第四章③ サン・マロ帰還後のソフィー
冷たい雨が細く長く、窓硝子を濡らしていた。
ブレストの空は朝から鉛色に沈み、人気のない中庭に雨音だけが静かに響いている。
ソフィーはひざ掛けを肩にかけながら、机に伏せた一冊の古びた帳面に目を落としていた。
「ベルナルド・シルバの日記」。
隊の医務室の引き出しにひっそりと置かれていたものだった。埃をかぶっていたが、誰かの手で丁寧に製本し直された形跡がある。何気なく手に取って開いた瞬間、ソフィーの目は一気に活字へと引き寄せられた。
「山査子を煎じて用いれば、食欲を促し、血のめぐりを良くする。体の冷えや気滞には、陳皮と桂枝をあわせるとよい」
読み進めるうちに、彼女は何度も眉を上げ、時にページの端を指で撫でた。
「……本当に、こんな治療法が?」
小声で呟いたその響きには、半ば呆れに近い驚きが混じっていた。
東洋の薬草術などというものは、貴族の趣味か旅人の与太話くらいにしか聞いてこなかった。
だがこの日記に記された記述の一つひとつは、妙に整然としていて経験に基づいた臨床の重みがある。
「心の乱れは、体の熱に通ず。静坐と呼吸にて気を鎮めること。薬に勝るは、己を知ることなり」
ソフィーの指がふと止まった。そこだけが処方箋ではなく、どこか詩的な筆致で綴られていた。
「……この人、ただの軍医じゃなかったのね」
彼女は椅子の背にもたれながら、帳面を胸元に抱いた。
ベルナルド・シルバ。かつてこの宿舎で誰よりも静かに、人知れず”異国の知”を記録し続けていた男の残滓。書き記された知識だけでなく、その背景にある哲学や思想までもがページの行間から滲んでくるようだった。
ベルナルド・シルバの帳面を閉じた後、ソフィーは静かに立ち上がり、自室の棚から自分の手記を取り出した。古びた黒革の装丁。数年前から使い続けているそれには、任官以来の観察と記録が詰め込まれている。蝋燭の火を傍らに置き、ペンを取り、ページを開いた。先ほど読んだばかりの東洋の書法に倣い、彼女は深く息を吸い込んでから、慎重に書き始める。
〔記録:十月某日/ブレスト宿舎/医務室にて〕
先日、医務室にて、ベルナルド・シルバ氏の遺したとされる帳面を発見。中身は、東洋由来の薬草知識および処方例。既知の医学理論とは異なる視座を持ち、観察眼と実証を重んじる記述が多い。とりわけ心身相関の見解には示唆がある。後日、再読の必要あり。
さて、以下、現況の私的整理。
第一に、エドガー海賊団との交戦。戦闘は想定よりも苛烈を極め、交戦後の初動としては不十分だったと認識している。情報の錯綜、指揮の分散、部隊間連携の遅滞。初動から一貫して「対人」と「対組織」の両面での脆弱性が露呈した。
第二に、海賊フェルナンドとの遭遇。彼は敵ながら、軍装の者にも劣らぬ修辞と立ち振る舞いを持つ。戦場においては、過剰な演技性が時に本質を覆い隠す。……彼の言葉の幾つかは、真実に見せかけた虚構だった可能性が高い。私自身、それを即座に見抜けなかったことを記しておく。
第三に、部隊内の傷病状況。今週だけで四名が重症。内一名は、左脚の可動に永続的な支障が出る恐れあり。単純な損耗ではなく、急性の外傷・出血・感染症が重なっている。後方支援の限界を強く感じた。ブレストという辺境において、この水準の戦闘が継続すれば、士気・体制双方に重大な影響が出る。
第四に、緊急出動の「闇」。これは本稿に記すにはまだ早い。ただ、指令の速度、理由の不透明さ、そして複数隊の同時展開という異例の対応。これらが意味するものは、作戦全体がすでに「誰かの掌中」にあるということだろうか。答えは出ない。だが、観測は続ける。
最後に、私見を一つ。
我々の任務とは、正義の遂行ではなく秩序の保持である。
だが、戦場においてはしばしば秩序そのものが最も先に崩れる。
私はそれを皮膚ではなく、血の温度で知った。
〔記録:同日/追記〕
およそ一週間の旅路を経てサン・マロから帰還後、マクシミリアン・ブーケ中尉より部隊全員への通達が行われた。
内容は、エドガー海賊団との戦闘後、自らが海賊と接触し、密会を行ったことの告白。および、今後の隊としての姿勢についての明言である。
密会についての詳細は明かさなかったが、目的が「情報の確認」であったこと、そして「結果的に敵の虚偽に乗せられた可能性が高い」と彼自身が判断した上で語った点は特記に値する。一般の軍人であれば、このような発言は軍規違反の懸念から伏せることが常であるが、彼はそれをせず全隊員の前で告白した。
そのうえで彼は、次のように述べた。
「我々は、利用された可能性がある。それでも私は、自分の選択に責任を持つ。これからも私の判断で動き、失敗があればそれを糧とする。それがこの部隊の方針だ。ついて来られない者がいれば、咎めはしない」
この宣言が意味するのは、絶対的な「正しさ」を放棄した上での、現場判断に基づく指揮体制への移行である。従来の軍組織の階層的運用から逸脱する、きわめて異質なリーダー像であると感じた。
それがどのような影響を及ぼすかはまだ不明だが、少なくとも——その瞬間、誰一人として彼の言葉を遮らなかった。沈黙は、同意ではない。だが拒絶でもない。
部隊の誰もが、あの言葉の余韻を背負ったまま動き始めている。
私自身は、それを記録し見届ける立場にある。
それがいつか、次の選択を誤らぬための指標となることを願う。
書き終えたソフィーはそっとペンを置いた。自分の書いた文章を読み返すことはしない。ただ記した事実が、記憶の奥へと沈んでいくのを見届けるように、帳面を閉じた。窓の外では、まだ雨が降っていた。その音はどこか遠く、見えない海鳴りのようでもあった。
そのとき、廊下の向こうから駆け足の足音がした。アニータの声だ。
「ソフィー、あなた宛に手紙よ!」
扉をノックもせずに勢いよく開け放って、アニータが小さな封筒を掲げながら入ってきた。鼻先が赤くなるほど冷たい風を浴びてきたのか、頬がほのかに上気している。
「港からの伝令便で回されてきたそう。パリの消印付き!」
ソフィーは目を瞬いた。封筒には見覚えのある筆跡が走っている。几帳面で、どこか抑制されたような、あの——。
「……叔父さんからだ」
呟くように言って、ソフィーはそっとそれを受け取った。アニータはどこか安堵した表情を浮かべ部屋を出ていく。ソフィーは手紙の封を、急ぐでもなく、かといって躊躇うでもなく、まるで小さな祈りを込めるようにゆっくりと切った。
ソフィーへ
まずは、手紙をくれてありがとう。
あなたから便りを受け取ったのはこれが初めてで、私も妻も大変嬉しく思いました。封を開けるときの胸の高鳴りを、久しく味わっていなかったように思います。
正直に言えば、海軍から消息不明とだけ知らされたとき、私たちは一時、すべてを失ったような気持ちになっていました。ですが、こうしてあなたが無事に戻り、自ら筆を執ってくれたこと。その事実だけで、私たちにとっては十分すぎるほどの喜びです。
あなたが「私に会いたい」と書いてくれたことも、心から嬉しく思いました。
私も、そして妻も、ぜひともあなたに会いたいと願っています。
きっと、かつての面影を残しつつも、あなたはあなたなりの強さを得て、成長しているのでしょう。
その姿に会える日を、楽しみに待っています。
どうか、無理はせず。
風邪などひかぬように、身体を大切にしてください。
あなたの叔父 ジャン=バティスト・ド・ルノアールより
インクの乾きかけた筆跡に、しばし視線を落としたままソフィーは小さく息をついた。そのまましばらく手紙を見つめていたが、やがて丁寧にそれを畳みポケットにしまい込む。
「……帰るわ。すぐに」
そう告げた声に迷いはなかった。だが、それはあくまで言葉の上での話だった。
すでに外出届は前日のうちに提出してある。週末の休暇を利用してパリの実家へ帰省するという旨を簡潔に記した紙切れ。それを司令部の外出記録箱に入れたときから、こうなることは決まっていた。鞄も、昨夜のうちに机の下へ用意してある。
要するに、心の準備などとっくに終わっていた。そう、自分では思っていたのだ。
だが、いざ手紙を読んでみると、胸の奥に生ぬるい感触が残ったままだ。
決して悪い文面ではない。あの人にしては丁寧で、むしろ情のこもった手紙だった。それでも、不安は拭えなかった。あの人は、きっと変わっていない。ルノアール家の、あの古くて息苦しい空気も。
「それでも、行かなくちゃね」
ぼそりと独り言のように呟いてから、ソフィーは椅子を引いて立ち上がった。鞄の取っ手を握り、ひと呼吸おいて扉を開ける。扉の向こうでは、アニータが待っていた。少しだけ心配そうな顔で。
「気をつけてね、ソフィー。……なんて、あなたに言うのも変だけど」
「ええ、大丈夫です。帰るだけですから」
そう言って微笑んだつもりだったが、自分の頬がほんの少しだけ引き攣っているのを、ソフィー自身が一番よく知っていた。
冷たい風が吹きすさぶなか、ブレストを出た馬車は東へ向けて静かに走り出した。背後には鉛色の海と、灰のような雲に包まれた軍港の街。そこに並ぶ赤茶けた屋根の一つが、つい昨日まで自分の部屋だったのだと思うと奇妙な名残惜しさがあったがそ、れ以上に胸を占めていたのはこれから向かう先のことだった。
叔父に会う。それは、あの日の手紙に自分の手で書いたはずの言葉だった。けれども、車輪が石畳を叩くたびに不安は波紋のように広がる。
男として育てられた八年間の記憶。
それを断ち切るように家を出て、女として軍に志願したあの日の決意。
過去も、そして現在も、曖昧な境界のなかに揺れながら、それでもソフィーは今の自分の姿で再び叔父と会うことを選んだ。
道中はおおむね平穏だった。宿場町では粗末な小部屋を借り、短い眠りを繰り返しながら馬車は走り続けた。青い葉が徐々に赤く染まる朝、氷のように澄んだ空気を切り裂くようにして秋の空が広がる大地を進んだ。沿道に並ぶ裸木の影が車窓に流れては消え、いつしか彼女の瞼は深く閉じられていた。
そして、五日目の朝。
車輪の揺れが止まり、御者が「着きましたよ」と声をかけた時、ソフィーはゆっくりと目を覚ました。車窓から覗いた景色には、石造りの建物が並ぶパリの街並みが広がっていた。かつて馴染みのあった景色のはずなのに、今はどこか別の国に来たかのような、遠い場所に感じられる。馬車から降り、石畳を数歩歩いた先にそれはあった。
ルノアール家の屋敷。
石灰岩の淡い灰色の外壁に、古びた蔦が絡まる三階建ての邸宅。中央のアーチ型玄関には黒鉄の飾り金具がつき、重厚な扉が、来訪者の影を黙して待っていた。中庭には冬枯れのバラがわずかに残っている。どこか記憶よりも小さく見えたのは、自分が成長したからなのか、それとも過去が遠ざかって見えるせいなのか。玄関の前でソフィーはふと立ち止まる。かじかんだ指が扉のノッカーを掴もうとして、わずかに震える。だが、迷いは一瞬だった。
今の自分は、男でも子どもでもない。
マクシミリアン・ブーケ隊の軍人、ソフィー・ド・ルノアールである。
鋲打ちされた扉をノックすると、しばらくして中から応対の音が聞こえた。扉の向こうに誰の顔があるかを思い描く暇もなく、ソフィーは静かに口元を引き締めた。重い扉が内側からゆっくりと開くと、姿を現したのは年配の召使いだった。年をとったとはいえ、面差しに覚えがある。ソフィーが幼い頃から屋敷に仕えていた男だった。
「……お嬢さま……いえ、ソフィーさま!」
年老いた彼の声には、驚きと喜びが入り混じっていた。帽子を取って深々と頭を下げる様子に、ソフィーは思わずかすかに笑みを浮かべる。
「ただいま、ラフォレ。長いことご無沙汰してしまったわね」
「いえいえ、とんでもありません。よくぞご無事で……お戻りくださって……」
まるで夢でも見ているかのように目を潤ませながら、ラフォレはソフィーを玄関ホールへと案内した。玄関から続く大理石の床を踏みしめるたび、忘れていた記憶の破片がよみがえる。階段の踊り場で遊んでは叱られた日。廊下に響いた自分の足音。暖炉の前で絨毯に寝転がった肌寒い午後。手入れの行き届いた屋敷は当時のままだったが、それがむしろ、時間の経過を際立たせた。変わっていないものを見ることで、変わってしまった自分を自覚させられる。
そんな感傷に沈みかけたとき、階段の上から柔らかな声がかかった。
「まあ……やっぱりソフィーじゃないの! 本当に来てくれたのね!」
見上げると、そこには優雅な身なりの婦人が立っていた。
叔父の妻、ソフィーにとっては義理の母、クラリス夫人だった。彼女の顔には、やわらかい笑みが浮かんでいた。淡い緑のビロードのドレスに身を包み、慎ましくも上品な身のこなしで階段を下りてくる姿は、昔と少しも変わっていないように見えた。
「お久しぶりです、叔母様。……いえ、ただいま、でいいでしょうか」
少しだけ照れたようにソフィーが言うと、夫人は微笑みながらそっと頷いた。
「ええ、もちろん。おかえりなさい、ソフィー。あなたが無事に戻ってきてくれて……本当に嬉しいわ」
そう言って、クラリスはほんの少しだけ、ソフィーの肩に触れた。その手は温かく、昔と変わらない香水の香りがかすかに漂ってきた。
「あなたの叔父はね、もう何度も窓の外を見に行っては、まだかしら、って落ち着かない様子だったのよ。……さあ、ご案内するわ。彼もきっと、あなたに会えるのを心待ちにしているはずよ」
ソフィーは小さく頷き、夫人のあとに続いて廊下を歩き出す。絨毯を踏むたびに、記憶のなかの音が蘇る。だがその音も、今の自分の足音とは少しだけ違って聞こえた。すでに後戻りはない。
扉の向こうにいるのは、あの日自分を息子として育てた男。その人と、もう一度向き合う時が来た。




