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第四章② 十五代目コルヴァンとエドガー海賊団(夏)

「ベルリオーズ君。大元帥より、各司令部への助言および要求事項の通達内容です」

 執務室の扉を開けた先で、アルフォンスは柔らかく告げた。

 そこには、机の上の書類に黙々とペンを走らせる一人の男——ベルリオーズ・モンレザールの姿があった。姿勢は几帳面で、無駄な動きは一切ない。ただただ、音もなく任務をこなすだけの男。

「ああ……拝命いたします」

 ベルリオーズの抑揚の乏しい声が返る。どこか病み疲れたような目をしたその男は、受け取ったメモを丁寧に読み、インク壺の蓋を開けた。

「……戦況の整理と再配置案ですね。ふむ、了解です。数時間もあれば、草案は仕上がるかと」

 アルフォンスは礼を述べて退室した。

 静寂の戻った室内、ベルリオーズは再びペンを走らせながら誰にも聞こえぬほどの小さな声で呟く。

「すごい情報量だ。さすが、かつて参謀官をやられていただけある。ふむ、地中海、そしてガスコーニュ。潮目が変わるには、良い頃合いだ」

 彼が何を見て、何を思っていたのか。誰も、それを知らない。

 ベルリオーズ・モンレザール。

 総司令部の片隅で黙々と書類を捌く美丈夫だが、寝不足のせいか目元に濃いくまがあり、頬も青白い。肩までのサラサラの髪は後ろで束ね、額にかかる前髪がわずかに揺れる。

 普段は無表情で淡々としているが、ペン先と手の動きは驚くほど正確でしなやか。遠目には地味だが、近くで見ると深い茶色の瞳に鋭い観察力と知性が宿り、くまの影は夜通し情報網を監視してきた者の証のように見える。陰気な事務官と思うのは、あまりに早計だ。


 彼がまだ自分の血筋を知る前。裏社会には《コルヴァン》と呼ばれる情報屋の一族が存在した。噂では十四代に渡って、貴族にも海賊にも王宮にも通じたという。

 正規の軍人として生きているベルリオーズもまた、その末裔だった。

 情報屋としての血は祖父から父、そして彼へと静かに受け継がれている。

 だが皮肉にも、彼自身は軍人になることを選んだ。

 「普通」に生きたかったのだ。だが、その「普通」は長くは続かなかった。


 あれは去年の出来事だった。

 彼はある男に目をつけられる。粗野で荒々しくて、非道という言葉が似合う男だ。

 エドガー・ロジャース。

 コルヴァンの名を嗅ぎつけた彼は、海賊団の諜報網を再編するにあたってベルリオーズに手を伸ばした。いや、鋭く、甘く絡みつくように「脅した」のだ。

「君の血筋を思えば、選べる道は一つだけだろう?」

 そこでベルリオーズは初めて自分の血筋を、その血に宿る秘密を知らされたのだ。

 コルヴァン一族のこと、そして自分がその末裔であることを。

 こうしてエドガーの脅迫により、ベルリオーズは『情報屋』としての役目を再開する。否、再開というより、背負わされたのだ。

 自分でさえ知らなかった、コルヴァンという皮を——。

 だが、全てを強制された訳でもない。彼のどこかには、その綱渡りのスリルを求める渇きがあったのだ。破滅の匂いと紙の匂いが混ざるとき、脳の奥が痺れるような快楽を覚える。そういう男だった。


 書類を読み進める途中、ベルリオーズの脳裏にエドガー・ロジャースの狡猾な笑みがよぎった。

「……ちっ、相変わらず目障りだな」

 低く吐き捨てると彼は束ねていた髪留めを外し、絹糸のような髪をさらりと肩へ落とした。眼鏡を机に置き、背を伸ばす。その眼鏡は「真面目で忠義な事務官」を演出するための小道具にすぎない。

 素顔は驚くほど若々しく、まるで歳を裏切るかのような幼さを帯びていた。だが目元に沈む濃い影が、夜を幾度も徹してきた刻印のように残っている。立ち姿は華奢で青白く、遠目には病弱な貴公子を思わせる。その裏には卑屈さと計算高さが同居し、誰よりも場の空気を測る冷静な観察者の顔が潜んでいた。

 彼自身も人付き合いを好まず、一人でいる方が楽と知っている。だからこそ「陰気な事務官」という誤解を自らの仮面として利用してきたのだ。気づかぬ者には地味に映るが、近くで見る者だけがその知性としたたかさに驚かされる。

 そして彼は優秀に仕事をこなす一方で、ただの堅物ではなかった。軍服も普段着も目立たぬ色合いで、飾り気らしいものはほとんどない。

 だが、左の中指にだけは艶やかな漆黒の指輪がはめられていた。

 大げさな飾りではないが、控えめな彼の装いの中ではひときわ目を引く。 

 まるで「陰気な事務官」という仮面の下に、密かに洒落を楽しむもう一人の自分が潜んでいるかのようだった。

 書類をまとめ終えた頃には、執務室の窓に陽が斜めに射していた。

 書類の束を前に、ベルリオーズは左中指の漆黒の指輪に目を落とす。

 指輪には精巧に彫られたワタリガラスの刻印があり、その姿を見るだけで自然と肩の力が抜ける。

 思わず、自室で自分の帰りをじっと待つノクター——パリ勤務の間の唯一の弟分であり、実家から連れてきたワタリガラス——のことを思い出す。変わった訓練を受けていたため非常に落ち着き、ほとんど鳴かないが、ベルリオーズとの信頼関係は揺るがない。

「早く仕事を終わらせて、相手してやらないとな……」

 ベルリオーズはそっと微笑むと指先で指輪を軽く撫で、書類の装丁を整え、最終の確認印を押す。提出用の鞄を肩にかけて階段を降りると、長い回廊の先にある第二資料室へと歩を進めた。無言で提出を済ませたあと、ふと壁にかかった時計に目をやる。短針は、午後四時半を差していた。

「……休憩時間か」

 呟くように、そう言った。軍服の上からリネン製の薄手の外套を羽織り、ベルリオーズは総司令部を後にする。

 目指すはパリ市内のとある路地裏にある、寂れた喫茶店だった。外観は煤けた石造り。看板の文字は消えかけており、誰が店主かも分からない。だが、扉を開ければ薄暗いランプの灯る空間に常連の姿が二、三あるだけ。彼はその店の一番奥、窓のない個室へ入る。すでに男が一人、帽子を深くかぶって座っていた。顔は見えない。が、その手首には古びた金の腕輪が光る。

「久しいな、ベルリオーズ」

「……時間が惜しい。これだ」

 鞄から取り出した封筒を一つ。

 それは先ほど提出した軍令とは別のもの。写し、あるいは、全く別種の書類だ。

 さらにもう一通、封をされた手紙を差し出す。封蝋には見覚えのある髑髏と三本の剣の刻印。

「これは、船長への個人宛てだ。あの人がどう動くか、私にも分からない。ただ……あの潮目がどう揺れるか、見てみたくなっただけさ」

 それきりベルリオーズは背を向ける。コートの裾を翻し、店の扉を押して外へ歩み出す。その瞬間、指先に触れた黒い指輪が外の明かりを受け、彫られたワタリガラスの刻印がかすかに光を反射した。

 暗がりの奥に座る男は、その微かな輝きを見逃さなかった。指輪の形状、刻まれた紋様——それを見た瞬間、低く確信を帯びた声で呟く。

「コルヴァンは、やはりまだ死んではいなかったか……」


 波のうねりが外壁を叩き、微かな軋み音が船体に満ちている。

 エドガー・ロジャースはランプの火に照らされる書類を静かに捲っていた。指先が紙の端を滑るたび、獣のような冷静さと熱を帯びた視線が静かに揺れる。

「……マクシミリアン隊はまだ謹慎中か」

 低く呟いたその声に、対面で脚を組んでいたフェルナンドが目を上げた。

「ブレストに籠り続けてるって話だな。まあ、あの男なら勝手に抜け出しても驚かないが……意外にも沈黙を守ってる」

「ふん。だが、それも今日までだ」

 エドガーは書類を閉じ、机に広げた海図の上に手を伸ばす。

「この静けさは、嵐の前の無音。奴らを、特に奴を海に引きずり出す」

「なるほど、陽動か」

 フェルナンドの目が細くなる。

「……何を撒くつもりなんだ?」

 エドガーは地図上のふたつの海域に指を走らせる。

「地中海とガスコーニュ湾。双方に騒ぎを起こす。無意味に見せかけた動きで、意味を誘う。こちらの本意はそこにはないと、向こうに思わせることが重要だ」

 紅茶を口に運びながら、フェルナンドは微笑した。

「意味深な無意味ね……君らしい」

「地中海にはカシリオを。ガスコーニュ湾には、お前が船団を動かしてくれ。他の海賊団で協力的な奴も作戦に加えろ。演目の出来を左右するのは、お前の演技にかかっている」

 フェルナンドは頷いた。

「それで、奴が釣れたら?」

 問う声に、エドガーの目がわずかに鋭さを増す。

「……見つけ次第、他の海軍員は殺せ。躊躇うな」

 その声音には、いつもの軽妙さはなかった。

「マクシミリアン・ブーケだけは生け捕りにしろ。必ずだ。奴の喉を切るのは他の誰でもない……このオレだ」

 凍てつくような静寂が、船長室を支配した。

「……了解」

 フェルナンドはカップを置き、静かに答える。

 その直後。エドガーは書類の中から一通の手紙を取り出した。

 ベルリオーズ──否、コルヴァンからの書簡だった。繊細な筆致で綴られた文字が、機密の奥底を柔らかく照らす。エドガーは黙読し、ふと笑みを浮かべた。

「この文体……らしいな」

「情報屋の血筋らしいわけか」

 フェルナンドが覗きこむように言う。

「そう、十五代目コルヴァンだ。だが、その正体は海軍総司令部のただの書記官……いや、ただのではないな」

 手紙を折り畳むと、エドガーはそれをフェルナンドに差し出した。

「この書簡はお前が預かってくれ。オレの手元にあるよりも、遥かに安全だ。何かあったとき……それが鍵になる」

 フェルナンドはやや驚いた表情を見せたが、静かに手紙を受け取る。

「……了解した。備えはしておく」


 そのやり取りの裏側。

 船長室の外回廊、わずかに開かれた窓の外——そこにひとつの影が潜んでいた。

 若い男の輪郭が月光に照らされる。茶髪は風に靡き、水色の瞳は室内に意識を研ぎ澄ませていた。

 マテオ。

 その美貌に似つかわしくないほど冷ややかな視線で、彼は言葉の断片を拾い集めていた。

 書簡──。その存在が、マテオの表情をわずかに強張らせた。

 エドガーが「何かあったときのため」に残した一手。

 それがどんな意味を持つか、彼にはまだ計りかねていた。だが彼は静かに、黙ってそれを記憶に焼き付ける。

 ──影は、音もなくその場を離れた。

 情報は、行動を呼ぶ。行動は、新たな狂騒の幕を開ける。


 これら全ての出来事が、マクシミリアン・ブーケ隊の緊急出動に繋がる。

 わずか三ヶ月ほど前の出来事であった。

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