第一章③ ソフィー 食堂にて
翌朝。潮風はまだ冷たく、朝焼けに染まるブレストの空は海の彼方へと続いていた。
宿舎の廊下をソフィーはゆっくりと歩いていた。
ようやく戻ってきたこの空間は見慣れたはずなのにどこか異質で、記憶の中にあるものとは微妙にずれている。壁にかかる額縁、通気の窓、蝋燭の匂いすら違って感じるのは自分自身が変わってしまったせいかもしれなかった。
彼女が身に纏うのは濃紺のロングコート。軍医職に与えられる特別な意匠が袖口とボタンに施され、布地は軽く、戦地でも動きやすいよう裁たれている。腰には革のポーチが左右にひとつずつ。薬瓶と簡易の医療器具が収められていた。髪は首元でひとつに束ね、淡い灰色の布スカーフでまとめてある。
普段は肌に触れていたネックレス──龍と蛇の銀細工とアクアマリン──は、今も胸の中央でひっそりと揺れていた。
向かったのは、階段を降りて突き当たりにある医務室。かつて、マルセロがいた場所。
扉を開けた途端、薬草と消毒液の匂いが鼻をついた。誰もいない。整えられた棚、磨かれた器具、中央に据えられた簡素な診察台。すべてが、過去と今とを隔てる静けさの中に沈んでいた。
ソフィーはふっと息をついて、部屋の中央まで歩を進めた。机の端に手を置いて立ち尽くす。
──私は、ここで何をするべきなんだろう。
疑い、怒り、痛み、決意。それらを持って戻ってきたはずなのに、いざ自分の立つ場所に来てみれば足元が定まらない。でも、ここが自分の戦う場所だった。
命を奪うためではない。命を救うために。
彼女は目を閉じ、深く呼吸した。薬草と埃の混じる空気が肺に入り、胸の奥のざわつきを少しだけ和らげた。
もう逃げない。どんな答えが待っていても、見届けると決めたのだから。
さて、とソフィーは気持ちを切り替えるように一息ついた。
散らかっているわけではないが、誰の手も入っていない空間には埃がうっすらと積もり、薬瓶や器具も雑然と並べられている。
まずは机の整理から始めよう。そう思い、彼女は執務机の引き出しに手をかけた。重たく軋む音とともに引き出しが開き、中からいくつかの紙束と帳簿のようなものが顔を覗かせた。
その奥──見覚えのない手帳が一冊、埃をかぶって横たわっていた。
茶色い革の簡素な表紙には、インクが滲んだ殴り書きの文字。
「ベルナルド・シルバの日記」
カスティーリャ語でそう読めた瞬間、ソフィーの動きが止まった。
「ベルナルド・シルバ?」
聞き覚えのない名だ。軍医や衛生兵でその名の人物は思い当たらない。ましてやこの医務室に関わっていたなら、自分が記録に目を通していたはず。
それなのに、何か胸騒ぎがする。革表紙の手触りが妙に生々しく、まるでつい昨日まで誰かが使っていたかのような気配を帯びていた。
ゆっくりと手帳を開く。紙はざらつき、インクはところどころ擦れている。だが、筆跡ははっきりと残されていた。自然に開かれた、最後のページには、こう記されていた。
「この記録を他人が読むことになったなら、その時、俺はもう生きていないだろう。
——だが、これを隠して死ぬのは卑怯すぎる。
ソフィーは無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
最初のページをめくる指先がわずかに震えていた。……が、ページをめくりかけた指は途中で止まった。手帳をそっと閉じ、表紙を撫でるように指先でなぞった。
読んでしまえば、確かに何かがわかるかもしれない。
だが、これは「手記」だ。明確な報告書でも日誌でもない。
個人の思いが詰まった、誰かの内面そのものだ。
「……やっぱり、人の手帳を覗き見するのはよくないよね」
ぽつりと呟き、革表紙に手を添えてしばらく考え込む。自分の手帳を他人に勝手に読まれたとしたら、きっと嫌悪と怒りで頭が真っ白になるだろう。秘密を持ちたい気持ちはどんな立場の人間にもある。それが誰であっても。
「とはいえ、このまま医務室に置いておくのもなあ」
彼女は視線を周囲に巡らせた。無人の医務室。誰の気配も、もう感じられない。
このまま放っておけば、いずれ誰かの手に渡るか、あるいは失われるだろう。
そのどちらも望ましくはない。
「……部屋に持って帰るか」
呟いて、ポケットに手帳をそっとしまった。革表紙のひんやりとした感触が、コート越しにじんわりと伝わってくる。読まないとはいえ、手元に置いておくことが果たして正しいのか。そんな疑念が一瞬、胸をよぎった。けれどソフィーはそっと医務室の灯を落とし、扉を閉めた。
廊下に出ると、外の風が彼女の頬を撫でた。どこからともなく、香ばしくも優しい香りが鼻をかすめる。バターの焦げた匂い。焼きたてのパン。それから、ほんのりとしたハーブの香り。
思わずソフィーは立ち止まり、くん、と鼻を鳴らした。
「これは、食堂から?」
気づけば足がそちらへ向かっていた。懐かしい、けれど新しい。そんな香りだった。思えば昨夜はあの重苦しい挨拶の後、ほとんど何も喉を通らなかった気がする。ようやく一息ついた今、胃が静かに目を覚まし始めていた。
通路の角を曲がると、すぐに広間から皿の重なる音が聞こえてきた。重たい空気とは打って変わって、朝の陽光が差し込む食堂はほんのり温かく、まるでそこだけ違う時間が流れているようだった。
「おはようございます!」
明るく響く声とともに、食卓の中央で立ち働く女性の姿が目に入る。
栗色の髪を後ろでひとつにまとめたメリッサが白い布を肩にかけて、大皿をいそいそと並べていた。パン籠、ハーブソーセージ、色とりどりのベリーのジャム、それに卵料理とスープまで。
ソフィーは思わず見惚れた。メリッサの所作は手早いのにどこか楽しげで、料理をただ出すのではなく、きちんと迎え入れているようだった。
「……すごい、ごちそう」
ぽつりと漏れたソフィーの声に、メリッサがぴたりと顔を上げた。
「あっ、ドクター・ルノアール!お帰りなさい!」
その声は明るく、何の屈託もなかった。まるで昨日までずっとそこにいたかのように。
ソフィーの頬が少しだけ緩んだ。メリッサが手に持っていたスープの入った鍋をそっと台に置くと、うれしそうに駆け寄ってくる。その頬はほんのり紅潮し、朝から元気いっぱいだった。
「ほら、やっぱり栄養足りてない顔してますよ〜! 海賊船なんて、ろくな食事出てなかったんでしょう!?」
ソフィーは苦笑しつつ、その勢いに一歩だけ後ずさった。
「いや、それが……意外なことに、いたのよ。一流シェフみたいなのが」
「えっ」
今度はメリッサが目を丸くする番だった。
「それって……本当に?」
「本当。味付けも品数も、軍艦より凝ってたんじゃないかって日もあったくらい」
「うそでしょ、うちの食堂にケンカ売ってる……!」
「いやいや、そういうわけじゃ」
思わず笑いが漏れる。ソフィーの表情がほんのわずかだが和らいだのをメリッサは見逃さなかった。
「ふふ、でも安心してください。今日の朝ごはんは私なりに、腕によりをかけましたから!」
威勢よく宣言すると、メリッサは両手を腰に当てて満足げに並べた皿を見回した。
「ちゃんと食事のバランスも考えてあります! ドクター、まだ痩せたままですし。たくさん食べて、まずは身体を戻さなきゃ!」
「……ありがとう、メリッサ」
ソフィーは心の奥で張り詰めていた何かが少しだけほぐれていくのを感じた。
彼女がテーブルに着くと、まず視界に入ったのは真正面に座るペネロペの顔だった。
じーっ……口も開かず、ただソフィーの顔をまっすぐに見つめてくる。微動だにしない表情、その視線は無言の圧力すら感じさせた。
「……おはよう、ペネロペ」
ソフィーが挨拶しても反応はなく、まるで彫像と会話しているようだ。けれど、ほんの少しだけペネロペのまつ毛がぴくりと動いた。どうやら聞こえてはいるらしい。ソフィーがその沈黙にどう返せばいいのか戸惑っていると、メリッサが笑いながら後ろから小さく囁いた。
「大丈夫です、あれで喜んでるんですよ」
「……ほんとに?」
「ええ。ペネロペ、ソフィーさんの帰りを一番待ってたって言ってましたから」
ソフィーが視線を戻すと、ペネロペの目がゆっくりと瞬いた。その瞬きが、まるで「おかえり」とでも言ってくれているように思えて不思議と胸がじんわりと温まった。
「……ただいま」
ポツリとつぶやくと、ペネロペは何も言わずに目線だけで「それでよろしい」とでも言いたげにうなずいた。その後、何事もなかったかのようにパンをちぎってスープに浸す。
「ペネロペ、それソフィーさんのパンじゃないのー!」
メリッサのツッコミが食堂に軽く響き、ソフィーは笑ってパンをもう一つ取った。卓上には熱々のポタージュスープ、焼きたてのパン、香草と卵を和えたサラダ、そして鶏肉と豆の煮込みが並ぶ。香りだけで空腹が刺激され、自然と手が動いた。
「……ほんと、美味しい」
思わずこぼれた言葉に、メリッサが小さくガッツポーズ。
「ふふっ、勝った。海賊船ごはんに勝ったぞ!」
「いや、そんなつもりじゃ——」
けれど、ソフィーの笑顔は確かにあった。心のどこかが凍ったままだと自覚していたけれど、この空間だけは少しだけ温かくて、懐かしくて……再び戻ってきたこの場所で、もう一度、前を向くことはできるかもしれない。そう思わせてくれる朝だった。
ペネロペがようやく自分のパンに集中しはじめた頃、メリッサがスプーンを置いてソフィーに身を乗り出してきた。
「ねえ、さっきの話なんですけど……その、海賊にも一流シェフがいたってやつ。ちなみに、誰なんですか?! 気になって気になって!」
ソフィーは苦笑しながら、皿の上でパンをちぎる手を止めた。
「マテオっていう、あの美男子だよ」
その瞬間、無言だったペネロペがぴくりと顔を上げる。
「……義手のあいつねー」
「うん、あいつ」
ソフィーが答えると、ペネロペは「やっぱり」とばかりに視線を落とし、スープをすする。反応が薄いようでいて、やたら記憶に正確で、会話のツボをついてくるあたりが相変わらずだった。
「そいつのこと、詳しく聞かせてください! あっ、でも……」
メリッサが慌てて声を落とし、周囲をキョロキョロと確認する。そして囁くように言った。
「グウェナエルさんに聞かれないように、お願いします……!」
ソフィーの背後で、かすかに椅子がきしむ音がした。振り返らずとも気配でわかる。
だいぶ離れた席でスープを飲んでいたグウェナエルが明らかにピクッと反応した。
「……ほんとにやめたほうがいいって。あの人、海賊の話になると思考の剣幕が物理の剣幕になるから」
「それでも構いません! だって気になるじゃないですか、海賊なのに料理が上手い美青年って!」
「…………」
ソフィーが諦めてスープに目を落とすと、視線の端でペネロペが小さくうなずいた。
「あたしも、聞きたい」
「う……」
二人の目が、キラキラと輝いている。まるで美味しい話に目がない猫と犬に囲まれた気分だ。
「……しょうがないな」
ため息混じりにスプーンを置き、ソフィーは話し始めた。
「……あの人はね、顔は綺麗なのに、口から出る言葉は暴力的で……たぶん礼儀って言葉を知らないし、相手の顔色とかお構いなしでグーパン飛ばすような人間」
「でしょうねー」
メリッサのペネロペの声が重なる。
「でも、強くて頼れて、情に厚い。仲間が傷ついたら誰よりも怒るし、ご飯を作るときも絶対に手を抜かない」
「へー」
メリッサの目がさらに光を増す。
「えっ、そんな人が本当にいるんですか?」
「それが実在したのよ……。腕っぷしも強くて、食材にも妥協しないの。覚えてる? あの貿易船には家畜がいて、たまに解体して焼いてくれた」
「えっ、新鮮なお肉?!」
メリッサのリアクションにソフィーはいちいち苦笑しながら続ける。
「でも、優しいんだよ。寝込んでる仲間には胃に優しいもの作ってくれるし、誰よりも先に味見して、『これがまずかったら、オレの舌が腐ってんだ』とか言いながらキッチンに籠る。でもやっぱり口は悪いし、すぐ怒鳴るし、情緒は不安定。ま、そんな人だった」
「なるほど……!」
メリッサはスプーンを手にしたまま、うっとりと遠くを見た。ペネロペはパンを咀嚼しながら、ぽつりと一言。
「たぶん、あたしと気が合わない」
「絶対に合わないと思う」
ソフィーとメリッサが珍しく即答でハモり、食堂に小さな笑い声が広がった。ところが、食堂の空気が突如として一変した。
「……うるさい」
低く鋭い声がテーブルを切り裂いた。
ソフィーたちが振り返ると、そこには食器を手にしたまま立ち尽くすグウェナエルがいた。
いつものように軍服の襟はきっちりと正され、髪は寝癖ひとつなく、完璧な姿勢と無駄のない視線。それだけで場が静まる。ペネロペは黙々とパンを咀嚼していたが、メリッサはバツの悪そうな顔でスプーンを置いた。
「おはようございます、グウェナエルさん……」
無視。グウェナエルの視線は、まっすぐソフィーに向いていた。
「還ってきた努力は認める。……だが、俺はお前を許すつもりはない」
食堂にいた数人の隊員が、カチャ、と食器を止める音だけが響いた。
「許してほしいなんて、言ってません」
ソフィーは静かに返した。その表情に怯えはない。だが、グウェナエルはわずかに目を細めた。
「ふん。あくまで強気か。……いいか? 俺はお前を海賊の潜伏者として見ている。変な動きをしたら、斬る。覚悟しとけ」
グウェナエルはそう言い放ちながら、自分でもなぜこんなに苛立っているのか分からなかった。
ただ——この女の口から他の男の名が出るたびに、どうしようもなく胸がざわついた。
言葉の後、わずかな沈黙が落ちた。
グウェナエルはテーブルの端に視線を落とし、ほんの一瞬だけ眉間を寄せてすぐに背を向けたが、その小さな間だけ、彼の素直でない心が覗いた気がした。
その瞬間——シュンッ!
「——ッ!」
鋭い音を立てて、パン切りナイフがグウェナエルの眉間を狙って飛ぶ。
グウェナエルはその気配を察し、首をわずかに傾けてそれを回避した。……が、直後。
カンッッ!
鍋の蓋が一直線に飛来し、彼の頬骨に綺麗に命中した。
「……ぐっ」
よろめきこそしなかったが、明らかに衝撃は走った。鍋の蓋は床に落ち、コロコロと軽やかな音を立てて回転を止める。
ソフィーが視線を送れば、キッチンの奥。
そこには、いつの間にか両手に飛び道具を構えたメリッサがいた。スープ鍋の取っ手を軽く回しながら、まるで指揮者のような堂々とした態度で言い放つ。
「グウェナエルさん、まず完食してから出向いてください」
その場の空気が凍りついた。
「……なぜ、俺が被弾する」
グウェナエルは平静を装いながらも頬の赤みを押さえるようにして手を当てる。
「うるさいって言ったの、あなたですよ」
メリッサが冷静に返すと彼はぴくりと眉を動かした。食堂のあちこちで、笑いを堪えるような息遣いが聞こえる。
「……ふん」
グウェナエルは席に戻っていった。足取りに乱れはない。だが、背中から立ち昇る疲労感は隠しきれていないようだった。
「軍医さん。私の支援砲撃、いつでもどうぞ!」
メリッサは鍋を下ろしながら、ウインクして席に戻る。ペネロペはニヤニヤしながらスープのカップを持ち上げた。
「二発目、見事」
「ありがと。練習してるのよ、実は」
ソフィーは思わず吹き出しかけてスープをすすり直した。鍋の蓋の余韻がまだ漂う中、笑いと熱気がほんの少し、この場所に人の温度を戻していた。
——案外、こういう子が、鍵を握ってるのかもしれない。
心の片隅にそんな予感を抱きながら、ソフィーは冷めかけたパンを一口かじった。
食堂の空気がようやく落ち着きを取り戻し、ソフィーも空になった食器を下膳口に運んだ。扉に手をかけ、出ようとするその時だった。
「ソフィーさん」
妖艶な声が耳を打ち、振り向けば出入り口脇の壁にもたれるようにして立つロザリーがいた。
誰にも気づかれぬよう手招きをしている。表情はない。ただ、その眼差しには明確な色がある。冷たく、疑いに満ちていた。
ソフィーが足を止めてそっと近づくと、ロザリーは人目を避けるように耳元へ顔を寄せた。
「……貴方が戻ってきたって聞いたとき、嫌な予感がしました」
その声に感情はこもっていない。けれど言葉は鋭利で、刃のようだった。
「私、笑顔で迎えたりなんてできません。だって貴方、今でも海賊の仲間なんでしょう?」
ソフィーは息を飲んだ。その視線を見つめ返そうとしたが、ロザリーはもう逸らしていた。
「……信じませんよ。どれだけ言葉を並べても。隊長があなたを許しても、私は違う」
そのままロザリーは踵を返し、誰にも気づかれぬよう一切の余韻を残さず背を向け、無言で歩き出した。その背中が扉の向こうへと消えようとした瞬間、ソフィーが静かに声を発した。
「信じてくれなくて構いません。今は、それでいいと思っています」
ロザリーの足が一瞬だけ止まる。だが振り返りはしなかった。
「でもいつか、私と向き合わなければならない日が来ます。その時のために、ほんの少しだけでいいんです。心のどこかに余白を残しておいてください。私が、その余白に届く日まで」
ソフィーの言葉に、ロザリーは返事をしなかった。けれど沈黙の中に緊張が走っている。扉が音もなく閉まり、ロザリーの気配が消える。ソフィーは息をつき、ようやく歩を進めた。食堂の喧騒が背中に遠ざかり、廊下の静けさが胸に染みる。
──彼女の背中を、ひとり見つめていた者がいた。
食堂の奥、誰も気づかぬ隅の陰に立つマクシムは湯気の立つカップを片手に、静かにソフィーの姿を追っていた。その瞳には怒りも安堵も映らない。むしろ、何も映さぬよう努めているかのように感情の影を徹底して押し殺している。
それでも、その沈黙の奥に何かが蠢いている気がしてならなかった。




