第一章② ソフィー
きしむ木戸をくぐると、そこは宿舎の中庭だった。
砂利を踏む音が、やけに大きく響く。
中央には整列した隊員たちが一列に並んでいた。軍服の襟は正され、誰もが直立不動の姿勢。
だが──初めてここに来たあの日とは、どこか違う。気配が重い。
ジョルジュが一歩前に出て「戻りました」とだけ声をかけると、その背後からマクシミリアン・ブーケが現れた。彼のアッシュ髪が風に揺れるが、その赤茶色の瞳には一切の光も感情もなかった。
彼はソフィーの方を一瞥するとすぐに視線を前に戻し、整列する隊員たちへ向き直った。
「隊の諸君、再紹介する。本日付で、ソフィー・ド・ルノアールが軍医として復職した」
それだけだった。文官のように抑揚のない声。拍手も歓声も、応える声もない。
ソフィーを迎えるはずの空気が、まるで沈黙そのものだった。
ソフィーは自分の足元にだけ重力が増したような錯覚を覚える。けれど顔には出さず、一歩前に進み出た。
「軍医のソフィー・ド・ルノアールです。再びこの隊に身を置きます。今後とも、よろしくお願いします」
敬礼しても、返ってくるのは石のように固い静寂だけ。
グウェナエルも、シャルルも、スザンヌも目を逸らしていた。誰も笑ってはいない。
ソフィーは乾いた風が自分の前髪を揺らすのを感じながら、静かに息を吐いた。それでも、立っていた。そして隊員達の背後でアニータだけが両手を強く握りしめ、声にならない声で「おかえり」と呟いていた。
──それにしても。
ソフィーはふと視線を滑らせて、マクシムの横顔を捉えた。変わらぬ背筋、冷えたように無駄のない所作、きっちり結ばれた軍服の襟元。そこまでは何も変わっていないように見えた。
だが、その髪色だけが、違っていた。
灰。どこか金属を思わせる冷たい光沢を帯びた、灰色。
以前の漆黒は跡形もない。染めたにしてはあまりにも自然すぎた。太陽の下でも色むら一つない。
いや、そもそもこの人が見た目に構うような性格だったろうか。ほんの数歩離れているだけなのに、異質な何かが目の前に立っているような気がした。
マクシム本人には違いない。けれど、あのときの彼ではない。肌の色も、瞳の硬さも変わっていないのに──髪だけが、それを拒んでいる。
ソフィーは思わず、ぞくりとした。それが何を意味するかはわからない。ただ、彼の中で何かが確かに変わったということだけは直感のように胸に刺さった。その髪が風に揺れた。まるで何かを焼き尽くしたあとの灰のように。
マクシムの声が中庭の隅々まで冷たく響き渡っていた。抑揚のない言葉。整然とした呼吸。軍式通りの挨拶だったが、どこか乾いていた。
「——以上をもって、本部隊への帰還者一名、軍医ソフィー・ド・ルノアールを迎える。以後、任務にあたる上での指揮系統に変更はない。諸君は各自、配置と任務に忠実であれ」
誰の声もかぶらなかった。敬礼の動作さえ、ぎこちなくはなかったが、妙に静かだった。
ひとりひとりの顔は仮面のように感情を閉ざしていて、誰一人として明確な歓迎の意思を見せなかった。マクシムが腕を軽く振り下ろす。
「解散」
ざわりと足音が広がり、次々と隊員たちは背を向けて散っていった。隊列が崩れる音とともに、わずかに残っていた整然とした空気も薄れていく。まるで何かの儀式の余韻だけを残して、全てが日常へと戻っていくようだった。誰もソフィーに声をかけないまま、マクシムさえも踵を返して無言で宿舎の中へと姿を消した。風が吹いた。中庭に広がる木洩れ日が、騒がしい足音と共に揺れる。
「ソフィー!」
ジョルジュが顔をほころばせて駆け寄る。続いてアニータも、柔らかい笑みを浮かべてその隣に並ぶ。
「無事でよかった」
ジョルジュの声には安堵と少しの疲労が混ざっていた。
「ええ、何とか」
ソフィーは小さく頷いた。その時、少し離れたところから静かに一歩、若くて可憐な女性が近づいてきた。ソフィーと目が合う。
「はじめまして、ソフィー・ド・ルノアールさん」
彼女の声は落ち着いていて、どこか慎重な響きがあった。
「あなたのことは噂で聞いていました。こうして会えて嬉しいです。仲間として、よろしくお願いします」
リゼーヌは軽く頭を下げて味方の意志をはっきり示し、ソフィーは少し驚きながらも心の中で一筋の光を感じた。
ジョルジュはリゼーヌの方を見て、にこやかに紹介する。
「リゼーヌはねー、航海天文学士なんだよ。珍しいよねー」
リゼーヌは丁寧に微笑みながら答えた。
「はい、航海天文学士のリゼーヌ・ド・ボルドと申します。皆様のお役に立てるよう努めます」
彼女の声は落ち着いていて自信が感じられる。ソフィーはその説明を聞きながら、心の中でそんな専門家がまだいることに感心した。アニータも嬉しそうに続ける。
「これからの航海、星の導きがあれば頼もしいわね」
ジョルジュはもう一度ソフィーに視線を向けて少し険しい顔をした。
「でも、まずは落ち着いて。何かあったらボクたちが守るから」
その言葉に少しだけ救われた気がした。だが、一つ不可解なことがある。
ソフィーは腕を組み、眉をひそめて仲間たちを見つめた。
「隊長の髪の色……あんなに突然変わるもの? 灰色になって……。なんでなのか知りたい。けど、あの雰囲気じゃ聞きにくくて……」
ジョルジュは口元を緩めつつも、真剣な表情で首をかしげた。
「ボクたちも正直、わかんないんだ。ある日、普通に隊長と話してたと思ったら次の日から急に変わっててさ。最初は誰かの悪戯かと思ったくらいだ」
アニータも小声で続ける。
「隊長は相変わらず真面目で、冷静で。だけど、どこかよそよそしくなった気がする。何か心の内に重たいものを抱えてるんじゃないかって感じてしまうのよね」
リゼーヌは敬語を崩さず、控えめに言葉を紡いだ。
「私も噂程度に耳にしただけでして、正確な理由は存じません。ただ隊長は口を閉ざして、周囲もそれを尊重しているようです。深く詮索しない空気が漂っています」
ソフィーはじっと皆の顔を見回しながら吐息を漏らした。
「そう……それでも、やっぱり違和感が拭えない。以前のあの強くて頼もしい隊長とは、何か違うような気がして」
ジョルジュは肩をすくめて苦笑した。
「まあボクにしてみれば、隊長のことは今や部隊一の謎かもね。理由がわからないからこそ、余計に気になって仕方がないよなー」
アニータは少しうつむき加減で呟いた。
「でも……隊長のことは信じたい。どんなに変わっても、彼は私たちの隊長であって、私たちを守るために戦ってくれている人だもの」
リゼーヌは頷き、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい! 私も隊長が歩む道が正しいと信じてます。隊長の信念を尊重し、支えていくことが私たちの役目だと思います」
ソフィーは深く息を吸い、決意を胸に言葉を結んだ。
「私も同じ。これから何があっても、私は隊長のそばで戦う。たとえ理由がわからなくても、信じてついていくわ」
その言葉に仲間たちは揃ってうなずき、かすかに口元を緩めた。どこかぎこちないが、絆の片鱗を感じさせる空気が中庭に漂った。
「そろそろ宿舎に戻ろっか」
アニータがぽつりと口を開いた。表情には疲れが滲み、先ほどの緊張感から少し解放されたようだった。
「はい、そうですね!」
リゼーヌも小さく頷き、二人はすでに歩き始めていた。しかし、ソフィーはその背中を見つめながらふと立ち止まる。彼女は振り返り、ジョルジュの方に歩み寄った。
「ジョルジュ、ちょっと話があるの」
ジョルジュは驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑み返す。
「いいよ。ボクも話したいことがあったところだ」
アニータとリゼーヌが離れていくのを見送りながら、ソフィーは息を整える。路地の空気は穏やかだが、心臓の奥ではまだ嵐が残っているようだった。二人は静かに歩みを進め、路地の片隅で立ち止まる。
「……あのことについて話そう」
ソフィーは意を決して切り出し、ジョルジュは少し間を置いてから頷いた。
「……ああ、わかってる。君が言いたいのは……あれだろ?」
ソフィーは目を伏せ、静かに頷く。
「うん」
二人の間に、沈黙の重さが漂った。選ばれる言葉の一つ一つが胸の奥にひっかかる。
ソフィーは深く息を吸い込み、ジョルジュの瞳をまっすぐに見つめた。
「ジョルジュ。まず、私が生きていると信じてくれてありがとう。でも、あなたの大胆な行動には驚いたわ。貴族の社交界に出入りしている、しかも隊長と取引の繋がりがある商人を探し当てるなんて」
ジョルジュは少し目を逸らし、沈黙を保つ。胸の奥で迷いや恐怖が渦巻く。
「……ソフィー、そのことについて今は話さない方がいいかもしれない。いや、話すのが難しいっていうか」
「隊長のことね?」
ソフィーは静かに問いかける。ジョルジュは深く息を吐き、やがて口を開いた。
「リー・ウェン。あの東洋の商人が言っていた。あなたが隊長を疑っているって、何があったの?」
ソフィーの声には迷いはなかった。ジョルジュの表情が曇るが、やがてゆっくりと口を開く。
「それは……信頼に関わる話だよ。君まで隊長を疑い始めたら、今後のことが大変になるだろう?」
ソフィーの目は揺るがない。
「わかってる。でも、私が求めているのは真実よ。その上で、私は隊長を信頼したいの」
ジョルジュは沈黙を重ね、やっと覚悟を決めたように頷いた。
「……わかった。話そう。でも、覚悟して。これから聞くことは、きっと君の知りたいものとは違うかもしれない」
ソフィーは深く頷いた。胸の奥で、覚悟と不安が同時にうごめく。
「それでも、私は聞きたい。どうしても真実を知りたいの」
「わかった、話すよ」
ジョルジュは一度目を伏せ、小さく息を吐いてからソフィーを見つめた。
「ただ、一つ訂正させて。あの東洋人、リー・ウェンさんの言葉にはちょっと誤解がある。ボクが疑っているのは……隊長本人じゃない。隊長の囲いなんだ」
ソフィーのまぶたがわずかに動く。
「囲い……リラさん、シャルル、それにグウェナエルのこと?」
「そう。あの三人さ」
ジョルジュは頷いた。
「君が行方不明になったあの嵐から、ちょうど一ヶ月くらい経った頃かな。たまたまね、ボク、廊下で聞いちゃったんだ。あの人たちが集まって話してて……それが、君のことだった」
ソフィーはそっと視線を伏せる。喉の奥で言葉にならない何かがひっかかる。
ジョルジュは言葉を選びながら静かに語り始めた。
「あの人たちはね、君の正義感を恐れつつも、純粋さに感服していたんだ。シャルルさんも強く言ってたよ。『彼女の正義感は怖い、だけど……尊敬に値する』って」
ソフィーの胸の奥で冷たさと温かさが入り混じる。恐怖と敬意、両方を同時に抱かれていた自分の存在。苦さと救いが同時に押し寄せた。静かな場所なのに、空気が一気に濁った気がした。
「……隊長は?」
ソフィーが掠れた声で問うと、ジョルジュは眉を寄せた。
「その場にいたかどうか、わからない。ボクが聞いたのは声だけだったし。ただ、隊長の声は一言もなかった」
「……じゃあ、いなかった可能性もあるわね」
「うん。実際あの頃、隊長は大怪我しててほとんど医務局にいた。寝たきりだったって話もある。でもね……」
ジョルジュは少し間を置き、声を落とす。
「仮にその場に隊長がいなかったとしても──止める人がいなかったことが怖かったんだ。あの人たちがどんな秘密を抱えているか、ボクにはわからない。でも、君を失ったことに誤解と責任と後悔を抱いていた。だから、何もできなかった……ただ、静かに結論が出てるような空気が流れてて」
ソフィーは胸の奥で、言葉にならない重みを感じる。恐れ、後悔、そしてわずかな敬意──それらが絡み合い、静かに彼女の心を揺さぶった。
「あ……ありがとう、ジョルジュ。話してくれて」
搾り出すような声でソフィーは言った。その手の中に形のない傷と、それでも求め続ける真実の重みが握られていた。ソフィーは小さく息をついてから、ジョルジュの脇をすり抜けようとした。
「あ、待った!」
彼女の背中に思い出したような声が飛ぶ。ソフィーが振り返ると、ジョルジュが手を挙げていた。
ジョルジュが手を差し伸べるように最後のひと言を口にした。
「言い忘れてたんだけど……ただひとり、本当に怒ってくれた人がいたんだ」
「……怒ってくれた?」
「うん、グウェナエルさんさ。あの人だけは、君が突っ走った理由も状況も知らなかった。だから、怒りをそのままぶつけた。『ふざけるな!』って。冷徹なようで、実は君のことを本当に大事に思ってるんだ。あの人は熱いんだよ、内側は」
ソフィーの胸にほんのわずかな光が差し込む。だが、裏切られたショックはまだ癒えていない。
心の奥底で、「信じられない」という気持ちがもぞもぞと残る。怒り、戸惑い、そして少しの救い。
それらが同時に押し寄せ、彼女は言葉を出せずに静かにうなずくしかなかった。
胸の奥で、あの冷徹で孤高な男──グウェナエルが、本当は自分を守りたい、信じたいと思ってくれていたことを少しだけ感じ取る。
でも、その事実を信じきるにはまだ心の準備が足りない。
過去の痛み、裏切られた気持ちが、完全には消えずに残っている。
それでも、胸の奥で確かに芽生えた小さな火──熱くて静かな希望──が、彼女を少し前に進ませる。
「もう少し落ち着いてから、彼のところに行くといいよ。今は……何より、君が疲れてる」
「……うん。ありがとう、ジョルジュ」
ソフィーは言葉少なに告げ、手をぎゅっと握りしめた。その背中にグウェナエルの怒りと想い、そして自分を思う仲間たちの気持ちが、まるで風のように通り抜けていくのを感じた。そして、彼女は自分自身に小さく誓う。
——まだすべてを理解できないけれど、いつか、きっと信じられるようになる。
その日まで、自分の正義感を曲げず、でも大切な人たちの想いも受け止めていこう、と。
足取りはゆっくりだが、確かに前へ進む。ソフィーの瞳には静かな決意の光が宿っていた。
そのままジョルジュと再び歩き出そうとしたところで、ソフィーの足が止まる。
彼女はちらりと横目でジョルジュの肩越しに見えた、少し離れた廊下の影に目を留めた。
「ところで、スザンヌは……どうしたの? 顔色、かなり悪いわ」
言われてジョルジュも気づいたように後ろを振り返る。
柱の影、宿舎の出入り口近くでスザンヌがひとり視線を伏せたまま立っていた。気配を殺すように佇む彼女の姿は、まるで誰かに見られることを拒むようでもあった。
「……ああ、彼女も最近やっと復帰したんだ。けど、色々あったらしくて、あまり話をしなくなったよ。今はそっとしておいたほうがいい。自分でも『話せない』って言ってるから」
ソフィーは何も言わずにその小さな背中を見つめた。スザンヌにも、何かがあった。自分がいない間に、誰かが傷ついていた。
「……わかった。しばらく様子を見るわ」
「うん。それがいい」
ジョルジュの声は、少しだけ寂しげに揺れていた。
「ん? そういえば……」
ふと思い出したようにソフィーがジョルジュの横顔を覗き込む。
「ジョルジュ。あなた、スザンヌのもとに押しかけたって聞いたけど、それが原因じゃないの?」
ジョルジュはわずかに目を見開き、すぐに眉を下げた。
「それも、誤解だよ!」
慌てて両手を前に出すようにして否定する。
「ボクが会ったのは、彼女のお父上さ。お屋敷に伺って、正面から話をしただけ。スザンヌは……そのときから具合が悪くて、面会は世話人に断られたんだ」
「……そうだったのね」
ソフィーは静かに頷くと、視線をもう一度廊下の影に向けた。スザンヌの姿はもうそこにはなかった。
「わかった。じゃあ、私の中で変な誤解はしないようにしておく」
「ありがとう」
少しほっとしたようにジョルジュが息をつく。彼の真っ直ぐなまなざしには、ソフィーに対してだけでなく、スザンヌに対しても誠実であろうとする思いが滲んでいた。
「……でも、本当に。今の彼女は別人みたいだ。何か、大きなものを失ったみたいに」
その言葉に、ソフィーは胸の奥に小さな引っかかりを覚えながら、そっと唇を閉じた。
石畳の廊下を戻る足音が二つ、やがて一つになり──そして、扉の閉まる音だけが響いた。
マクシミリアン隊専用宿舎の一角に与えられた自室。
久しぶりに戻ってきたはずなのに、そこには懐かしさよりもどこか他人の部屋のような違和感が漂っていた。ベッドの上に置かれた革製の鞄。荷ほどきもせず、ソフィーはそっと窓辺に腰を下ろす。曇りガラスの外では、かすかに潮の気配が立ちのぼっていた。
──気まずい空気。抑揚のない挨拶。誰も感情を表に出さなかった。
マクシムの髪が、あんな色に変わっているとは思わなかった。
黒く整えられていたあの髪が、今は淡いアッシュに……。
何があったのだろう。なぜ誰も、そこに触れようとしないのか。
そして、自分に向けられるあの視線。責めているのか、それとも測っているのか。
「……もう、もとには戻らないってことよね」
ぽつりと零した声だけが自室に落ちる。
あのトルチュ島の空。ルキフェルたちの船の上。嵐の中、手を汚してしまった日。
数えきれないほどの選択と、数えきれないほどの後悔と、それでも必死に掴み取ってきた生。
──私は、ここに戻ってきた。
それが正しいかはわからない。でも、嘘はつかない。真実を探し、自分の手で確かめると決めたのだ。
ソフィーは首から下げたネックレスに触れる。
銀の龍と蛇、そしてその間に埋め込まれたアクアマリンが、冷たくもそこに存在した。
「……明日は、医務室に挨拶しなきゃ」
そう言って立ち上がるとソフィーは鞄を開き、丁寧に荷物をほどき始めた。
戻るべき場所に戻ってきたのではない。ここで、もう一度歩き出すのだ。




