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第一章④ ソフィー 街散策

 食堂を出て、まだ少し肌寒さの残る回廊を歩いていたソフィーは不意に背後から名を呼ばれた。

「ソフィー、ちょっといい?」

 振り向くと、アニータが両手を背中に組みながら、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。

 癖のある仲間ばかりのこの部隊で、彼女の顔を見るとふと安心する。けれど、その表情にはどこか探るような光も混じっていた。

「……なんでしょうか?」

「ちょっと、散歩でもしない? 診療所の裏手の、あの林道。静かで、気分転換にはちょうどいいの」

 断る理由もなかった。ソフィーはうなずき、二人でゆるやかな坂を登っていく。虫の声すら聞こえない林の中、足音だけが二人の間を満たしていた。やがて、アニータがぽつりと呟いた。

「ねえ、あなたさ。……怖くないの?」

 ソフィーは少し考えてから聞き返す。

「何がですか?」

「……全部よ。ここでの立場とか。噂とか。マクシムのことも。ロザリーも、グウェナエルも。みんな許してないって顔してるじゃない」

 静かだった風が一瞬だけ木々を揺らした。

「怖くないって言えば嘘になります。でもそれ以上に、怖がってるだけじゃ進めないとも思うんです」

「ふぅん……強いのね、ソフィーは」

 アニータは笑った。その目はまっすぐで、でもどこか寂しげだった。

「わたしね、戦場でいろんな人の最期を見てきたの。でも、どんなに怖くても、最後の瞬間に人って……誰かを信じてる顔をするの。わたしは、そういう顔をさせてあげたいと思って衛生兵をやってるの」

 ソフィーは黙って聞いていた。

「だから、あなたのこと信じてるわ。裏切らないでね」

 アニータの言葉に、ソフィーはようやく小さく笑った。

「ありがとうございます。……アニータの言葉は、いつも不思議と沁みます」

「そりゃ、医療班の中で一番の聞き上手だからよ。ね、今度はわたしの部屋に来なさいな。いい薬草茶、入れてあげる」

「楽しみにしておきます」

 二人は並んで歩き出す。木漏れ日がほんの少しだけその距離を縮めたように見えた。陽光が柔らかく差し込む午後のブレスト。石畳の道を歩くソフィーとアニータの足音が静かに響く。活気ある市場のざわめきに混じって、どこか異国の香りを漂わせる露店が一角に軒を連ねていた。

「アニータ。この織物、とても綺麗ですよ。中華系のものですかね?」

 ソフィーは目を細めて鮮やかな色彩を見つめる。織物の鮮やかな朱色と深い藍色が絡み合い、まるで絵画のように精巧だった。アニータは軽く笑みを浮かべて応じる。

「そうよ、ソフィー。ほら、あそこ見て。あのサミュエルが珍しく立ち止まって見入ってるわね。まさか、また何か買うつもりかしら」

 アニータが指を差した先、大柄な男——サミュエルが露店の前で一心に織物を見つめていた。手触りを確かめるように優しく撫でながら、時折うっとりとした表情を浮かべているのが見て取れる。

「サミュエルさんは美しいものが好きだって聞いたことがありますけど、あんなに真剣な顔は珍しいですね…」

 ソフィーが小声でつぶやくと、アニータはくすくすと笑いながら答えた。

「ええ、彼は美に対する嗜好がかなり独特なのよ。まあ、男らしさとはちょっと違うところに拘るところがあるっていうか」

 二人はそんな話を交わしながら、ゆっくりとサミュエルの方へ歩み寄っていった。長い金髪を三つ編みで一つにまとめたサミュエルは織物に夢中で、二人の気配にようやく気づき顔を上げた。

「おや、ソフィーじゃないか。アニータもいるとは珍しいな」

 柔らかい微笑みを浮かべながら、サミュエルは織物の端を軽く握って見せた。

「この中華の織物は、本当に見事だよ。色合いも柄も繊細で、つい目を奪われてしまう。美しいものには目がないからな、僕は」

「さすがサミュエルね。美しさには敏感なんだから」

 アニータは苦笑いしながら言い、ソフィーは控えめに微笑んだ。

「そういえば、サミュエルさんは普段あまりこういうところには来ないですよね? 何か特別な理由が?」

 サミュエルは目を細めて、織物から視線を少しだけそらし答えた。

「まあ、今日は気分転換さ。長く続く任務の合間に、こうして美しいものを見て心を和ませるのも悪くない」

 その言葉に、ソフィーはふと心の中に静かな安堵を感じた。

「…お二人はいつも、忙しい中でもこうして気を抜く時間を大事にしているんですね」

 アニータが優しく頷く。

「ええ、だからこそ任務も頑張れる。時には自分を労わらないと長くは続かないわ」

 三人はしばし織物の鮮やかな色彩に見入った。ブレストの風に混じる東方の香りが、ほんの少しだけ彼らの心を軽くしたようだった。

 ソフィーが織物を眺めながら言葉を選んでいると、サミュエルはふと真剣な表情でこちらを見た。

「ソフィー……正直言えば、まだ君のことは完全には信じられない。でも、焦らずに様子を見させてもらうよ」

 その言葉にソフィーはわずかに肩をすくめ、でも内心では安堵の気持ちもあった。

「そう言っていただけるだけで、ありがたいです。これからも誠実に努めます」

 アニータはその会話を微笑みながら見守っていた。

「サミュエルは慎重派だけど、根は優しいから大丈夫よ」

 そこへ突然、路地の方から子供の声が聞こえた。近くで遊んでいた子供たちがはしゃぎながら駆けていく。ソフィーはその無邪気な声にふと目を細めた。

「こうした日常が続くことが、私たちの願いですよね」

 サミュエルも頷き、織物をそっと元の場所に戻した。

「ああ。だからこそ、僕たちはそれを守るために戦うんだ」

 三人は穏やかな空気の中、ブレストの街を歩き続けた。

「ソフィー、街の空気にはだいぶ慣れた?」

「はい、アニータのおかげで随分と。まだまだですが」

 その時、サミュエルが少し離れた場所から近づいてきて織物の美しさについて熱心に語り始めた。

「東洋の織物は繊細で美しいだけじゃなく、物語を感じさせるんだ。色のひとつひとつに意味がある。僕はあの手仕事を見るたびに心が躍るよ」

 ソフィーは興味深そうに彼の話を聞きながら、改めて異文化交流の深さを実感した。

「サミュエルさん、本当に美しいものに目がないですね」

「はは、見た目に騙されるなよ。男だって好きなものは好きなんだ」

 アニータがその言葉にクスリと笑いながらも、ふと真面目な表情になった。

「でも、戦場だけじゃない。こういう日常の中にこそ本当の強さがあるって思うの」

 ソフィーもそれに頷きながら、心の中で覚悟を新たにした。

「私も守るべきものがある以上、強くならなければいけませんね」

 その時、遠くから馬のひづめの音が響き、街の空気が一瞬引き締まった。

「何かが動き出している。気を抜かないようにしよう」

 ソフィーは街のざわめきの中でふと顔を上げ、アニータとサミュエルに尋ねた。

「そういえば私がいない間、任務はどんなことをしていたんですか?」

 二人は一瞬、言葉を失ったようにソフィーを見つめ返す。アニータの表情はまるで信じられないと言わんばかりに、サミュエルも驚き隠せない様子だった。

「どうかしましたか?」

 ソフィーは少し戸惑いながら訊ねる。アニータがため息混じりに言葉を選びながら答えた。

「え、ソフィー、知らないの? マクシミリアン・ブーケ隊は今、謹慎処分を受けているのよ。活動停止中なの」

「そんな……バカなことがあるのか」

 サミュエルが低く呟く。

「……え? いや、なんで私だけ知らされていないんですか!?」

 ソフィーは目を見開き、アニータが申し訳なさそうに言う。

「すでに知ってるものかと思ってた……。このところ、軍医を立て続けに失ってしまったから。参謀部が流石に堪忍袋の緒を切ったのよ」

 ソフィーはそれを聞いて、胸が締めつけられるような気持ちになった。

「そうだったの……私が、戻るのが遅すぎたのね」

 アニータは視線を落とし、慎重に続ける。

「詳しい事情はまだはっきりしていないけれど、今は隊長も隊員たちも身動きが取れない状態」

 サミュエルも表情を曇らせながら言葉を継いだ。

「まあ、参謀部が許してくれる日が来るまでは焦らずのんびり過ごしましょうか」

 アニータが微笑んで応じた。

「そうよ。今は無理に動くより、隊の雰囲気を掴んで力を蓄えるのが大事」

 サミュエルも頷きながら言う。

「焦りは禁物。ゆっくり少しずつ進めばいい」

 三人は穏やかな足取りで、ブレストの街を歩き始めた。彼らの背中には、それぞれの覚悟と決意が静かに宿っていた。


 アニータとサミュエルと別れた後、ソフィーは路地裏の石畳を踏みながら、ゆっくりとした足取りで街の一角に建つ病棟跡の脇を通りかかった。

「……まだ顔を合わせるべきじゃない」

 スザンヌのことが気にかかっていた。だが彼女の状態を聞く限り、無理に接触すればかえって傷を深くするかもしれない。だから、静かに通り過ぎるつもりだった。

「ソフィーさん?」

 その声に、心臓が跳ねた。振り返るとスザンヌがそこに立っていた。シルバーブロンドの髪をきちんと結い、以前よりも少し痩せたように見えるが、目の奥にはしっかりとした光が宿っている。

「……スザンヌ」

「話してもいいでしょうか?」

 拒む理由など、どこにもなかった。ソフィーは頷き、ふたりは人気のない石垣のそばに並んで腰掛けた。しばしの沈黙が流れ、風が二人の髪を揺らす。やがて、スザンヌが口を開いた。

「ごめんなさい。あの時、ソフィーさんを守れず気を失って」

 ソフィーは驚いてスザンヌを見る。彼女は俯いたまま、膝の上で指を組んでいた。

「そんなこと、あれはスザンヌのせいじゃない」

「それでも、自分の弱さが恥ずかしくて。ずっと誰にも会いたくなかったんです。でも、あなただけには、ちゃんと謝っておきたかった」

「謝るのは、私のほうよ。スザンヌが危険な状態だったのに、私は自分のことでいっぱいで、助けてあげられなかった」

 言葉を交わすたび、空気が少しずつ和らいでいく。ソフィーはふとスザンヌの表情に見覚えのある微笑みを見つけた。

「スザンヌ。戻ってきてくれて、ありがとう。また話せてよかった」

「はい。私も、話せてよかったです。……そういえば」

 スザンヌがふと思い出したように顔を上げた。

「私、あのとき気を失った瞬間、自分はもう海に落ちたんだって思ってたんです。でも、目が覚めたらちゃんとベッドの上にいて。あれは一体、誰が助けてくれたんですか?」

 ソフィーは一瞬、返答に迷った。だが、もう隠すことでもないと覚悟を決め、苦笑を浮かべる。

「……顔に、たくさん傷のある男よ。覚えてる?」

 スザンヌの目が一瞬、大きく見開かれる。

「えっ……あの……え、まさか、あの恐ろしい人が……」

「そう、あいつ。決死の救出劇だったのよ。スザンヌを抱えて船をよじ登って、そのまま海軍に返した」

「……信じられないです」

 スザンヌはそっと胸元に手を当て、驚いたように、けれどどこか遠くを見るような目で呟いた。

「人は見かけによらないって、ほんとなんですね……」

「まったくだわ。私もあの時は心臓が破けそうだった」

 ふたりの間にまた静けさが戻った。だがそれは気まずさではなく、あたたかく風に溶けていくような沈黙だった。やがてスザンヌが、少しだけ頬を緩めて言った。

「私、ちゃんとその人にもお礼を言わなきゃ」

「……言えるといいわね」

 ソフィーは静かにそう返しながら、胸の奥にうずく複雑な思いを押し込めた。

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