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第四章④ ソフィー

 客間の扉の前に立ったクラリスはノックの手を一瞬ためらい、それから静かに叩いた。

「ジャン、ソフィーが来たわよ」

 中から低く、少し掠れた男の声が返る。

「……入ってくれ」

 クラリスがドアノブに手をかけ、そっと扉を開けると淡い陽が差し込む広々とした部屋が現れた。重厚な書棚と、古い地図の掛けられた壁。

 奥には深緑色の肘掛け椅子に腰かけた男——ジャン=バティスト・ド・ルノアールがいた。背筋を伸ばし、手元には開きかけの書簡と湯気の立つカップがあったが、視線はただ扉の方へと注がれている。その顔にはかつての威厳がまだ残っていたが、幾分やつれたようにも見えた。

 ソフィーの姿が見えるとジャンはまばたきをひとつし、それから静かに立ち上がった。

「……ソフィー」

 その名を、ジャンは息を吐くように呟いた。

 ソフィーは少し躊躇したが、歩を進める。懐かしい、そしてどこか遠くなった部屋。あの椅子の前で学問を教え込まれたこと。叱責された日々。胸の内に、いくつもの記憶が泡のように浮かんでは消えていく。

「お久しぶりです、叔父様。お元気そうで何よりです」

 ソフィーは努めて丁寧にそう言い、きちんと姿勢を正して礼をした。クラリスは静かに部屋を出て、扉を閉めた。

 ジャン=バティスト・ド・ルノアールはしばらく何も言わず、彼女を見つめていた。まるで、目の前の人物が幻ではないかと確かめるように。やがて、彼の顔がゆっくりと崩れていく。笑った——それも、若干ぎこちない、だが確かな笑みだった。

「……大きくなったな。いや……見違えたよ」

「それは、軍の訓練の賜物ということで」

「そうか。そうだな……そう、だな……」

 繰り返すようなその言葉のうちに、彼の喉がひときわ深く鳴る。

 その瞬間、ソフィーの視界にわずかな水の気配が映った。ジャンの目が潤んでいた。かつて一度も見たことのない、涙の気配。

「お前がいなくなったと聞かされたとき、私は……クラリスも、信じられなかった。いや、信じたくなかった。海軍の者が来て、『戦闘中に行方不明』などと……そんなことが、あるものかと……!」

 声が徐々に震えはじめていた。軍人としてはすでに引退して久しく、かつての厳格な口調は影を潜めていたが、そこにあるのは本物の感情だった。

 ソフィーは言葉を選びかけ、一歩、距離を詰めた。

「心配をかけてしまって、ごめんなさい。私も、戻れるかどうかは分かりませんでした。ですが……こうして帰ってこられて、よかったと思ってます」

 それを聞いたルノアールはようやく椅子の背に片手を添えながら息を吐いた。まるで積年の荷を下ろすような、長く重たい呼吸だった。

「……ありがとう。……ありがとう、ソフィー。お前が生きていてくれて、本当に良かった。……こうして、お前ともう一度会える日が来るなんて、私は……」

 途中で言葉が詰まった。

 ソフィーはそれを遮るでも、慰めるでもなく、静かにそこに立っていた。

 彼の涙を否定するつもりはなかった。すべてを許す気も、まだなかった。

 だが、ここに来てよかった。——そう思えるだけの、何かはあった。

「……もう、話したいことが山ほどあるが、食事の支度もしよう。お前の好物は、確か仔羊のローストだったか?」

「今も好きよ。でも、あまり期待しないで。海軍食で味覚が少し鈍ったかもしれないから」

 そんな軽口を返した瞬間、ようやく部屋の空気がわずかに緩んだ。

 二人の間に横たわる年月は確かに長かったが、今その沈黙は少しずつほぐれていく気配を見せていた。


 クラリス夫人の差配で準備された夕食は長旅の疲れを癒すには十分すぎるほど温かく、懐かしい香りに満ちていた。食卓にはかつてと変わらぬ銀食器と白磁の皿が並べられ、窓際の燭台に灯る蝋燭が控えめに明かりを添えている。静かだが、どこか迎え入れる者の誠意がにじむ場だった。

 ジャンは終始穏やかな表情を浮かべていたが、時折皿の向こうからソフィーの顔をじっと見つめることがあった。それは懐かしさだけではなく、何かを確かめようとするような内省の視線だった。食後のコーヒーが運ばれたとき、クラリスが席を立ち、静かに口を開いた。

「私は少し先に休ませてもらうわね。お二人とも、積もる話があるでしょうし」

「ありがとう、クラリス。……今夜は、少しだけ話をしたいと思ってる」

 ジャンがそう言うとクラリスは微笑み、ソフィーに軽く会釈して部屋を後にした。

 ソフィーは彼女の背を見送りつつもジャンの表情に微かな緊張が走ったのを見逃さなかった。静かになった食堂に、カップを置く音が小さく響いた。

「……お前に話しておきたいことがある、ソフィー。あの頃、私がなぜお前を男として扱い、身分を偽らせてまで海軍に押し込みたかったか。今になって言うのは、きっと卑怯だろう。それでも、話しておかねばならない。……私の罪でもあるからな」

 彼の声には、普段の穏やかな響きとは異なる重たく沈んだ響きがあった。

「二階にある書斎の奥、私とクラリスの部屋に来なさい。夕食のあと、少し落ち着いた頃でいい。……クラリスも同席する。彼女も、すべてを知っている」

 ソフィーは頷いた。言葉を返す必要はなかった。この家の人々がただ善意で彼女を迎えたわけではないことを薄々感じていた。そしてジャンのこの声音。かつて教本を開きながら彼が絶対に語らなかった「家族としての本音」が、ついに語られる時を迎えたことを告げていた。

 ジャンはゆっくりと立ち上がり、カップを持ったまま振り返る。

「部屋の扉は開けておく。お前が来られるなら、それでいい」

 そう言って、彼は食堂を後にした。静寂が戻った食卓に、ソフィーはひとり残された。

 ——扉は開けておく。

 その言葉が意味するのは、問い詰めでも命令でもなかった。選ばせる、という形を装いながら、それでも彼自身の真実に向き合う覚悟の言葉だった。

 ソフィーはゆっくりとカップに残ったコーヒーを飲み干し、その香りと温度を確かめるように目を閉じた。夜の帳が、パリの上に静かに降りていた。


 静まり返った屋敷の廊下を、ソフィーの足音だけが反響していた。子供の頃、ひとりで歩くのが怖かったこの廊下も、今は違う意味で胸をざわつかせる。二階の奥、書斎と寝室を兼ねたジャンの部屋の扉は、予告された通りに半ば開かれていた。ノックの代わりに軽く指先で戸を押すと、部屋の奥から温かな光と、クラリス夫人の柔らかな声が迎えた。

「入ってらっしゃい、ソフィー」

 部屋は書棚と古風な調度でまとめられ、ランプの灯りが厚いカーテンの内側でやわらかく揺れている。奥の長椅子にはクラリスが腰を下ろし、その隣にジャンが立っていた。彼の手元には一冊の古びたノートがある。

「来てくれたな。……ありがとう」

 ソフィーが無言で頷くと、ジャンは窓際の椅子を示した。ソフィーがその椅子に腰を下ろすと、三人の間に沈黙が落ち、風がカーテンをかすかに揺らす。

「ソフィー。男装の話に入る前に……まずは、君の母親のことを話さねばならない」

 ジャンの目が、昔の記憶をなぞるように細められる。その語り口に、ソフィーは自然と背筋を伸ばした。

「ルノアール家の長女。つまり、叔父さまの姉ね?」

 ソフィーが先回りして口を開く。

「別の家と婚約していたのに、秘密の恋人と駆け落ちして……そのまま消息不明になった。そして、その時に私を産んだ。——そう、聞いたけれど」

 ジャンはふっと小さく笑った。どこか苦笑に近い、否定もせず、肯定もせぬような曖昧な表情だった。

「……まあ、大筋は間違っていない。けれど、一つだけ重要な点が違っている」

 ジャンはそっとノートを閉じた。

「その恋人との間に生まれた子は——ソフィー、君ではない」

 沈黙が落ちる。蝋燭の火がかすかに揺れ、壁に映る影だけが動いた。

「……え?」

 ソフィーは、声が漏れるのを自覚できなかった。何か聞き間違えたのだと思った。だが、ジャンの瞳は真っすぐ彼女を見ていた。冗談ではない。明確な告白の目だ。

「じゃあ……私は誰の子なの?」

 ソフィーの目は泳いでいた。問いであり、同時に自分の存在を試す言葉でもある。

 それでもジャンは迷いなく確固たる意思で告げた。

「ソフィー、先に言っておく。君は間違いなく姉の子だ。成長した君を目の前にして、姉の面影を強く感じるんだ。それは揺るがないものとして伝えておく」

 ソフィーは叔父の真剣な目と声に圧倒されるも、直後に温かい熱を胸の奥で感じた。

「とはいえ、どこから話したらいいか…。過去の自分と対話しても、どこから話を切り出すべきか悩みものだな」

 ジャンは物事の複雑さに顔を顰め、しばしノートを睨んでいた。彼が言い淀んでいると、代わりにクラリスが言葉を添えるように静かに続けた。

「当時の家族がどんな決断を下したのか……。そのお話もしなければなりませんね」

 その時、ソフィーの中で何かが軋む音を立てた。

 これは単なる男装の話に止まらないのだろう。一体、男装一つでもどんな背景が絡んでいたのか。

 ジャンは深く息を吸い、手の中のノートを見つめた。

「……そうだな。これから話す内容は、家の誰にも知られてはならないもの。君の母が望んだことでもある。だが、今の君には知る権利がある」

 男装の理由が語られる前に、ソフィーの「出自」という想像を超える扉が開きかけていた。

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