第五章② リラとダヴィット
リラの執務室の扉が重たく軋む音を立てて開かれた。
ダヴィットが無言のまま部屋に入り、足音も抑えずリラの机の前に立った。
「話がある」
整然と並べられていた書類に手を伸ばしていたリラが一瞬だけ眉をひそめる。
「手短にお願い」
「そうはいかない」
ダヴィットは静かに言ったが、その声には苛立ちと焦りが滲んでいた。
「今日こそ話してもらおう。隊長の計画について」
リラは手を止め、机越しに彼を見上げる。しばしの沈黙ののち、かすかに息を吐いて応じた。
「……まだ言えない。けど、近いうちに話す。だから、それまで待ってて」
「姉さん……」
ダヴィットは視線をそらし、壁の一点を見つめる。まるで言葉を絞り出すように。
「覚えてるかい。俺が育ったあの港町のこと」
リラの指が机の上のペンからわずかに離れた。声には出さないが、彼の過去を察したのだ。
「海賊が来た夜のことだ。奴らは、一晩かけて暴れ回った。家は燃え、叫び声と銃声で夜が裂かれた。俺たち家族は、燃えさかる建物の間を逃げ惑った」
ダヴィットの声は静かだった。怒りでも涙でもなく、ただそこに在った真実のように語られる。
「気づいたら俺は気を失ってた。目が覚めた時には、海賊はもうどこにもいなかった。煙の匂いと焼けた木の匂いだけが残ってて……俺は、家族を探した」
彼は笑おうとして、うまくいかず、唇の端が微かに引きつった。
「けど、どの遺体が父で、どれが母かも分からなかった。みんな、顔が分からないほど酷くて……もう、人間の形さえ残ってなかった。兄か妹かも分からない。名前を呼んでも、誰も答えなかった」
リラは黙っていた。ただ、まっすぐ彼を見つめる目だけが、揺らがずそこにあった。
「食べ物を探しながら泣いて、泣きながら歩き回って、それでも目の前にあったのは、冷たくなった人たちだけだった。……その中で、生きていた俺を見つけてくれたのが姉さんだった」
懐かしさの中に、怒りと哀しみが入り混じる声音。
「貴族の娘が軍人の父親と町の様子を見に来て、たった一人生き残っていた俺に、手を差し伸べてくれた」
リラは目を伏せ、苦しげに唇を噛んだ。
「だからこそ、信じてきたんだ。姉さんの正しさを。けど——」
ダヴィットは静かに、問いを重ねた。
「隊長は、本当に正しいのか?」
リラの声が震えながら答える。
「……ダヴィット。海賊が憎くて海軍員になったあなたが、受け止めるには……辛すぎるかもしれないの」
「姉さんが隊長を慕ってるのは分かってる。そこに、俺でも踏み込めない何かがあることも……理解してるつもりだ」
「違う。あなたには分からない。あの人は、私を、私たちを救ってくれた……」
「——セルティック・シェルフ漂流事件、だろう?」
その名を聞いた瞬間、リラの背筋がぴんと伸びた。
「士官候補生の海上実習中に、突然嵐が来て消息を絶って、でも奇跡的に生還を果たした、あの漂流事故。姉さんと、士官候補生だったマクシムたちが巻き込まれた。グウェナエル、シャルル、ベルナルドも一緒だったな」
リラは頷き、遠くを見るような瞳で呟く。
「あの悪天候の中、みんなが絶望していた。救助も来ない、船は傾き、水は冷たく、死が近づいていた。でも、あの人だけは違った。あの人の声だけは嵐を突き破って、私たちに届いた」
静寂の中に、かすかに若き日の声が蘇る。
——僕は、ここで死ぬわけにはいかない! 救える命を救って、生き延びてみせる!
ダヴィットは目を細め、言った。
「あの事故以来、マクシムは部隊長に任命された。……マクシミリアン・ブーケ隊が生まれる、きっかけとなった事故だな」
リラは何も返さなかった。ただ、過去の記憶を噛み締めるように黙していた。やがてダヴィットは少し口元を歪めて笑う。
「ここまで話が出ても、まだ肝心な部分は話してくれないんだな。……いいさ。姉さんがそういうなら、俺は待つ」
くるりと背を向けて執務室を出て行こうとする彼に、リラは小さく、しかしはっきりと呟いた。
「……ごめんなさい、ダヴィット。今は、隊長以外に誰を信じていいのか分からないの」
扉が閉まる。残されたリラは誰にも見せない表情で天井を見つめた。
胸の内で渦巻くものは、希望か、絶望か。それすら自分で分からないままに。




