第二章① ソフィーとマクシム
ページの文字が、霞んで見えた。
午後の陽光が紙の上を滑り、読んでいた段落の輪郭を溶かしていく。
風に髪を揺らされながらもソフィーは本を閉じようとはせず、ただ目を伏せていた。庭の空気は、しんと澄んでいる。葉の重なりを抜けた光が斑に地面を照らし、ベンチの脇に咲く白い花々が静かに揺れていた。
水音だけが絶えず耳に届くなか、不意に砂利を踏む、ひとつの音。その音が、彼女の目線をゆっくりと引き上げた。視線の先、噴水の縁の向こうに立つ影がある。逆光の輪郭に包まれながら、ただまっすぐに彼がいた。ソフィーの指がページの端で止まる。
息を呑むでもなく、名を呼ぶでもなく——二人の間には沈黙だけがあった。
風が吹いた。陽光の中に、白い花弁がひとひら舞い上がる。まるで二人のあいだをなぞるようにその花は小さく弧を描き、やがて地面に舞い落ちる。
その間も、視線は外れなかった。マクシムの眼差しは、何も言わずに語っていた。ソフィーもまた目を逸らさなかった。ただ見つめ返していた。
あの嵐の中、背を向けて離れたそのままの姿勢で心も時間も止まっていたのに。
今ようやく、止まったものが動き始めたような感覚。
水面がきらめく。風に揺れる葉が影を揺らす。そのすべてが、まるで呼吸するように二人のあいだの空気を整えていく。言葉はなかったけれど、そこには明確な変化があった。ただ見つめ合うその数秒が、これまで背けていたすべてを、ひとつずつ溶かしていくように。
見つめ合ったまま、時間だけがゆっくりと流れていた。噴水の水音が、間を埋めるように絶え間なく続く。秋の陽射しに照らされた水面が、木洩れ日のような光を彼女の頬に反射していた。
マクシムはゆっくりとその場に膝をついた。砂利がきしむ。重みを受けたその音が、空気を変えた。頭を深く垂れ、何も言わず沈黙のまま彼はそこにいた。ソフィーの表情が、すこしだけ揺れた。彼の姿を見下ろす視線に、驚きも戸惑いもあった。けれど、迷いはなかった。彼女もまた膝をつき、そっとその肩に手を置いた。
——その肩は、わずかに震えていた。何が言いたいのか。何を伝えようとしているのか。
きっと、彼自身にも分かっていない。
それでも、この沈黙の中に込められたものを、ソフィーは確かに感じ取っていた。
ソフィーはゆっくりと両腕を伸ばす。その動きには、ためらいも躊躇もなかった。
過去の言葉も、選ばなかった道も、彼のすべてをひとつ残らず包み込むように。
まるで赦すのではなく、責めるのでもなく、ただ「受け止める」ように。
そのまま、彼を静かに抱きしめた。
マクシムの肩が、ふっと沈んだ。時間にしては一瞬だったのかもしれない。
それでも、彼の内側からなにかが崩れていくような、そんな気配が伝わってきた。
やがて、微かな嗚咽が風に紛れた。顔を見なくても分かった。
誰にも見せなかった涙を、今ここで零している。
それでもソフィーは何も言わなかった。
言葉では触れられないものがある。彼女の腕の中にあったのは、そんな重みだった。
噴水の水音だけが、ただ静かに淡々と響いていた。木々の隙間からこぼれる陽の光が、ふたりをそっと照らしていた。時間がゆっくりと流れ、重く閉ざされていた心の扉がほんの少しずつ開かれていくようだった。だが、その静寂を破るように遠くから軍の号令が鋭く響き渡った。
「マクシミリアン・ブーケ隊、急遽の出撃を命ず!敵はエドガー・ロジャース海賊団。ラ・マンシュ海峡シェルブール付近に出現せり。速やかに出動せよ!」
瞬間、二人の間に流れていた空気がピリリと引き締まる。
現実が、また二人を引き戻したのだった。
マクシミリアンは顔を伏せたまま、ソフィーの腕の中からそっと身を引いた。その瞳に、再び決意の色が宿る。
「……行きましょう」
マクシムは静かに立ち上がるが、振り返ることはしない。ただ、彼は言葉を選んだ。
「あなたの力が……必要です」
マクシムの声はどこまでも静かで、どこまでも本気だった。彼の言葉に、ソフィーは一瞬だけ微笑むと、彼を真っ直ぐに見つめ、ほんの少しだけ礼を添えるように頭を下げる。
「……了解しました」
その声音は柔らかく、それでいて芯が通っていた。もう、彼を見失わないと決めた者の声だった。
風が吹いた。噴水の水面が揺れ、花壇の花々がざわめいた。
余韻は余韻のまま、二人の背を押すようにして通り過ぎていった。
──そして、時間は動き出す。
ブレスト港は、既に騒然としていた。
空の下、港に停泊していた小型ガレオン船《ブリュヌ号》では、マクシミリアン隊の面々が急ぎ装備の積み込みと乗船の最中だった。船腹には隊章を刻んだ帆が張られ、潮風がそれを跳ね上げるように吹いている。空気は湿り気を含んでいたが、重苦しさと緊張が入り交じったものだった。
「おい、そこの樽、左舷の物資庫だ!」
「火薬箱、丁重に扱えよ、そいつがなくちゃ始まらねぇ!」
甲板では臨時で追加招集された兵士たちの怒号と足音が錯綜していた。
少数精鋭部隊であるマクシミリアン隊でも厳しいとブレスト参謀部が判断したのだろう。
縄が投げられ、帆が巻かれ、滑車の音が港の静寂を裂くように響く。マストの上では、伝令の少年が旗を振り、別働隊への信号を送っていた。
その船上、ジョルジュは憮然とした表情で腰のベルトを締めながら、隣のサミュエルに呟いた。
「謹慎が急に解けるなんて……一体、何が起きたんですか?」
「わからない」
サミュエルは短く答え、瞳を細めて遠くの水平線を見つめる。
「ただ、相手はエドガー・ロジャースだ。今まで目撃情報すらなかったあいつが、なぜ今になって現れる?」
「罠かもしれんな」
低く割って入ったのはグウェナエルだった。既に軍装を整え、背中にはいつもと違う長剣が据えられていた。甲板を渡るその足取りは重々しく、それでいて迷いは一切なかった。
「考えてもしょうがない。出撃するぞ」
その言葉を合図のように、舷側の水兵が「艦、出港!」と号令をかけた。甲板の重りが外され、碇が引き上げられる。錆びた鎖がギリギリと軋みを上げ、船体がゆっくりと波間を滑り始めた。港が遠ざかる。街灯の灯りが霞んでゆく。船上には、じきに静かな風と火薬の匂いだけが残った。
数時間後。北大西洋近辺──。
「敵艦、見ゆ!」
マスト上からの叫びが、潮風を切って甲板に落ちる。すぐに望遠鏡を覗いたのはシャルルだった。
「確認……一隻のみか。規模は小さい。エドガーの分隊だ!」
船上の空気が一変する。
マクシミリアンは既に船首へと出ていた。コートの裾が風に翻り、視線は敵艦の帆へと鋭く向けられていた。
「配置につけ!砲手は左舷に寄せろ、射角を確保しろ!」
怒号とともに、艦内が動く。砲手たちが手際よく火砲の準備に入る。火薬筒が装填され、点火具が次々と渡される。帆を絞り、風を受けて一気に敵艦へと接近する。
ロザリーが後方の高台から戦況を見守っていた。その瞳は冷静で、手には分析図と筆記板。彼女の周囲では信号手が立ち、報告が飛び交っていた。
「風速、南西から五ノット。敵艦は迎撃の構えなし、直進してくるのみ。隊長! 敵艦の陣形、明らかに隙があります。左右どちらかに誘引されるよう設計されてます」
ロザリーの分析に、マクシムが静かに頷いた。
「罠か……けど、乗るしかありませんね」
その刹那、敵艦の舷側に黒い火花が走った。
「──砲撃、来るぞ!」
重低音が轟き、弾丸が海面を裂いて近づいてくる。一発、二発、水柱が次々と立ち、激しい海のうねりに《ブリュヌ号》が揺れる。
「応戦用意!」
グウェナエルの号令が飛ぶ。続いて鳴り響いたのは、ブリュヌ号側の第一波の砲撃。
曇り空の下、火砲の閃光が稲妻のように走り、轟音とともに煙が甲板を包んだ。
この戦は始まったばかりだった。砲撃の応酬は十数分続く。海上には白煙と硝煙が漂い、陽の昇りきらぬ空の下で、火薬の閃光だけが戦の輪郭を際立たせていた。
「敵艦、一隻損傷!」
マストの上からの報告に、マクシムが指揮台で声を張る。
「船首を切り替えろ!左舷を前に、距離五十。接近して一気に乗り込む!」
「乗り込み、了解!」
グウェナエルが短く応じると背中の剣を抜いた。その動作には無駄がない。風に翻る軍装、右手に収まる長剣、そして戦場へと向かう目の色。まさしく、戦の神の貌だった。
ダヴィットとサミュエルは素早く縄を結び、乗り移り用の鉤縄を準備する。
ロザリーは指揮台の後ろに控えながら、敵船の速度と揺れを読み、揺れ幅の計算を淡々と続けていた。
「……今です、波高が収まりました。舷側、五秒間の安定時間、確保可能!」
「全員、突入準備!」
接近する《ブリュヌ号》の船首が敵艦の側面へ滑り込む。板を渡す間もなく、マクシムが先陣を切ってロープを投げた。次の瞬間には船と船とが激しくぶつかり、甲板の柵がきしんだ。
「乗り込め!!」
マクシム、グウェナエル、ダヴィット、サミュエルら先鋭たちが敵艦へ跳び移る。縄が風を裂き、着地の音と同時に剣が閃く。
海軍の突入は、まさに一瞬の出来事だった。敵船の甲板にいた海賊たちは不意を突かれ、応戦の体勢が整っていなかった。それでもエドガーの名のもとに集まった彼らは血に染まった戦士の矜持を胸に、猛然と刃を向ける。
「どけええッ!」
サミュエルの剣が振り抜かれ、一人を甲板に叩きつける。
「囲まれるな! 三手に分かれろ、側面から詰める!」
グウェナエルが剣を振るいながら冷静に指示を飛ばす。その一太刀で二人の海賊が倒れ、刃には微塵の迷いもない。
ジョルジュは素早く舷側を制圧し、持ち前の狙撃術で敵の狙撃手を排除していた。
一方、ソフィーは海軍船にて待機していた。護身用として、かつてグウェナエルから託された短剣を帯びている。以前、自分は剣を握れないからという理由で宿舎に置いて行ったが、今回ばかりはそんな我儘は通用しない。彼女の目は戦場の混乱を冷静に読み切っていた。
マクシムは敵のリーダー格と思しき男と向き合う。互いに一歩、また一歩と間合いを詰め、視線がぶつかる。
「……この手際、まさかマクシミリアン・ブーケか?」
「名乗るまでもない」
マクシムが踏み込む。サーベルを振るい、敵の剣を絡め取るように動く。一瞬の駆け引き、相手の意図を見透かし、その隙を突いての斬撃。すべてが静かに、残酷に決まる。剣が閃き、男が倒れた。
敵艦の甲板は既に制圧寸前。残るは、船倉へ逃げ込んだ数名の海賊と──まだ姿を見せない「本命」だったが。
「……流石にエドガーはいないか」
マクシムが呟くように言った。視線は船倉の扉へと向けられていた。
やがて争いの声は止み、戦の喧騒が甲板の片隅に煙と血の匂いだけを残して消えていく。




