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第六章① ユルリッシュ・ルソー

 水平線の彼方に火柱が上がった。

 濃灰色の煙が潮風にあおられ、空を覆う。その下で大砲が咆哮を繰り返し、飛び交う砲弾が木片と血煙を撒き散らす。

 ここは大西洋、最前線。

 ——ネーデルラント連邦共和国との海戦真っ只中。戦況は、激戦に次ぐ激戦であった。

 正式名称《外交戦闘部隊》、番号は第一。

 第一艦艇部隊、ユルリッシュ・ルソー隊。

 その主力艦《ヴォルカニク号》の甲板では、兵たちが硝煙の中を走り回り砲弾を抱えて汗と油に塗れていた。

「左舷、二番砲、装填完了!」

「応急班! 右舷損壊、裂けてます!」

「舵、五度修正、保持!」

 命令と報告が飛び交う甲板に一際目を引く一人の男がいた。

 風を受け、船首近くに仁王立つその男——深い紺の三角帽子の下で目を光らせる獅子のごとき威容。

 ユルリッシュ・ルソー准将。

「……敵艦、喰らいついてきたな」

 鋭い視線で敵艦隊の動きを読み切ったルソーは眉一つ動かさず呟いた。

「だが…間合いが詰まった分だけ、こちらの餌食になるってこった」

 副官が駆け寄り緊張の面持ちで告げる。

「敵主力艦、前衛を突破、右舷側面に! このままでは包囲の恐れが——」

「包囲? いいじゃねえか」

 ルソーは不敵に笑った。

「囲まれたなら殴れる的が増えただけだ。全艦、右旋回!  補助帆展開、砲列を敵中央に向けろ。正面突破するぞ!」

「っ……承知!」

 副官が敬礼し、命令を全艦に伝達すると同時に船体が大きく軋みながら旋回を始めた。海面を滑るような旋回とともにルソー隊の艦列が整い、敵の腹を正面から撃ち抜く体勢が整う。

「全艦、一斉射。狙いは奴らの根幹……あの旗艦だ」

 刹那、咆哮のような砲声が十数重にも重なって轟いた。水柱があがり、空気が震える。視界の彼方でネーデルラントの旗艦が火を噴き、傾きながら海面に煙を撒き散らす。

「命中確認! 敵旗艦、大破ッ!」

「よし……このまま押し込め! 前進――ッ!!」

 突撃命令とともにルソー隊の艦隊は瓦解した敵陣へと突き進んだ。彼らの艦は重厚な装甲と機動性を兼ね備え、乱戦において無類の強さを誇る。横合いから割り込む敵艦をいともたやすく粉砕しながら、一直線に前へ。そこで、ルソーは叫んだ。

「今が潮時だ、連中に見せてやれ! ……これが海軍最強、第一艦艇部隊の戦いだってことをな!!」

 歓声があがった。兵たちの顔に笑みが戻る。戦の流れが明確にこちらへ傾いていた。

 一度火のついた獅子の牙は、もはや止まらない。


 ──数刻後。


 戦はルソー隊の圧勝で終わった。ネーデルラントの艦隊は半数以上が沈没、残りも戦意を喪失して散り散りに。艦上では修理班が破損箇所を確認する中、兵たちは疲労と安堵に混じって互いに背中を叩き合っていた。

「見事な戦術でした、准将」

 副官が小さく笑いながらそう言ったとき、ルソーは既に望遠鏡を北へ向けていた。

「……ああ、だがまだ終わっちゃいねぇ」

 低く唸るような声。海の匂いと血の匂いを嗅ぎ分ける獣の直感が、まだどこかに何かを感じ取っていた。

「風が変わった。潮が妙に生臭ぇ」

 副官が眉をひそめた。ルソーは静かに望遠鏡を下ろすと、ぽつりと呟いた。

「この先、何かが待ってる。……海がざわついてやがる」


 海が、静かだった。

 陽が傾きかけた空は深い藍へと移り変わり、どこまでも続く水平線に船の帆影だけが切り取られていた。先ほどまで死闘を演じた戦場とは思えぬほどの穏やかな凪。

 甲板の上。ユルリッシュ・ルソーは一人、舵のそばに立ち尽くしていた。夕陽を受けて染まるその顔にはいつもの獅子のような覇気とは違う、どこか静かな気配があった。

「……全艦、航路は問題ない。風も悪くない」

 ルソーの背後から副官の報告が届いたが、彼は黙って頷くだけだった。

 日が落ちる頃、決まってルソーは無言になる。戦場では血を燃やし声を張り上げる彼も、勝利の後にはこうして静かに何かを想っている。

「あいつなら、どう言うだろうな」

 ルソーの脳裏をよぎるのは長年の戦友、エリオット・ド・レオパード。

 今や海軍の頂点に立つ英雄であり、王国が誇る最高位の将。その器の大きさを誰よりも知るのが自分だった。

「……あんな冷静な奴が、よくまあこんな熱血バカと馬が合ったもんだ」

 ひとりごとのように笑う。だがその笑みは、どこか寂しげでもあった。

 自分は直情型で考えるより動く方が得意だ。戦では本能で突っ込むし、机に向かって作戦立てるのはどうにも性に合わない。それを補ってくれたのが冷静な部下たちであり、かつての参謀たちだった。

「……あいつらがいてくれるから、オレは戦える。オレが燃えて突っ込んでも、冷水ぶっかけて止めてくれる奴らがいるからな」

 本部にはあまり顔を出さない。あの重苦しい空気も形式ばった礼儀も、どうにも息苦しく感じるのだ。けれど、時折戻るたびに後輩たちが笑顔で迎えてくれる。それが不思議と嬉しかった。

「どうした? 海上の獅子も本部に来ればたちまち子猫ちゃんだな」

 誰かにそんなふうに茶化されたこともあった。それでも、ルソーはこの生き方を誇りに思っている。筋肉を鍛え、声を張り上げ、真っ向から敵に挑む。そんな自分を信じてくれる部下たちのためにも。

「オレは、オレらしくしかいられねぇ」

 言葉に出す必要もない。ただ、視線の先にある夜の海を睨みつけるだけでいい。

 潮の匂いと木の軋む音。そして、どこか遠くで軋む運命の足音をルソーは感じていた。

「……この勝利の余韻の中に妙な違和感がある。何かが来る。何かが、近づいている」

 ルソーは帽子のつばを指で押し下げ、冷たい海風を真正面から受けた。

「なら……来いよ。どんな嵐でも、オレは迎え撃ってやる」

 彼の眼差しは、まだ戦場にいた。

「——准将!」

 甲板を駆け上がる靴音とともに副官が息を切らして報告に現れた。その額には汗が滲み、声にはわずかな緊迫が混じっている。

「前方、右舷三時方向! 距離およそ八百、帆影一隻! 所属不明、信号にも応答なし! 見張りより、不審船との報告が!」

 それを聞いた途端。

「——ほうらな!」

 ユルリッシュ・ルソーは破顔した。期待が的中した子どものように目を見開いて笑う。口元には戦場で見せたどんな笑みよりも野性味が混じっていた。

「言ったろ、オレ。来るって思ってたんだよ、こういうのが!」

 ドン、と足元の甲板を踏み鳴らし振り返ったその声は雷鳴のように響いた。

「全艦、警戒態勢に入れ! 舵はそのまま、不審船に接近する! 砲は布で覆うな、見せてやれ。こっちは勝利直後で機嫌がいいんだってな!」

「了解!」

 号令を受けた兵たちが次々と走り出す。砲門を覆う帆布が手際よく外され、甲板のあちこちで火薬の準備が始まる。勝利の余韻を一瞬で吹き飛ばすような鋭利な空気が船全体に張り詰めた。

「……またですか、准将。せめて帰港してから派手にお願いしますよ」

 副官は片手で額を押さえ、肩をすくめながらつぶやいた。

「うるせぇな、帰ってからじゃ遅いだろが! こういうのは海が呼んでんだよ!」

 まるで全身が羅針盤のようにルソーはまっすぐ不審船の方角を見据える。その目には勘ではなく確信があった。

「応答もない……ってことは、隠れてるってこった。じゃなきゃ、堂々と王国旗掲げて近づいてくるだろ?」

「敵対の意思と断定してよろしいかと」

「断定していい。仮に違ったとしても、堂々と名乗れねえ船なんて海軍の前に出てくる資格はねえ」

 風が吹き抜ける。帆がしなる音に、火薬の匂いが混じり始める。不審船との距離はじわじわと縮まりつつあった。

「船影はやや小型。武装は不明、航行速度低下中!」

「逃げ腰ってことは、やっぱ何かあるな」

 ルソーは船首へと足を進めた。帆柱の下、群青の海を見下ろすその姿はまるで大海を統べる獅子のごとく。

「全艦、抜錨速度で接近しろ! 追い風だ、逃がすなよ!」

「旗信号にて警告を!」

「……無視されたら、撃つぞ。いい加減、オレの機嫌も限界だ」

 海はただ静かに揺れていた。だがその静寂の下に何か目に見えぬ狂気のようなものが、確かに潜んでいる気配があった。やがて不審船はこちらの接近にも応じぬまま風下へと流れていった。まるで自ら捕まることを望んでいるかのように。

「これはただの漂流船じゃない。中に、何かある」

 ユルリッシュ・ルソーの直感が確信へと変わっていく。この一戦のあとに待っているのはただの凱旋ではない。何かが動いている、海の奥底で得体の知れぬ歯車が回り始めている。そんな不穏な気配が船を包み始めていた。

 甲高い帆のきしみ音を切り裂いて海軍本艦が不審船に肉薄した。距離は百、五十……徐々にその船体が視認できるほど近づいたが、信じがたいことに敵艦からの反応は一切ない。

「……おかしいですね、准将。船上、無音です」

 望遠鏡を覗いた副官が眉をひそめる。

「海賊船……には見えるな。武装はしてるし、砲門もある。だが……人の気配がしねえ」

「死んでる……?」

 隣の砲兵士官がぽつりとつぶやく。

「いや、死んでたら、鳥が集る」

 ルソーは低く応じた。

「全艦停止、ボート隊展開! 乗り込むぞ!」

「准将自ら行かれますか?」

「当然だろ、こういう時こそ指揮官の器が問われるんだよ」

 部下の諦めたような顔を背にルソーは自らボートに乗り込む。三角帽の下、海賊船をにらみつけるその眼光は鋭く、獲物を見定める猛禽のようだった。十数名の海兵隊員が銃を構えながら乗り込んだ小舟は静かに不審船の船腹に接近した。掛けられたフックロープをよじ登り、まず甲板へと数名が到達する。

 ……しかし。

「……無反応です。誰も、いない」

「……全体に警戒を続けろ。砲門は固定されてる。戦闘の準備をした形跡は……ないな」

「この状況、妙だぞ」

 ルソーもロープをつかみ、腕一本で甲板に飛び上がる。乱れた帆、ゆるんだロープ、放置された水桶。そして、人の声も動きもない。

「……死体は?」

「なし。血の跡も、戦闘の痕跡も、ゼロです。何も起きていない。まるで……この船は最初から、無人だったみたいに」

「船内を調べろ。奴らは……どこかにいるはずだ」

 海兵たちが銃を構えたまま船倉に突入する。しばらくして奥から呆れ声が響いた。

「——寝てます」

「……は?」

 ルソーが眉を跳ね上げ階段を駆け下りると、そこには——

「……ぐぉ……うへへ……うぅん……」

 十数名の男たちが雑魚寝していた。誰一人、こちらに気づいていない。寝息を立て、鼻をかき、胡乱な寝言をつぶやきながら、まるで何の危機感もなく眠っている。

「……寝てる? この状況で?」

「はい。船倉に十七名、甲板下にもう四名。全員、武器も持たず寝たままの姿勢です。明らかに戦闘の用意も警戒もしていません」

 副官が信じられないものを見るような目でつぶやいた。

「海賊かどうかは?」

「旗印は黒。船体にもそれっぽい装飾。紛れもなく、ただの海賊船です」

「ただの……?」

「ええ。強いて言えば……あまりにも無防備すぎます。まるで……寝るように言われていたみたいな」

 ルソーは静かに唇を結び海賊たちの寝顔を順に見ていった。皆若く、船酔いでもない。泥酔もしていない。ただ心底無防備に、まるでこの拿捕劇が最初から予定されていたかのように眠っている。

「……こいつら、尋問だな。何かある。何か、海の底で——」

 不自然な沈黙の中、ルソーの直感がまた一つ確信へと傾いていく。

「この寝顔の裏には、きっと誰かの意志がある」

 船倉の空気は生ぬるい沈黙に包まれていた。だが、ルソーが靴のつま先で最もいびきのうるさい男の腹を蹴飛ばした瞬間、その空気は木っ端微塵に砕け散る。

「んがっ……な、な、なんでえええええええええええええええええええッ!?」

 寝起き一発、突き抜けるような絶叫。その声を皮切りに次々と海賊たちが跳ね起き、狂ったように喚き散らした。

「ぎゃあああああ!! 誰だお前らあああ!!」

「なんで!? なんで!? なんでこんなに軍服いるの!?」

「殺される!? これ死ぬ!? おれら終わった!?」

 悲鳴、叫び、泣き声、意味不明の言葉が海上に響き渡り、周囲の海を走る他の艦船からも一斉に哀れみと呆れが混じった視線が注がれた。


 甲板に引きずり出された十数名の海賊たちは軒並み青ざめ、涙目で震えながらしゃがみ込んでいた。海軍の隊員たちは全員、無言であきれ果てた顔をしている。

「……んで」

 ルソーがやや遠い目をして言った。

「特に陰謀もなく、ただ寝てたと?」

「……はい」

 先ほど悲鳴を上げた張本人の海賊が小動物のようにうなずいた。

「この海域に来た理由は?」

「……だ、だって……言ったら死ぬもん……」

「は?」

「そ、その、おれたち、ポート・ロイヤルから来たんす……けど、なぜかここに行けって言われて、でも何のためかは聞いちゃダメって……」

「誰に?」

「そ、それも……ナイショって……」

 隊員の一人が呆れきったように鼻を鳴らす。別の者は「子供の使いかよ……」と小声でつぶやいていた。

「お前ら、全員アホか?」

「す、すみません!」

 ルソーは一斉に頭を下げる海賊の群れを見下ろしたまま、疲れ切った顔でため息を吐いてぼやいた。

「……しょうがねえ。こいつら全員、捕縛してうちの船に積め。とりあえず話はそれからだ」

「了解」

 命じられた隊員たちがそれぞれ海賊たちの腕を縛って移送の準備にかかった、そのとき。

「……ん?」

 ルソーの目が一人の海賊の懐にちらりと覗く一片の紙束に留まった。

「……おい、お前」

 びくりと震えた海賊の襟元に手を伸ばし素早く懐を探る。ごそり、と小さな封筒が姿を現した。無造作にたたまれたままの書簡の体裁をしている。

「これは……?」

 手に取ったルソーの表情がわずかに引き締まる。汚れた封蝋。見覚えのある印章。その紙の重みには妙な手応えがあった。

「誰宛だ、これ」

「……言えません……」

 海賊は怯えながらも断固として口を閉ざす。

「ふうん……ますます怪しいな」

 封を開けるか、開けないか。ルソーの手が微かに震えた。風は止み、海面は穏やかに波打っている。甲板には眠気と恐怖に引き裂かれた海賊たちが情けない姿で蹲っていた。

 ルソーが月光のもと、重厚な革封筒を無造作に破ると中から一枚の羊皮紙が滑り出た。細く丁寧な筆跡、そこにはただ一言。

「至急、北大西洋の合流地点へ。エドガー・ロジャース」

 ルソーの眉がぴくりと動いた。沈黙。月光が彼の肩甲に光を帯びる。後方では隊員たちが捕縛した海賊たちを引きずっていた。海賊たちは喚き、泣き、祈りを叫びながら戦艦の舷側へと追いやられていく。

「隊長、全員詰め込みました。そろそろ行きましょう」

 副官の静かな声。若く聡明な顔に戦闘の熱がまだ残っていた。

 名は、アンドリュー・マラン。次代の海軍を担う男である。

 ルソーは一度だけ書簡を見下ろし、それから懐へと滑り込ませた。

「アンドリュー、早急にブレストへ戻るぞ」

「了解しました」

 ルソーは振り返りもせずに歩き出す。靴音が板張りの甲板に響き、軍服の裾が海風に翻った。

「オレはブレストに着き次第、すぐにパリ総司令部へ向かう。お前たちはゆっくり休んでくれ。……そのうち戻る」

 ルソーの背中が語っていた。覚悟、怒気、そして奇妙な昂揚。

「まったく、貴方は本当に……荒い人だ」

 アンドリューの苦笑混じりの声がその背に投げられる。だがルソーは振り返らない。

 あの大海賊の名が書かれた一通の書簡だけを手掛かりにブレストへ。

 そして、その先の嵐へ向けて静かに歩を進めていった。

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