 両肩に走る激痛に、もはや剣を保つ力は残されていなかった。フェルナンドはたまらず膝を突き、剣を落とす。その直後だった。黒衣の人物が地を蹴り、一気に間合いを詰め、無防備なフェルナンドの正面へとほとんど滑るように到達し、拳を振り抜いた。

 ——ガンッ!!!

 骨が鳴るような、鈍く重たい衝撃音。殴打されたフェルナンドの体が仰け反り、そのまま地面に崩れ落ちる。意識を失ったのか、微動だにしない。そして、ぶん殴った黒衣の人物の左腕が外套の袖の隙間から垣間見えた。

 それは——金属だった。人間の腕ではない。陽光を浴びて、その義手はキラリと不気味に、いや、あまりに美しく輝いていた。ソフィーの瞳が見開かれる。その光。その構造。その動き。

 間違いない。ソフィーは、知っている。——この義手を。

 外套の人物は、ぐったりと倒れたフェルナンドの傍らに立ち尽くしていた。顔は隠れているが、その立ち姿には妙な既視感があった。誰かを見下ろすでもなく、ただ一度、静かに溜息をつくように肩を落とす。

 そして——彼はゆっくりと、ソフィーとジョルジュの方を振り返った。

 フードの奥から覗いたのは、薄い水色の瞳。光に透けるような、澄んだ色をした眼差しだった。その瞳が、ほんの一瞬だけソフィーの視線と交錯する。だが——上方の見張り台から海軍側の兵の声が響いた。

「海賊たちが撤退するぞー!」

 それを合図のように外套の人物はくるりと身を翻し、甲板から駆け出していった。

「あ……待って、行かないで!」

 ソフィーは思わず叫ぶ。

「——マテオ!!」

 手を伸ばしたが、その声は届かない。

 彼はひらりと手すりを飛び越え、驚くほど軽やかに、まあまあの距離を跳躍して——隣接していた海賊船の向こうへと、霧に紛れて消えていった。

「そんな、どうして彼が」

 ソフィーの問いかけは空に溶けていった。

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