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第一章① ソフィー

 軍医ソフィー・ド・ルノアール殿


 貴殿におかれては、これまでパリ医務局において誠心誠意、その任務を全うされましたことに対し、海軍総司令部より深甚なる感謝を表すものである。よってここに、貴殿の同局における任期満了を正式に通知致す。


 ついては、下記の通り異動を命ずるものとする。


【異動先】

 ブレスト軍港司令部 第七艦艇部隊

 マクシミリアン・ブーケ隊

 任務:同部隊における軍医としての勤務


 貴殿の見識と実績が、新たなる任地においても多大なる成果をもたらすことを期待しております。


 以上、遅滞なく着任されるよう命ずる。


 海軍総司令部 人事局局長代理

 ジャン=ピエール・デュモン海軍中将



 ソフィー・ド・ルノアールがブレスト港に姿を現してから、すでに三ヶ月が過ぎていた。

 あの日の帰還は、海軍内に大きな動揺をもたらした。

 彼女は「消息不明者」として既に記録上から外れかけており、事実上の戦死扱いとなる寸前だった。

 だがその本人が、ふいに、単身で戻ってきたのである。

 生存は奇跡に近く、だが何よりも問題だったのはその後の事情だった。

 軍の聴取に対して、ソフィーは躊躇わずに語った。


 「はい、私はあのフランソワ海賊団の一味と、共に過ごしていました」


 その言葉が意味するものの重大さは、彼女自身が誰よりも理解していたはずだった。


 大海賊フランソワ。かつて私掠免状を剥奪して以降、海を蹂躙し、国の誇る艦隊を次々と沈めた伝説の大海賊。その名はいまだ軍人たちの間で呪詛のように囁かれている。

 彼の死後、五人の残党は粘り強く生き延び、今はフランス海軍の脅威としてリスト化されていた。

 その彼らと自らの意志で行動を共にしていたとソフィーはそう明言したのだった。

 黙秘することも逃げることも、言い訳を並べることもできたはずだ。

 だがソフィーは正直に、まっすぐに事実を告げた。

 当然、彼女には重い嫌疑がかけられた。

「敵性海賊との共謀」

「自発的な亡命」

「軍規違反」

「国家機密の漏洩」

 ——そのいずれもが軍法に照らせば極刑を免れない罪である。

 すべてが不透明なままでは済まされず、彼女はごく一部の高官のみが参加を許される極秘審問廷へと送致された。だが、結論は一つの妥協だった。

 軍医という職務上の特殊性、そして直接の戦闘行為や敵対行為が確認されなかったこと。

 何より供述に一貫性があり、虚偽の形跡も見られなかったことが評価された。

 審問廷は情状酌量の余地ありとしてソフィーを「保護観察処分」とし、首都パリの医務局へと一時的に配属した。それ以来、ソフィーは静かに粛々と医務官としての日々を送っていた。

 過去を問う者もなく、問い返すこともなく、ひたすらに職務をこなす三ヶ月。

 その静けさは嵐の前のようでもあった。


 再びブレストの地へ戻れるとは、ほんの数か月前までは思いもしなかった。

 けれど、思えばこの数か月間で彼女の人生は何度も大きく変わってきた。


 最初に、マクシミリアン・ブーケ隊に軍医として赴任した日。

 フランス海軍の中でも重要な軍港ブレストで、真新しい制服に身を包んだあの日のことは今でも鮮明に思い出せる。

 奇妙な任務に、癖のある隊員たち。そして、謎に満ちたマクシム隊長。

 全てが新鮮で、どこか異様で、それでも自分は軍医としてそこに立っていた。


 そして、あの五人の海賊たちとの出会い。

 ルキフェル、マテオ、ジャスパー、ニール、コリン。

 あの時の自分は、彼らが敵であり、そして救いでもあったことを忘れられない。

 やがて海軍の陰謀が渦巻く中で、グウェナエル、シャルルの二人に裏切られたあの嵐の日。

 自分はマクシムからも切り捨てられた。

 そこから始まった、海賊としての日々。

 契約という名目で船医として五人と航海を共にし、命を繋ぎ、時に許されざる罪——旗偽装——にも手を染めた。

 トルチュ島では海賊たちの拠点となる小さな街で暮らし、カルロータやディッキー、長老やリー・ウェンといった人々と触れ合い、再び人の温かさに触れた。

 かつての大海賊フランソワの残響は、今も彼らの間に深く根を張っていた。


 それでも、戻ると決めたのは、自分自身だった。

 マクシムがなぜあの日、自分を突き放したのか。その理由を知りたかった。

 彼が何者で、何を抱えているのか。あの隊の正体は正義なのか、それとも……。

 自分の目で見届けるために、もう一度「軍医」としてマクシミリアン隊に戻ろうと決意した。

 たとえまた傷ついたとしても、今度こそ自分の意志で、最後までこの目で確かめてみせる。

 ——そう、心に決めていた。


 荷造りの手を再び動かしながら、ソフィーは一つだけ確かに思う。

 この道は過去の自分の選択の続きであり、未来へ進むための第一歩なのだと。

 小ぶりのトランクに最後の包帯を詰め終えたとき、ソフィーはふう、と小さく息を吐いた。

 身支度は完了した。パリ医務局の宿舎に与えられていた仮住まいとも、これでお別れだ。

「……思ったより、早く戻れるものね」

 ひとりごとのように呟く。声に含まれた響きは、喜びでも憂いでもない。ただの実感だった。

 窓の外では、深まる秋の気配が石畳の街路を曇らせている。霧が立ちこめ、行き交う人々の姿がぼんやりと歪んでいた。

 この三ヶ月、ソフィーはパリ医務局にて事務的な仕事と医療支援に従事していた。

 上層部の監視の目は薄れたとはいえ、いつまた呼び出されるとも限らない日々の中で、それでも彼女は黙々と与えられた役割を果たしてきた。

「これで、ようやく正面から戻れる」

 心の中で言葉を重ねる。その手には、つい昨日届いた異動令状が握られていた。

 荷物を全て詰め終えたトランクの蓋をソフィーは静かに閉じた。

 外はまだ薄曇りで、パリの街路には秋の気配が漂っている。

 黒の外套に腕を通し、アクアマリンのネックレスを首元に指先でなぞるようにして確かめると深く一息をついた。

「ここからが、新しい出発」

 馬車はパリ医務局が最後の手配として用意してくれていた。

 助手たちに別れを告げ、荷台にトランクを積み込むと馬車はゆっくりと医務局前を離れていく。

 車窓の外には見慣れた街の景色が流れていた。

 往診に通った路地、薬草店、噴水のある広場……だが、それももう過去のものだ。

 彼女が向かうのは西の海。三ヶ月前、決して戻れないと思った場所。

 けれど、今こうして再び歩み出すのは、自分の意志だ。

 ブレストまでは馬車を乗り継いで五日がかりの道程となる。

 ソフィーは眠りも浅く、道中、手帳にこれまでの記録を断片的に書き留めていた。


 ──なぜ私は戻るのか。誰のために戻るのか。そして、何を確かめたいのか。


 すべて答えの出ない問いだった。だが、ひとつだけはっきりしているのは、自分がまだ終わっていないということだった。

 数日後、ようやくブレスト港が朝靄の向こうに姿を現した。岸壁には荷役の人々が忙しく立ち回り、帆船のマストが林のようにそびえている。海の匂いが肌に触れた瞬間、胸がざわついた。

 ──帰ってきた。

 司令部での手続きは事務的なものだった。

 顔見知りの軍人も数人いたが、誰も口には出さなかった。

 ソフィーが「問題の軍医」であることは皆知っている。好奇心と沈黙、それが彼らの礼儀だった。

 軍服に袖を通し、任務に従事するための徽章を受け取ると、ようやく息が深くなった。

 かつての階級は剥奪され、今は「任務上の軍医」としてだけ存在する自分。

 それでも、マクシミリアン・ブーケ隊に戻るためにはこの身分を持たねばならなかった。

 その足で、ソフィーはマクシミリアン・ブーケ隊の宿舎へと向かった。

 ブレスト司令部からは少し離れた海辺──キール通りに面した静かな一角に隊専用の建物がある。舗装もまばらな石畳を踏みしめながら歩くと、潮の香りが濃くなってきた。少しずつ見えてくる見覚えのある建物に、ソフィーは無意識に歩調を早める。

 変わっていない。何もかも、まるで昨日のことのように。

 門の前に立ち、ソフィーは一度、深く息を吐いた。胸の奥にまだ残る不安を押し込めるようにして、扉を叩こうとしたそのとき──

「……ソフィー?」

 背後から聞き覚えのある声がした。声と同時に足音が近づいてきた。

 振り返れば、石畳の先に立っていたのは見間違いようのない顔だった。

 癖のある栗毛色の髪に、あのときと変わらぬ表情。帽子を斜めにかぶり、見慣れた制服を着ている。

「ジョルジュ!」

 ソフィーの目に、ふいに涙が滲んだ。

 あの船で同じ時間を過ごした仲間。陽気で、だけど誰よりも仲間思いで真っ先に体を張る青年。

 そして何より、自分が生きていると信じて行動してくれた人だ。

 その彼が信じられないものでも見るように目を見開き、数秒の沈黙のあと、一気に駆け寄ってきた。

「本当に……きみ、戻ってきたのか! 本当に、ソフィーか!?」

「うん……戻ってきた。ちゃんと、自分の意思で」

 ジョルジュの手がソフィーの肩を強くつかんだ。

 言葉よりも先に、その温度が胸にしみた。肩越しに誰かが駆けてくる気配があり、次の瞬間、ふわりと抱きしめられた。

「うそ、うそでしょ! 本当に……!」

 声を震わせて泣いていたのは、アニータだった。外套をたなびかせ、彼女もまた走ってきたのだ。

「信じられなかった! あんたが、いなくなってから、あたし、ずっと……!」

「ごめんなさい……心配をおかけしました」

 ソフィーはそっとアニータの背中に手を回しながら、懐かしい匂いに目を閉じた。船の上で、ずっと一緒だった仲間。彼女の叱咤も皮肉も、全部が懐かしくてたまらない。

「戻ってきてくれて、ほんとによかったよ……っ」

 嗚咽まじりにそう言ったアニータの肩を、ジョルジュがそっと引きはがす。

「……ちょっと待ってて。ボク、みんなに報告してくる」

 そう言った彼の表情は、先ほどまでの感激とは打って変わって険しいものだった。鋭い眼差しで宿舎を見つめたあと、一言だけ残し、足早に扉の奥へと消えていく。あの顔は、何かを覚悟している顔。

 ソフィーの胸に、再び波が立った。

 それでも、もう逃げない。ここで、すべてと向き合うと決めたのだから。

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