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第四章① エリオット(夏)

 パリ総司令部の重厚な扉が静かに閉じられ、夜の帳がゆっくりと街を包み込んでいく。

 灯りの少ない執務室では幾人かの軍幹部たちが地図を囲み、戦況と政情の行方を見据えていた。


 そこに立つ男、エリオット・ド・レオパード。


 若くしてその才を買われ、参謀本部に抜擢されるや否や、一介の幕僚から瞬く間に異例の昇進を遂げた天才だった。戦局を読む慧眼と誰からも慕われる温厚な気質。

 彼は次第に「神童」と呼ばれ、士官たちの間でも一目置かれる存在となっていく。

 そして今——彼はフランス海軍大元帥の座に就いていた。


 十九年前。即位して間もない国王と、その背後に控える新王党は旧来の貴族制と軍制に変革をもたらすべく、抜本的な改革を断行した。

 新体制下において、海軍の最高位として新設されたのが「大元帥」という地位であり、その第一任者として選ばれたのが他でもないエリオットである。


 新王党の掲げる理念は明快だ。

 王政の正統性を守り、貴族と都市民を安定的に統治するため、圧倒的な軍事力と秩序を保つこと。

 その中核を担うのが海軍であり、エリオットはその象徴的存在として内外に絶大な影響力を持っていた。だが、海軍は一枚岩ではない。急激な制度改変により、旧体制の名残を引きずる者、新王党の思惑を警戒する者、そして野心を抱く者たちが複雑に交錯していた。

 それら全てを穏やかな笑顔で統べるエリオットの瞳には、誰にも気づかれぬ深い翳りがあった。


 かつて彼は、「ゼフィランサス」と呼ばれた大海賊と死闘を繰り広げた。

 ——ガスコーニュ湾会戦。世間的には、《双星の海戦》とも云う。


 この会戦で、エリオットはフランス軍に歴史的勝利をもたらした。だがその戦いの果てに、彼は取り返しのつかない過ちを犯していたのだ。

 親友の命を自らの手で奪ってしまったという事実。

 それは彼の中に今もなお癒えぬ傷として残っている。

「正義とは何か——」

 その呟きは、広大な執務室の静寂に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。

 ただ一人、エリオット・ド・レオパードだけがその問いの答えを探し続けている。


 窓の向こうに見える街路樹の青い葉が、風もなくじっとしていた。まるで何かを待っているかのように。

 エリオットは静かな執務室の中で一人、分厚い報告書の束に目を通していた。書類の端には、数週間前の判決日付。

 そこには、若き軍医についての最終報告が綴られていた。

 消息不明とされ、かつ内通の疑いもかけられたその人物。

 既に裁判は終わり、今はパリ市内の病院に配置され、監視下にあるという。

 潔白とする証言は複数あれど、疑いが完全に晴れたわけではなく処遇は「様子見」と記されていた。

 ぺらり、と一枚をめくったところでエリオットはふと手を止め、背もたれに身を預けて大きく伸びをした。古びた椅子の軋む音が沈黙を揺らす。

「……あちこちで、実に大きな波が起きている」

 彼は静かに天井を仰ぎ、誰に聞かせるでもなく呟いた。

「だが、私のもとに届くのはいつも風が止んだあとだ。まったく……総司令部とは、そういう場所だったか」

 皮肉のような、嘆息のような声音だった。彼の視線は再び書類の束に戻ることはなかった。やがて立ち上がり、ゆっくりと窓際へと歩く。外には白く烟るような夏の光が満ちていた。雲は遠くで滲み、空気は熱を孕んで静かにゆらめいている。風はなく、街の音も遠かった。

 エリオットはじっと、その空を見つめる。まるで見えぬ風の行方を探すように——。

 重厚なドアを、軽快なノックが叩いた。

「失礼いたします、大元帥」

 控えめながらも澄んだ声と共に、ひとりの青年が姿を現す。端整な顔立ちに整った制服、几帳面な所作。茶色の髪を丁寧に後ろへ撫でつけ、涼やかな瞳には忠誠心と気品が宿る。

 見た目も佇まいも、「好青年」という言葉をそのまま形にしたような男だった。

「おお、アルフォンス。お前が来ると、少しだけ部屋が若返る気がするな」

 エリオットは書類をひとまとめにしながら穏やかに笑った。

「差し入れです。例の薬草茶、頭の痛みに効くやつを淹れてきました。香りも心を落ち着かせてくれると、軍医の先生方が言っておりましたので」

「軍医ねえ……」

 エリオットはふっと笑い、受け取ったカップから立ち昇る湯気に目を細める。

「こうして部下の茶に頼る日がくるとは。老いた証拠だな」

「老いてなどおりませんよ、大元帥。むしろその風格と貫禄は、今まさに最盛期かと」

「うまいこと言うじゃないか、まったく」

 からかい半分のやりとりにも、アルフォンスはにこりと微笑むだけだった。その柔和な表情の奥には、若者らしい真面目さと日々を生き抜く覚悟が宿っている。

 エリオットは茶をひとくち啜ると、しばし黙って天井を見上げた。

「……アルフォンス」

「はい」

「正義ってのは、どこにあると思う?」

 突然の問いにアルフォンスは一瞬だけ戸惑いの色を見せたが、すぐにまっすぐな声で応えた。

「答えはひとつではありませんが、もし僕が信じられる正義があるとすれば、それは大元帥のなさることです」

「……馬鹿正直め」

 エリオットは苦笑しながら呟く。静かな執務室に、薬草の香りがゆるやかに満ちていた。

「国家の理念を貫くために、親友を手にかけることも正義なのか……?」

 ふと漏れた独白は、思いのほか重く部屋に沈んだ。向かいに立つアルフォンスの表情がわずかに翳る。だが、同情に濁った目をすぐに正し、静かに言葉を返した。

「……大元帥。あのことは、言わない約束です」

 若者らしからぬ落ち着いた声音に、エリオットはふっと目を伏せる。「そうだったな……」と苦笑いを漏らす。

「でなければ君の父上に申し訳が立たん」

 その名が出ると、アルフォンスのまなざしが柔らかく揺れた。

 シャトレ家。フランス海軍において副提督時代から大元帥ポスト設置まで、海軍の頂点に側近兼伝令係として支え続けてきた一族である。

 現当主であるアルフォンスの父もまた、エリオットが大元帥の任を拝命した日から第一線を退くその時まで忠実に彼を補佐し続けた人物だった。

 エリオットがまだ若く、情熱の奔流に心を翻弄されていた頃。その傍らには、いつも寡黙で思慮深いシャトレ家の先代がいた。まるでそれをなぞるように、今はその息子が司令官も兼任しながら静かに己を正してくれる。

「歳を取るといかんな。つい口が滑る」

「滑ったままで終わらせはしませんよ。そのために、僕がいますから」

 にこりともせず、だが確かな気概をたたえたまま、アルフォンスは微かに背筋を伸ばす。主を諫めることに躊躇のない誠実さは、ただの忠誠心とはまた違う。長年の信頼がなせる技だった。エリオットはようやく笑みを返す。

「まったく。君たち父子は、どちらも恐れ入る」

「そうだ大元帥。各司令部より、月例の部隊成果報告書もお持ちしました」

 アルフォンスが手にしていた革張りのファイルを差し出すと、エリオットはそれを受け取って椅子に深く腰を戻す。手慣れた所作で数枚を捲り、目を走らせた。

「……ふむ。第一艦艇部隊は依然として主力だな。第二、第三も、しばらくは第一の後方支援に専念か。他国との会戦は、まだ終わりが見えん」

 書類の角を軽く叩きながら、エリオットは溜息とも独り言ともつかぬ声を漏らす。

「第五艦艇部隊は…内部の混乱、まだ収束していないのか。これでは本来の沿岸警護任務にも支障が出るな。第七も人手不足が続いているようだ。配置の見直しが要るかもしれん」

 次のページへと視線を移すと、ほんのわずかに眉が上がる。

「ほう……第六は、東洋の知見を用いて新たな兵装の開発中? またずいぶん面白いことを。実用性が伴えば、我々の戦術にも幅が出るが……」

 そして最後の報告書に目を通すと、静かに書類を伏せた。

「第八・第九は特筆事項なし、か。相変わらず地味だが、安定しているというのは悪くない」

 ごく短い一言の中にも、全体を見渡す者らしい安堵と緊張が混ざっていた。アルフォンスが机上の書類に視線を落としつつ、確認するように訊ねた。

「全体的には、どの部隊も致命的な欠陥は見られません。ですが、今後も予備戦力の編成と補充を並行して進めた方が良さそうですね」

「そうだな。だが——」

 エリオットの目が細められる。

「この安定が、果たしてどれほど続くだろうか。アルフォンス、少し手を貸してくれ」

 再び机の上の報告書に目を落としながら、エリオットが言った。すぐに傍らの好青年が静かに頷く。

「今から口述する内容を記録してもらおう。それをベルリオーズ君に渡し、正式な書式に整えて提出させてほしい。内容は、各司令部への来月の助言と要求だ。早ければ本日中に通達してもらいたい」

「承知しました」

 アルフォンスは小さな革表紙の手帳を開き、黒鉛の細い筆記具を手に取った。

 エリオットは机の縁に肘を置き、書類の束を横に滑らせながら、朗々と慎重に言葉を綴っていく。

「まず第二・第三艦艇部隊。これは引き続き、第一艦艇部隊の援護と補給を最優先。特に前線海域、地中海の維持が喫緊だ。人員と物資の回し方は、総司令部からも直接調整に入ると伝えてくれ」

 ペンがさらさらと動く音の合間に、エリオットの声が響く。

「独立した動きは控えるように。第一との連携を最重視とすること。そして第四。ここと第七は内務の整備が遅れている。新任の警備責任者を第五から一名引き抜く案もある。人選は今週中に詰めよう。第五艦艇部隊は内部の混乱が未だ収まらず、本来の警護任務に支障が出ている。数名の幹部の更迭案を添えて、再編成の下案を提出させるように。第六については……」

 少し間が空いた。エリオットは顎に手を当て、視線を斜めに泳がせる。

「第六は、例の新型火器の件。東方式の知見を用いた試作が進行中とのことだな。それともう一つの新型武器についてもこちらは試験段階ではあるが、もし実用性があるようなら、冬季までに一個小隊へ導入も視野に入れると伝えて構わない。予算枠をひとつ拡げよう」

 アルフォンスはそこで小さく頷いた。エリオットはさらに続ける。

「第七は徴兵対象の拡張を。既存の兵力では沿岸警備が手薄になる。このことは参謀本部にも、謹慎中の部隊に対して少しでも緩和を促そう。第八、第九は現状維持。特段の異常は見られないが、合同訓練の再開は提案しておこう。いずれにせよ、中央が思っているほど平穏とは言い難い」

 最後の言葉だけは、わずかに感情を帯びていた。筆記を終えたアルフォンスが一歩前に出る。

「以上の内容をベルリオーズ君に渡し、書式を整えた上で各司令部へ通達するよう伝えます。念のため、本日中に一次案をお目通しいただけるように申し添えましょうか?」

「頼むよ、アルフォンス。君がいなければ、私の言葉は半分も伝わらん」

 苦笑混じりに言われたその言葉に、アルフォンスは爽やかに一礼して執務室を後にした。

 静かな回廊を歩いてゆくその足音の先、書類と伝令を預かるのは総司令部の中でも一際目立たぬ席にいる——陰気で無口な男である。

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