第五章① ソフィー
三日間かけて、ソフィーはヴール・レ・ロズへとたどり着いた。
かつて少女時代を過ごしたその村は記憶よりも小さく、そして静かだった。
懐かしさよりもどこか他人のように感じるのは時のせいだろうか。
あるいは、あの頃と違う眼でこの地を見ている、自分自身の変化なのかもしれない。
ソフィーは真っ直ぐに丘の上の孤児院を目指した。しかし、そこにあったはずの建物はすでに取り壊されていた。瓦礫の残る空き地には草が生い茂り、面影すら残っていない。
ソフィーが驚きとともに村の人々に尋ねると、「数年前に別の場所へ移った」とあっさり返された。
けれども、誰もその移転先を知らないという。関心を持つ者がもう誰もいない、ということなのか。
ついでに尋ねた「この村に昔、貴族がいたかどうか」についても、返ってきたのは曖昧な首の傾げだけだった。
記憶を辿る旅のはずが、すでにそこには記録も証言も残されていない。
ソフィーは思った。ならば、自分で探すしかないのだと。
ソフィーは村のはずれを歩いていた。地図も標もない。頼りになるのは、自分の記憶だけだった。
子どもだった頃、ラウルという名の少年と手を取り合って走った草むら、柵を越えてこっそり遊んだ林の小道、ラウルの母の目を盗んで二人で隠れた、石垣の裏の秘密基地。
もう風化しているはずなのに、どういうわけか身体は迷わなかった。
心の奥底に刻まれた微かな痕跡をたどるように、足は自然とひとつの方向へと向かっていた。
……一人の少年が、道の先を歩いている。ふと視界の端にそんな幻が見えた気がした。黒いコートの裾を翻しながら、草を踏んで振り向きもせずに駆けていく。
「……ラウル?」
呟いた名に返事はなく、風が吹き抜けるばかりだった。木々の隙間から、なにかがこちらを見ているような錯覚。遠くで鳥が鳴くたびに、心臓が一瞬止まりそうになる。
かつてこの先にあったはずの屋敷が、今もそのまま残っている保証はどこにもない。だが、それでも確かに何かが在ると足元の空気が告げていた。
屋敷が近づくにつれて空気は濃く、冷たく、重くなる。まるで土の下から誰かが息をしているように沈黙が脈打っている。足音がひとつずつ、草の上に吸い込まれていく。
風に混じって、遠くから誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
それが「ソフィー」だったのか、それとも「ラウル」だったのか。
彼女にはもう判別がつかなかった。
ソフィーは風の中でふと足を止めた。
もう十年以上、会っていない。
あの少年に、もしも今、会えるとしたら。私は、まずなんて言えばいいのだろう。
「ただいま」か、「はじめまして」か。それとも、「おぼえてる?」とでも。
指先がそっと胸元に触れる。
銀の龍と蛇が絡み合う、小さな銀細工。アクアマリンの雫が、その中心で静かに光っていた。
それは約束の印。かつてラウルがくれたもの。
「空と海が交わる場所を目指したい」
彼は、まだその夢を追いかけているのだろうか。
ネックレスは静かに、彼女の心音とともに揺れていた。
まるで、通行証のように。かつての時間へと、彼の現在へと——彼女を導く、ひとすじの鍵のように。
屋敷は確かにそこにあった。
記憶の中に浮かぶそれとは、ずいぶん違っていた。
沿岸の崖の上、潮風にさらされるようにして建っていたその屋敷はどこか歪んで見えた。石造りの壁は風雨に削られ、屋根は半ば崩れかけ、かつて瀟洒だったであろう鉄の門扉は片側だけが開きかけて、まるで、何かが通った痕跡のように不自然に軋んでいた。
それでも間違いない。あれは、ラウルの家だ。
記憶の中で、幾度となく夢に見たあの屋敷。
春の草原を駆け抜け、振り返ったあの少年が笑いながら「ついてきて」と手招きした、あの場所。だが今は、あまりにも静かすぎた。
ソフィーは喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。風が屋敷の壁を撫でていく音だけが耳に残る。
目の前の屋敷が、じわじわと何かを孕んでいるような、生き物のような気配すら覚える。
……嫌な予感がした。
すぐさま彼女は扉の前に立った。手を伸ばして、重く朽ちかけた扉をノックする。
一回、二回、三回——音だけが空しく木に吸い込まれていく。返事はない。中からの物音も、誰の気配も、何も。ためらいながらも、彼女は扉に手をかけた。
……開いた。鍵はかかっていなかった。きぃ……と、か細い音を立てて開く扉の向こうから、濁った空気が流れ出した。どこか湿っていて、鉄と古い布と、……何か得体の知れないものの匂いが混じっていた。
昼の光が差し込む玄関の床には、暗い赤褐色のシミがあった。そして、それは玄関だけではなかった。光が届く範囲の壁、床、柱の陰……あちこちに、色褪せた赤い斑点のようなものが広がるように散っていた。
それらは、乾いていた。触れなくてもわかる。おそらく年季が入っているけれど、それが何かを物語っていた。
ソフィーの心臓が喉のすぐ下で鈍く脈打つ。吐き気にも似た眩暈が、頭の奥をゆっくりと撫でていく。
彼女は立ち尽くした。一歩、足を踏み入れようとした足が、床の上で凍りつく。空き家にしては、空気が重すぎる。ただの廃墟にしては、何かが違う。
記憶の中の「家」はここにはない。あるのは別の、もっと沈んだ、もっと深く沈んでしまったものの気配。風の音が、急に止んだ。屋敷全体が、呼吸をひそめたように静まる。
ソフィーは自分の吐いた息の音すら怖かった。一歩、足を踏み入れると床がぎしりと軋んだ。古びた木のきしむ音。まるで誰かの呻き声のようにも聞こえた。
玄関を抜けると冷たい空気が肌を撫でた。ひどく湿っている。何十年も陽の光を拒んできたような空間。カビと、埃と、酸化した鉄の匂いが鼻腔にまとわりつき、ソフィーは思わず口元を手で覆った。
視界の先、階段の途中にまで赤黒い染みが続いていた。それは飛び散るように、引きずるように、階段の段差を這い、壁に、床に、点々と、不規則に、記憶の模様の上から刻まれていた。
廊下の壁には古びた絵画がかかっていた。顔の部分だけ、削られたように消えている。ひっかいたような爪の跡が額縁にも残り、何度も何度も、狂ったように繰り返された痕跡だった。
「……ここで……なにが、あったの……?」
自分の声があまりに小さく、あまりに頼りなかった。それでも空気がそれを飲み込み、どこからも返事はない。窓の隙間から差し込む光が、床の上に一本の線を作っていた。その線に沿って、何かが引きずられた痕がある。重いもの。——たとえば、人の身体。
静寂だった。あまりにも静かすぎた。廊下に漂う、あの血のにおいは確かに鼻についた。けれど、それ以上に恐ろしいのは、何も起きないことだった。
死体はない。叫び声もない。生きた気配どころか、死の痕跡すら生々しすぎてもう何も感じられない。
生と死の境界が、とうの昔に風化していた。
ソフィーは進むたびに記憶と現実の区別が曖昧になるのを感じた。振り返れば、階段の隅に黒髪の少年の影。目をこすれば、そこには誰もいない。
——幻だ。ラウルの残像。分かってる。けど。
その足元、床板の隙間から染み出す赤茶けた液体が、まるで息をしているように見えた。壁には血文字ともつかぬ何かの手形。食堂のテーブルはひっくり返り、椅子は刃物で裂かれ、家具のほとんどは壊されていた。まるで誰かがこの屋敷に地獄を再現したかのように。
「おかしい。これは、ただの……ただの廃屋じゃない」
脈が跳ねる。喉が焼けつく。視界の隅で肖像画の誰かが動いた気がして、ソフィーは息を呑んだ。心臓が何かに見つかったような鼓動を打つ。居間の奥、扉の隙間。そこから目が、こちらを見ている気がした。
ソフィーは反射的に後退り、肩で息をしながら玄関に向かって駆け出した。足元の絨毯が絡まり、転びかける。血の染みに手をつき、悲鳴を飲み込んだ。壁が近づく。誰かの息づかいが背後にある気がする。
逃げろ。逃げろ。ここにいてはならない。これは、記憶の屋敷ではない。
ソフィーは玄関扉を乱暴に押し開け、光の奔流に包まれるように外へ飛び出した。昼の日差しがやけにまぶしく、屋敷の影が背後に伸びる。
扉が閉じた音がした、誰もいないはずの屋敷で。振り返らず彼女は崖道を下り、馬が繋いである場所を見つけ、一気に走った。目の端に、あの幻の少年の背中がまた見えた気がした。まるで「逃げろ」と言っているようだった。呼吸は浅く、手は震え、ネックレスの銀の龍と蛇がひどく冷たかった。ソフィーは無言で馬車に飛び乗った。
「……ブレストまで、急いで」
震える声でそれだけ告げ、馬車は砂煙を巻き上げて崖の道を駆け下っていく。
背後に残された屋敷は再び静寂に沈み、その扉の隙間だけがひっそりと誰かの帰りを待っているかのようだった。




