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第五章④ フェルナンドとマクシム隊

 午後の日差しが白いリネンを透かして柔らかな光を落としていた。

 清潔な医務室の中、薬の匂いと布のきしむ音の他には何も聞こえない静かな時間。

 そこへ、ジョルジュが駆け込んでくる。もうすっかり治ったらしい包帯の取れた腕をぶんぶん振り回しながら、彼は医務室のカーテンの向こうをのぞきこんだ。

 窓辺に座る男——ベッドから起き上がったフェルナンドが白い包帯を巻いた肩を露にしたまま、ぼんやりと遠くの空を眺めていた。

「……あ」

 ジョルジュの口から声にならない声が漏れた。目の前にいるのは何もかもを混乱に陥れた張本人であり、それでも彼がずっと願ってやまなかった男の姿だった。

「あああああああお前!!!」

 フェルナンドはふと振り返り、ジョルジュの顔を見ると唇の端をわずかに持ち上げた。

「ようやくまともな顔を見られた気がするね、ジョルジュ君」

 ジョルジュの表情が一気に崩れた。怒りではない。戸惑いでもない。ただただ、喜びに満ちた顔だった。

「っ、バカ野郎が……! よく……! よく生きててくれた!」

 彼は衝動的に駆け寄り、フェルナンドを力いっぱい抱きしめた。

「うっ、ちょっと! それ、まだ……!」

 フェルナンドが顔をしかめる。両肩に負った傷は完治しきっておらず、無理に動かせば痛む。しかしジョルジュは離さなかった。

「悪かったな! でも離さねぇぞ……! お前が帰ってきたって、それだけで十分すぎる……!」

 ぎゅっと目をつむって、ジョルジュは震える声で言った。その言葉には怒りも、恐怖も、恨みもなかった。ただ命がつながっていたことへの純粋な安堵だけがあった。少ししてジョルジュの抱擁からようやく解放されたフェルナンドが肩を押さえながら言った。

「……君は……なぜそんな顔をするんだい?」

「え……?」

「君、ボクのことを……憎んでると思ってた。あの時、君の腕を傷つけたのは……ボクなのに」

 その声はかすかに震えていた。まるで他人の優しさを信じることに、怯えているかのように。だがジョルジュは笑った。

「あれか? まあ正直、めちゃくちゃ痛かったよ? 腕動かすたびに泣いたし、夜中に『くっそー』って枕殴ったりしたよ」

「……ふふ」

「でもお前が今ここで生きてるなら、それでチャラだろ? ほら、こういうのは持ちつ持たれつってやつだ。たぶん」

「変わった子だね、君……」

 やがてフェルナンドの唇に微かな笑みが浮かぶ。それはまだ不安定で、どこか演技のようでもあったけれど——その目は、確かに揺らいでいた。ほんの少しずつ、心が溶けていくように。

「……君は、いい友を持ったよ。ボクも」

 二人の間にしばしの沈黙が流れた。だが、それは重苦しいものではなかった。戦場で生き残った者たちにしかわからない、何かしらの絆がそこには確かにあった。

 ジョルジュは一歩下がり、フェルナンドを見上げるようにして言った。

「お前が帰ってきたってことは……きっと、またろくでもない騒ぎが起きる前兆なんだろうけどさ。いいぜ、また振り回されてやるよ」

「光栄だな。じゃあ、また迷惑をかけるよ、ジョルジュ君」

 二人はふっと笑い合った。医務室の窓の外では海からの風が草木を撫で、遠くで訓練のかけ声が微かに響いていた。嵐の前の、短い静けさ。そんな空気がそこにはあった。

 ジョルジュはふと何かを思い出したように指を立てた。

「……ああ、それからさ。お前、一番感謝しなきゃいけない相手がいるんだぞ?」

 フェルナンドが小さく首を傾げると、ジョルジュは言葉を続ける。

「ソフィーだよ。あいつ、お前をただの負傷兵として診るって言って、上官の反対押し切って手術に踏み切ったんだ。……誰よりも、あいつが一番お前を見捨てなかった」

 フェルナンドの瞳がわずかに揺れた。

「いま彼女は外出中で、すぐには会えないけど……会ったらちゃんとお礼言えよ。マジで命の恩人だからな」

 そう言いながらジョルジュは軽く笑ってみせたが、フェルナンドはすぐには言葉を返さなかった。窓の外に目を向けると、遠くの入江に浮かぶ帆船が陽光を反射していた。そのきらめきをじっと見つめたまま、彼はゆっくりと口を開いた。

「……演じることが癖になってたんだ。気づけば誰に対しても仮面をかぶって、本心を遠ざけるのが“普通”になってた。でも……」

 彼はそっと、包帯が巻かれた胸元に手を当てた。

「命を拾ってまで、まだ誰かに嘘をついて生きるのかって……ずっと考えてた。たぶん、ボクはもうやめるよ」

 振り返ったフェルナンドの眼差しには、嘘偽りのない静かな決意が宿っていた。

「ソフィー嬢には……ちゃんとボクの言葉で礼を言う。演技抜きでね」

「……ほぉ〜、それは楽しみだな!」

 ジョルジュはからかうように笑ってみせたが、胸の奥にはかすかな安堵があった。

 もう一度、海から風が吹き込んでカーテンを揺らした。

 それは、フェルナンドという男が何かを脱ぎ捨てるような——そんな瞬間だった。


「……んで、なんであいつも同じテーブルで食ってるんだ?」

 ぶっきらぼうに呟いたサミュエルの言葉が、スプーンを口に運んでいたロザリーの手を止めさせた。

 ここは宿舎の食堂。マクシム隊の面々が思い思いに席を取り、夕餉を囲んでいた。食堂の空気は穏やかで、笑い声や食器の音が飛び交っている。

 そんな中、確かに少しだけ異質な光景があった。

 長テーブルの端。そこにはジョルジュとメリッサ、そしてつい先ほどまで意識不明だったはずの銀の猫、フェルナンドが肩を並べて座っていた。皿の上にはスープと焼いた白身魚、パンが乗っており、フェルナンドはそれらを優雅に口に運んでいた。まるで何年も前からそこに居場所があるかのように。

「しかもあれ、めちゃくちゃ馴染んでない?」

 ロザリーがサミュエルに小声で囁く。

「だろ。あいつ、僕らより先にパン取ってたんだぞ。おかしくないか?」

 サミュエルはふてくされたようにグラタンをつついた。

 ロザリーの視線の先では、ジョルジュが何かを話していてメリッサがそれに頷いていた。

 フェルナンドは控えめに笑いながら穏やかに相槌を打っている。まるで旧知の仲のような空気。だがその優雅な仕草や気品ある立ち居振る舞いが、逆にどこかこの空間から浮いているようにも見える。

「……まあ、ジョルジュが一緒のテーブルにいるってことは、もう許したってことなんじゃない?」

 ロザリーはそう言って匙を口に運んだ。サミュエルは答えず、ただじっとフェルナンドを見つめた。

 あの場違いなほど整った顔立ち。どこか人の懐にするりと入り込む話しぶり。

 だが一番気に食わないのは、あの目だ。

 何かを隠してるようで、隠してないようで。すべて見透かしたようで、何も語らない。

「……あの猫みたいな野郎、まさかここで飼うつもりじゃないだろうな」

 呟くようにそう漏らしたサミュエルの声は、誰にも届かないようにスープの湯気に溶けて消えた。

「……僕たちもご一緒して良いですね?」

 声がした瞬間、長テーブルの一同がわずかに息を呑んだ。ふと見上げるとマクシムが静かに立っていた。その隣にはグウェナエル。メリッサの手が小さく動いてグラスの位置を直す。

「ずいぶんと楽しそうじゃないか」

 グウェナエルが笑みを浮かべながらメリッサの横に腰を下ろす。さらにマクシムはグウェナエルの隣に座った。対面にフェルナンド。初対面ではない。だが、これが初めての同じテーブル。

「光栄です。まさかボクなんかのために、貴重な座を譲っていただけるとは」

 フェルナンドはパンを千切りながら優雅にそう言った。その言葉に刺はない。だが、まるでそれ自体が仮面のようだった。

「譲ったんじゃなくて、勝手に座ったんでしょ」

 メリッサが皮肉を口にするとフェルナンドは笑った。

「いやいや、ジョルジュ君のご厚意に甘えただけですよ。何せ、目覚めた直後でまだ居場所もわからない身ですから」

「……フェルナンド」

 マクシムが静かに名前を呼ぶ。その声音には探るような優しさがあった。

「ええ、隊長殿。ご無沙汰しています。こうして正面からお目にかかるのは、これが初めてですかね」

「そうかもしれない。ただ、君の噂は前から耳にしていたよ」

 マクシムの言葉に、フェルナンドは「まあ」と肩を竦めた。

「いい噂であることを祈ります。何せボクという人間は、見た目よりやや評判が先走るようで」

「たしかに。見た目は……想像以上に優雅ですね」

 マクシムの返しにジョルジュが「だろ?」と笑って加勢する。

「でもその一方で、部下を一人戦場で血まみれにした戦犯でもあるんだけどな」

 グウェナエルの声が冷たい笑顔と共に落ちてきた。場が一瞬だけ静まる。だがフェルナンドは怯まない。

「そのことに関してはボクも何もいえませんね。むしろ、ジョルジュ君には申し訳なかったと内省してます」

 グウェナエルがじっとフェルナンドを見た。その視線を受けながらも、銀の猫は泰然としていた。

「……ま、まあ、ボクのケガはいいんですよ、治ったし。それに、フェルナンドの方が重症でしたよ。そのフェルナンドを、ソフィーが手術して助けたんだけどね」

 ジョルジュが声を振るわせながらも早口を挟むと、メリッサが頷いた。

「そうそう。あんた、ちゃんとお礼言ったの? ソフィーさん、あれでも結構命懸けだったんだから」

 フェルナンドはわずかに目を細めた。窓の外の夜空に目をやって、静かに言った。

「……彼女には直接伝えるつもりです。ちゃんと、自分の言葉で」

「言葉だけで済ませられることじゃないわよ?」

 メリッサがきつめに返すと、フェルナンドは片手を挙げて降参の仕草をした。

「もちろん。彼女は恩人ですから。演技をするつもりもありませんし、もう“そういう自分”を演じるのにも疲れましたからね」

 それは言葉のはずだったが、どこか遺言にも似た、静かな告白だった。

「……なら、せいぜい真面目に働いてもらわないと」

 グウェナエルがパンを噛みちぎりながら言う。

「ええ。掃除でも皿洗いでも、何でも」

 フェルナンドはこともなげに笑った。そのやり取りをマクシムは黙って見ていた。

 フェルナンドが本当に「演技をやめた」のか、それともまた新しい仮面を纏ったのか。

 それを見極めるには、もう少し時間が必要だった。だが少なくとも、今日のこの席には彼がここに居るという事実だけが確かに置かれていた。

「フェルナンドさん」

 マクシムは食後のナイフを静かに置いて、真正面の男をまっすぐに見た。

「あなたが目覚めたことは、司令部には既に報告済みです」

 声は穏やかだが、その内に冷えた鉄があった。

「あなたが長い距離を歩けるようになったら、尋問と調査の日々が始まります。……気を強く持ってくださいね。下手なことを言えば、トゥーロン行きです」

 テーブルの空気が一瞬で変わった。

 ジョルジュが口をつぐみ、メリッサはグラスを握る手に力を込める。グウェナエルは目を伏せたまま。

 ナイフの刃先を皿に軽く当てたフェルナンドは、ふと目を細めた。だが動揺の色は見せない。ただゆっくりと背凭れに寄りかかり、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「ご忠告、痛み入ります。……あいにく、下手なことを言う趣味は持ち合わせていないのでご安心を」

 紅茶のように穏やかに、けれど明らかに「一枚上」の口ぶりだった。

「あなたが敵か味方か、それを判断するのは僕じゃありません。ただ……」

 マクシムが言葉を切る。声に、わずかな熱が灯る。

「この隊の名誉を汚すような真似だけは、許すつもりはありません。たとえ命の恩人になったとしても、です」

「……ほぉ」

 フェルナンドの目が細くなる。まるで、珍しいワインの味を確かめるように。

「あなたが隊を大切にしているのは、よくわかりました。誠実で、凛々しくて、何より……怖い」

 最後の言葉だけ、少し楽しげに言った。

「でも、名誉を守るのなら、僕に聞くよりも先にあなたの上の方々を信じすぎないことです。誰が味方で、誰が裏切るかなんて歴史を読めば一目瞭然でしょう?」

「……だからお前は、何をしても赦されるとでも?」

 グウェナエルが低く口を挟んだ。その目には静かな怒りが宿っていた。フェルナンドは目線だけをそちらに向け、わずかに首を横に振る。

「赦されるとは思っていません。ただ……誤解されて罰せられるくらいなら、真実を抱えたまま死んだ方がマシだと思っているだけですよ」

 その瞬間、マクシムの眉がわずかに動いた。フェルナンドの言葉には芝居じみた飾りがなかった。ほんの一瞬、仮面が剥がれたようにも思えた。

「……だったら、真実を証明する覚悟も持ってください。君が何者で、何を守ろうとしたのか。自分の口で語るんです」

 マクシムがそう告げると、フェルナンドは短く笑った。

「ええ、そうしましょう。せっかく助けていただいた命ですからね。……命が尽きる前に、きちんと帳尻を合わせるとしましょう」

 その言葉のあと、しばらく沈黙が落ちた。メリッサがグラスの水を口に含み、グウェナエルは無言のままナイフでパンの欠片を細かく崩していた。やがて、ジョルジュが気まずそうに咳払いする。

「……えっと、まあ。とりあえず今夜は、食後のデザートでもいきます?」

「隊の名誉を守るのに、甘いものも必要か」

 グウェナエルが呟くと、珍しくジョルジュが真面目に頷いた。マクシムはその様子を見て、ふっと口元だけで笑った。

「じゃあ、今夜だけは静かに済ませましょうか。……明日からが、本番ですから」

 そうして再び夕餉の席は、穏やかな空気に戻っていった。だが、フェルナンドの影は薄くならない。むしろ彼が口を閉ざすほどに、そこに在る存在感は際立っていた。

 それは、嘘の上に立つ静寂——あるいは、嵐の前触れのようでもあった。

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