第四章⑤ ソフィーと叔父夫婦
「まず、駆け落ちした後についてだな。姉が再び戻ってきたのは一人目を産んで間もない頃だった」
ジャンは低い声で語り始めた。
「当然ながら、私たちの父は激怒した。その時に姉は一族から正式に追放されたよ。貴族の名を汚す行為だったし、昔から奔放な性格だった姉に……正直、私も呆れを通り越して怒りを感じていたくらいだ」
ソフィーは息を潜めた。
ジャンの声の奥にあるものが、ただの怒りや義憤でないとすぐに分かった。
「そして……そこから二年ほど経った頃か。ある晩、姉がふいに屋敷に現れたんだ。……かつての姿とはまるで別人のようにやつれ、痩せ細っていた」
その場の空気が、ゆっくりと冷たくなっていく。ジャンは言葉を選ぶように唇を噛み、目を伏せた。
「そのとき、姉はまた妊娠していた。しかも、駆け落ちした恋人とは別の子を身籠っていた。事情は何も話してはくれなかった。だが一つだけ、『頼れるのは、もうあなたたちしかいない』と」
静かに、クラリスがその手を組んだ。夫の言葉を黙って支えるように。
「だが、父はすでに他界していた。私はすでにルノアール家を継ぎ、社交界でもそれなりの立場を築きつつあった。そんな中で、姉の出戻りと、しかも再び婚外の妊娠など——我々夫婦にとっては、恐ろしい火種に思えた」
ソフィーの中で何かが静かに沈んでいく。
ジャンは言い淀むように、自嘲気味に続けた。
「……私たちは、馬車と生活費の手配だけをして姉を追い出した。あの時、私たちはただ……この家の名誉を守ることだけしか考えられなかった」
膝の上で、ジャンの拳がかすかに震えた。
「でも……今でも思う。あれは、本当に酷いことだった。あのとき、姉は私たちを頼ってきてくれた。家族として、最後の縁にすがってきたのに、私たちはその手をはねのけてしまった」
静寂が落ちた。ソフィーは何も言わず、ただ目の前の真実を受け止めていた。
その時、自分はその姉が宿していた子供なのだと、ほとんど確信めいたものがソフィーの中に芽生え始めていた。ジャンの口元がほんのわずかに動いた。まるで、長年胸の内で腐らせてきた真実をついに口に出す決意の表れだった。
「……それからまた、数年の月日が経った」
彼は低く静かな口調で続ける。
「ある日、ヴール・レ・ロズの孤児院から一通の手紙が届いた。『ある子どもと母親のことでお話があります』と。私はちょうど、海軍任務でパリとブレストを行き来していた。何かが胸に引っかかって、私は激務の合間を縫ってブレストからヴール・レ・ロズへ向かった」
ソフィーは無意識に息を呑んだ。ジャンの話すその場所が、自分が育ったあの緑と花の町であることを思い出しながら。
「話を聞いたんだ。——それは、六年前。まだ雪が残る春の日だったという。孤児院の玄関前に、赤ん坊が籠に入れられていたそうだ。その傍らに、一通の手紙が添えられていた。……母親が書いたと思われる手紙だった」
クラリスがそっと視線を落とす。それは、長年夫婦で抱えてきた秘密に触れる時の仕草だった。
「その手紙には、こう書かれていた。『私の子供が男だったら、お役に立ててください』……そして、この屋敷の住所が書かれていた」
ソフィーの瞳が揺れた。
「……えっ、それって……」
「おかしいだろう?」
ジャンが、かすかに眉を寄せて言った。
「子どもが男か女かなんて、産まれた時点で分かるはずだ。だが……たぶん、姉は『男だったらこの子を一族に戻す』という前提で、出産前にその手紙を書いたんだろう。……そして現実は、女の子だった。つまり——君だった」
言葉が急速に冷たく鋭く、どこか悔恨を帯びながら落ちてくる。
「姉は……たぶん、絶望したんだ。支えもなく、頼れる者もなく、かといって娘を育てる術も、勇気もなかった。そんな精神状態だったんだと思う。まともな判断力ではなかった。……でも、残酷なことだ。君を手放したあの瞬間、姉は——自分を、母親であることすら捨てたんだ」
ソフィーは何も言えなかった。自分のルーツがそんな風にして形作られていたという事実に呆然としていた。沈黙が、しばし部屋を包んだ。だが、やがてソフィーが低く硬い声で問いかける。
「私を引き取った理由と、男装させたこと……それがどう繋がるの?」
ソフィーの問いには責める色はなかった。ただ、知りたいという意思があった。
「……贖罪だよ」
ジャンはその視線から逃げず、静かに頷く。
「私はすぐにクラリスに話した。姉の子が、ヴール・レ・ロズにいたと。姉は……行方知れずだが、恐らくこの世を去ったと思われる」
クラリスは何も言わず、ただ膝の上で指を組んだまま俯いていた。
「私たちは決めたんだ。引き取ろうと。姉への……私たちなりの贖罪だった。何も知らないまま姉を失い、何もできなかった罪滅ぼしとして、君をルノアール家に迎え入れる。それが、せめてもの償いだと思った」
ジャンの口調は変わらない。静かだが、にじむ後悔は深い。
「そして、手紙の一文が引っかかっていた。『私の子が男だったら、お役に立ててください』……と。きっと姉は、男子であることを条件に我が家へ託すつもりだった。だから……私たちは、少しでもその遺志に添おうとした。君に、男装をさせたんだ」
クラリスがそっとソフィーを見つめる。
「……あの時、あなたはまだ六歳だった。事情を分からぬまま髪を短くされ、少年の衣を着せられて……私たちはそれが、愚かにも最善だと信じていたのよ」
ジャンの声が震える。
「だが、それは違った。結果的に私たちの勝手な都合が君を縛り、苦しめてしまった。君の人生を——君自身を、否定するようなことをしてしまった」
「……」
「本当にすまなかった、ソフィー。君にも……そして姉にも、謝りたい。私たちの愚かさを、許してくれとは言わない。ただ……」
そこで言葉は途切れた。ジャンの硬い表情の奥に、初めて見せるような痛みがあった。
ソフィーは何も言わず、その姿を見つめていた。
胸の内に生じた感情は、怒りでも安堵でもなく。ただ、言葉にできないほど複雑な裂けた記憶と哀しみの色だった。
長い話だった。だが、ソフィーはジャンの言葉の端々に嘘がないことを感じ取っていた。
ジャンの告白に、怒りや憎しみが湧いたわけではなかった。
むしろ、ようやく謎が繋がったという静かな納得があった。
「……叔父さんたちの事情は、よくわかりました」
低い声ではっきりとソフィーは言った。
「私を男の子として育てた理由も、引き取ってくれた経緯も……今では、咎めるつもりはありません。それ以上に、育ててくれたことに感謝しています」
ジャンとクラリスの目がわずかに潤む。だが、ソフィーの声はそこから一転して鋭くなった。
「……ただ、ひとつだけ納得できないことがあります」
ジャンが顔を上げた。クラリスの指がわずかに震えた。
「ルノアール家の長女——私の母には、最初に『別の男性との間にできた子供』がいたんですよね?……その子は、どうなったんですか?」
室内の空気が、はっきりと変わった。
ジャンは一瞬だけ黙り込んだ。だが、やがて観念したように口を開く。
「そうだったな。そこが残っていた」
「……?」
「姉が追放された日。私が引き取って育てていたよ」
「…………え?」
「だが、ある日……行方不明になった」
ソフィーの目が見開かれた。
「……なんですって?」
思わず椅子から立ち上がっていた。血の気が引いたように、全身が冷たくなっていく。
ジャンはその反応を見ても、ただ静かに頷いた。
「今から十九年前。君を引き取るためヴール・レ・ロズに滞在していた。私とクラリス、そしてその子も一緒だった。当時、七つか八つだったかな。君とちゃんと対面したと記憶しているが、覚えていないのか?」
ソフィーは、言葉を失った。
十九年前の記憶など、おぼろげだ。だが、そんな子どもと会った覚えなど……いや、本当に、なかっただろうか。
「その子は、滞在中に突然いなくなった」
「……!」
「家出かと思ったが、痕跡はなかった。森も港も探した。警備隊も雇った。だが、見つからなかった」
ジャンの顔には、今なお拭えぬ痛みが刻まれていた。クラリスは唇を噛み、膝の上で手を握りしめていた。
「私たちは君を迎えた。……だが同時に、最初の子を失った」
そう語るジャンの声には決して作り物ではない悲哀が滲んでいた。けれど、ソフィーの胸の奥にはそれとは別の、理屈では言い表せない違和感が広がっていた。
「……その子は、私の……?」
ソフィーはゆっくりと問いかけた。声は震えていた。心の奥底に沈められていた何かが、じわりと水面に浮かび上がってくる。
「そうだ」
ジャンははっきりと頷いた。
「ソフィーの兄だよ。——同じ母親の、血の繋がりがある兄だ」
ソフィーは息を呑んだ。胸の奥に、ひとつ重い石が落ちていくのが分かった。
「名前は……?」
「アントワーヌ」
ジャンは、遠い記憶を手繰るように、丁寧に言葉を置いた。
「アントワーヌ・ルノアール」
「……」
「姉がその名を選んだ。彼女の大切な思い出から取った名前だ。……私も、よく覚えている。聡明で少し気難しいところもあったが、いい子だった」
その言葉を聞いても、ソフィーの脳裏には具体的な顔や声は浮かばなかった。けれど名前だけが、胸の奥に深く刺さったまま動かなかった。
「アントワーヌ……」
呟いたその瞬間、どこか、遠い記憶の底で小さな火花が散ったような気がした。
「——あっ!」
ソフィーは突然、思い出したように声を上げた。
「私が男装していた頃に名乗らされた名前……あれ、『アントワーヌ』だった!」
ジャンはゆっくりと頷いた。
「そうだ。ルノアール家には今、正式な嫡男がいない。血筋としては君が直系に最も近いが、女性だ。……だから、本来ならアントワーヌ本人が家を継ぐべきだった」
彼は言葉を切り、少しうつむいてから続けた。
「だからこそ、せめてもの代わりに君をアントワーヌとして育てようとした。名だけでも、家名の延命になると考えた。先ほど話した、贖罪も共に抱えてな。だが結局は……そのことで君を苦しめることになってしまった。本当に申し訳なかった」
「でも、そういうこと最初から話してくれてもよかったのに……」
ソフィーの声は少しだけ、寂しげだった。
「……ただでさえ塞ぎ込んでいた君に?」
ジャンは目を伏せ、寂しそうに微笑んだ。
「真実を受け止めるには、あの頃の君には重すぎると思った。……全部、黙っていた。それがいいと思い込んでいた。まあ、一部は漏れたようだがね」
「うん……母の駆け落ちの話。あれは叔父さんたちの会話を盗み聞きした私が悪いの」
「いや、もういいさ。全ては私の責任だ」
そう言って、ジャンはソフィーの方を見つめた。まっすぐに。
「でもな、いずれはすべて明かさねばならないと、心には決めていた。……ソフィーが会いたいと手紙をくれた。それを見て、今なら話せると思ったんだ」
ソフィーは、静かに頷いた。
「……ありがとう、叔父さん。真実を話してくれて」
ジャンは何も言わず、ただ目を細めた。
事件が解決したわけではない。
母の行方も兄の失踪も、すべてが明らかになったわけではない。
けれど……今この瞬間、ソフィーは初めて家族と真正面から向き合えた気がしていた。
背を向けるだけだった過去が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
翌朝。穏やかな陽光が差し込む中、ソフィーは静かに荷をまとめて叔父とその妻に別れの言葉を告げた。
「では、私は新たな道へと向かいます。またいつの日か、この場所へ帰るでしょう」
ジャンは柔らかな微笑みを浮かべて答えた。
「ソフィーよ、もう束縛はない。自由に羽ばたきなさい、心のままに」
彼女は瞳を輝かせ、決意を込めて言葉を返す。
「ありがとう、叔父さん。私はもう自由の風を感じています。これからも、自らの意思で果てしなき旅路を歩み続けます」
叔父夫婦は玄関先で静かに見送った。
ソフィーは馬車の窓辺から二人に手を振り、その影がゆっくりと遠ざかっていった。
そして、彼女の視線は次の目的地。
ノルマンディーの花と海辺の村、ヴール・レ・ロズへと向けられた。




