第一章⑤ マクシム
ブレスト湾の外れ、ブレスト港の隣の岸辺に建つ一棟の石造りの建物。
ソフィーたちが暮らすこの宿舎には、隊員たちの居室や医務室のほかに隊長専用の執務室も設けられている。
その一室。分厚い扉の先に広がるのは、潮の匂いがほんのりと漂う静かな空間だった。壁には戦闘記録や航路図が所狭しと貼られ、机の上には日誌や軍用地図、そして筆記用具などが無造作に置かれている。大きな窓からはラド・ド・ブレストの入り江が一望でき、遠くにブレスト港の艦影が霞んで見える。港の喧騒はここまで届かず、聞こえるのはただ、時おり軋む木床と海鳥の声だけだった。
この静けさの中、四人の男たちが言葉を交わしていた。
「……で、君はあの男の訓練を見せていただいたわけですか」
低く問うたのはマクシミリアン・ブーケ。左腕には未だ包帯が巻かれ、軍服の袖は無造作に折られている。その背後には、懐の深い重厚な椅子が控えていた。
「ええ、まあ。あくまで遠巻きに、ですが。あの人のことだから気づかないわけないでしょうが、わたしを気にする素振りはなかったですな」
飄々とした口調で答えたのは、東洋風の衣を羽織った男——リー・ウェン。窓際に腰掛けながら、長い指で茶器を弄んでいる。
「……で? 見た感想は?」
マクシムの問いに、リーはわずかに肩を竦め、あっさりと答えた。
「正直に言いましょう。あれはいくら訓練を積んでも、追いつけるものではありません」
グウェナエルが椅子の背に拳を立てた。
「……あいつ、何者だ?」
その問いに、リーはにこりともせず答える。
「武の化身。あるいは道そのもの。私たちの言葉で言うなら、『静中に動あり、動中に静を生む者』。そういう類いの達人です」
シャルルが小さく舌打ちした。
「達人ね……冗談じゃない。剣術なんて、強さは実践で決まる。剣を振るう前に頭をぶち抜けばいいだけだろう?」
「それができればいいんですがね、シャルル殿。問題は、振るわれる前に『殺気』そのものが消えることです」
リーは茶器を置いた。
「気配がない、殺意がない、音がない。しかも間合いを詰められても、軸がぶれないから懐に入っても崩せない。太極拳を使う者は多く知っていますが、あれは別格です」
沈黙。重苦しい空気が執務室を包み込んだ。マクシムが目を細めたまま問いを重ねた。
「……技の話だけではないのでしょう? あれは力を制しています」
リーは頷く。
「まさに。剣術と体術の境を消し、力すらも導きで使う。いわば戦うのではなく、戦場そのものになるようなものです」
その言葉に、グウェナエルが顔をしかめた。
「まるで化け物だな……」
「いいえ、彼は人です。ゆえに……打倒する価値がある」
リーの眼差しが細められ、冷たい光が一瞬走る。
「ただし、正攻法では無理です。訓練の延長線には、彼はいません」
リーは執務室のテーブルに手をつき、ゆっくりと口を開いた。
「まず、グウェナエルさんの強みについて整理しておきたい。貴方は戦術家としての才覚に長けている。単なる剣士ではない。指揮官として、小隊、中隊の動きを自分の手足のように操ることができるのですよ」
マクシムが黙って頷き、リーは続けざまにこう言った。
「貴方の身体能力も特筆すべきです。高身長で手足が長く、リーチを活かした間合い管理は正確無比。槍術や体術も習得できれば不意打ちや集団戦、地形を利用した戦いも得意となるでしょう」
シャルルが興味深そうに眉を寄せる。
「グウェンの戦闘スタイルは正統派で型に忠実だが、戦術と戦闘が地続き、それに個人戦でも迅速に相手のスタイルを読める。戦場での経験も豊富だ」
リーは続ける。
「戦闘哲学も興味深い。貴方は“戦に勝つのは正しさではなく秩序だ”と考えている。無駄を嫌い冷徹に見えるが、仲間思いな面もある。が、戦場を愛しすぎて、戦がなくなれば自分が不要になるのではないかと内心焦っているのでしょう?」
グウェナエル自身は黙って少し険しい表情を浮かべていた。リーは提案する。
「だからこそ、グウェナエルさんは前線で戦うより、戦場の指揮官に徹してはどうでしょう。部隊全体の動きを掌握し、ルキフェルを打倒するための戦局を整える役割を担うのが最も効果的です」
マクシムが言葉を継ぐ。
「つまり、僕たちはそれぞれの得意分野を活かし、連携する必要があるということですね」
リーが視線をマクシムに戻す。
「さて、マクシムさん。あなたの戦闘スタイルの変革について、何か考えはありますか?」
マクシムが首を傾げ、リーは少し間をおいてから答えた。
「今のスタイルではルキフェルに太刀打ちできない。それなら、投擲や連結武器を使った新たな戦法はどうでしょう? 東方から取り寄せた細くしなやかなワイヤーを使い、相手の剣を絡め取ったり、動きを封じたりする。それか左手には速くて軽い突き用の細剣、右手には重めの打突剣を持ち、虚と実を使い分けて相手を混乱させることも可能でしょう」
シャルルが目を輝かせて言った。
「なるほど、それなら相手の動きを制限しつつ、反撃の隙を狙えるな。楽しみだ」
グウェナエルは険しい表情を崩さずに言った。
「だが、その新たな戦法も実践で試さなければ意味はない。何度も繰り返し鍛錬し、連携を磨く必要がある」
リーは深く頷いた。
「全員がそれぞれの役割を果たし、補い合うことが大切です。ルキフェルはあなた方の弱点を突いてくる。だからこそ、綿密な準備と協力が勝利の鍵となるでしょう」
マクシムは深く考え込むように眉を寄せながら静かに立ち上がった。
「話はありがとう。少し歩きたい気分だ」
そう告げると何も言わずに執務室を後にした。廊下を歩きながら、マクシムの足取りは重くもあり、どこか迷いが感じられた。
シャルルとグウェナエルは向き直り、低い声で話し始める。
「隊長は、今の自分の力に苛立っている。あいつの中で何かが壊れかけているようだ。だが、それを認めることはマクシムにとって最大の弱点だ。だからこそ、俺達があいつの支えにならなければ」
シャルルがふと口を挟む。
「しかし、あのルキフェルの強さは異常だな。どんなに準備しても、倒すのは容易ではないだろう」
グウェナエルが冷静に答えた。
「強さは確かに際立っているが、完璧な奴などいない。隙を探し出すのが俺達の役目だ。ルキフェルは自由で流動的な戦いを好むが、秩序と計画で奴を縛ることができれば勝機はある」
リーは軽く頷き、「では、次の用事がありますので失礼します」と言い、静かに扉を閉めて立ち去った。
マクシムは宿舎の中庭をゆっくりと歩き回っていた。
冷たい空気が肌を刺し、ひんやりとした風が彼の灰色の髪を揺らす。空が陰るたび彼の顔つきは硬く険しくなっていった。
「僕は常に穏やかであろうとしてきた。部下に対しては敬意を持ち、誰にでも敬語で話し、感情は押し殺している。それが、僕の務めだと信じている。でも……」
彼の声は震えた。普段は決して見せない感情が胸の奥から溢れかけていた。
「新たな武器……習得するには時間がかかる。戦場は待ってはくれない。僕の動きが鈍れば、隊に迷惑が及ぶ。それを考えると、足がすくむ」
彼は拳を強く握りしめた。無意識に爪が食い込み、白くなっていく。
「僕は理性と意志の男だ。怒りや激情で戦うわけではない。なのに、激情が僕を揺さぶることもある……。無念と哀しみが入り混じった感情だ」
彼は一瞬立ち止まり、空を見上げた。いつものブレスト特有の灰色の空が静寂を包んでいた。
「……僕は、誰よりも生への執着が薄い。死を恐れてはいない。なのに、なぜか誰よりも強く生きたいと思ってしまう。己の命に、そして失った命に、答えを示さねばならない」
足音が静かに響く。彼はゆっくりと歩を進めながら低く呟いた。
「僕は隊を守らねばならない。たとえどんなに難しくとも、僕は逃げはしない……。僕が戦い続ける理由は、ただひとつ。——果たすべき願いがあるからだ」
その言葉に重みが乗り、風に溶けるように消えていった。
マクシムの胸には理性と感情が激しくせめぎ合う嵐が渦巻いていた。だが彼は決して立ち止まらなかった。影を背負い、己の道を歩み続ける者の孤独が、今も静かに庭を包んでいた。
庭の噴水の縁に手をかけ、マクシムは水面に映る己の姿をじっと見つめた。
灰色に染まった髪、疲れきった顔。黒々としていたはずの髪はまるで自分の魂の色まで剥がれ落ちてしまったかのようだった。
「いつの間に……こんなにも変わってしまったのか」
声にならぬ呟きが喉の奥で震えた。彼自身、なぜこうなったのか答えは出せなかった。
だが確かなのは……あの嵐の日以降、心の奥深くに冷たい影が蠢き続けていることだ。
戦いの傷だけでは説明のつかない、癒えぬ痛みと蓄積された孤独が無意識のうちに彼を変えてしまったのだろう。
「もはや、以前の僕はここにはいない。……いや、いるけれど、もう別の何かに侵されている」
胸の奥が締めつけられた。ただ髪の色が変わっただけではない。彼の内側に潜むものがまるで色素のように彼を蝕み、変質させているのだ。だが、マクシムは水面の自分に目を光らせた。
「逃げるわけにはいかない。変わってしまったとしても、おれはまだ戦い続ける。おれは……僕は、ここで止まるわけにはいかない」
冷たく光る瞳が決意を映し出した。決意を固めたはずのマクシムはふと噴水の向こうのベンチに目をやる。そこにはソフィーが静かに腰掛け、黙々と本を読んでいる。彼女の穏やかな姿を見た瞬間、胸の奥が締め付けられた。
——あの時、なぜおれは彼女を突き放してしまったのか。
マクシムの脳裏に、かつてのあの瞬間が鮮明に蘇った。
抱きしめ、心の底から願った「別の人生を歩んでほしい」という言葉。しかし、その愛情の言葉は同時に彼女の未来を奪いかねないほどの重さを持っていた。
「なんで戻ってきたんだ、ソフィー……」
心の中で問いかける自分に、答えはない。ただ、その事実が彼の胸に刺さった。
戻ってくることを知っていたなら、決してあんな風に彼女を遠ざけたりはしなかった。
冷たく突き放すことで彼女を守ろうとしていた自分がいる一方で、その行動は彼女の心に深い傷を残したのだということを今さらながら痛感した。
マクシムは拳を強く握りしめる。何度も何度も繰り返された自問自答が、胸の奥でざわめき続ける。
守りたい、だけどそれが故に苦しめてしまう。
複雑に絡み合う想いが、彼の心を揺らし続けた。しかし、まだ答えは見つからない。彼の心は揺れ動き、もがきながらも全てを抱えてゆっくりと前へ進もうとしていた。
噴水の水音が、風にちりちりと運ばれてくる。午後の陽が静かに差し込む庭には、ただ葉擦れの音だけがそっと空気を撫でていた。
その中に、彼女がいた。石造りのベンチの上、陽の光を片側だけ浴びながらソフィーは本を読んでいる。ページをめくる指の動きはゆっくりとしていて、読み進めているのか、ただ目で文字をなぞっているだけなのかもわからない。
マクシムはほんの数歩先で立ち止まる。土の上に靴の底が沈む感覚。汗がにじむわけでもないのに、掌がじっとりと湿っていた。
遠くで木の葉が揺れ、柔らかな風が彼の髪を揺らした。その風が、彼女の亜麻色の髪にも触れていた。光に透けた髪がふわりと揺れ、ページの端をかすかに浮かせる。
まるで時間がすこしだけ、歩みを緩めたかのように。
彼の喉が、ごくりと鳴った。だが、水音に掻き消され、彼女の耳には届かない。
風と水がその場を支配していて、そこに言葉を差し挟むにはあまりにも美しすぎる静寂だった。
それでも、マクシムの足は一歩進む。小さな砂利が鳴った。その音に、彼女の睫毛が微かに揺れた気がした。
息を吸う。言葉を探す。声をかける、そのたった一瞬が永遠に続くような静けさの中に沈み込んでいく。




