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第三章① 海軍と海賊、秘密の会合

「待ってたよ」

 扉を開けると、そんな声が爽やかに響いた。

 部屋の奥、開かれたフランス窓の向こう。月明かりを背にして立っていたのは、ニールだった。

 彼はバルコニーに出たまま、涼しい夜風を頬に受けていた。身を包むのは、あの頃と変わらぬ粗末なシャツとズボン。今はその生地がいくつもの泥や塩の跡で薄汚れており、袖の綻びなどがそのままになっている。

 それでも立ち姿には不思議と気品があった。風に吹かれてわずかに揺れる金髪の髪と、相変わらずどこか夢を見ているような青い眼差し。彼の雰囲気はあの頃のまま、いささかも変わっていない。

「……ニール」

 ソフィーは思わず声を漏らした。

 部屋は、上階の一角に位置する高貴な来賓用の部屋。そのためか、内部の装飾は明らかに他の部屋よりも格調高かった。壁は深緑とベージュの縦縞に塗り分けられ、腰壁には金のモールが丁寧に走っている。古めかしいが手入れの行き届いたカーペットが敷かれ、四隅には繊細な彫刻が施された家具が配されていた。部屋の中心には円卓とクッション付きの椅子があり、その上には未開封の茶葉缶と四客の陶磁器カップが並んでいた。

 そんな内装の中で、ニールの存在は奇妙なほど違和感がなかった。彼の擦り切れた服も土に近い色味の中で溶け込み、まるで最初からこの部屋の一部だったかのように馴染んでいた。

「君たちが来てくれるか、ちょっと不安だったけどね」

 ニールは微笑んで室内に足を踏み入れる。照明の下に照らされた顔は、やはりあの時と変わらない。どこか掴みどころがなく、けれど心を和らげるような曖昧な優しさを湛えている。

「座って。今夜は……少し、長くなるかもしれないから」

 促され、三人は部屋の中へと歩を進めた。円卓の机に向かい、マクシミリアン・ブーケ隊の三人とニールがそれぞれ椅子についた。

 ソフィーが最初に口を開く。

「ニール、元気そうで嬉しいわ。こんなに早く再会できるなんて、正直思ってなかったけど」

 彼女の言葉にニールはふっと微笑みを浮かべ、軽やかに肩をすくめた。

「そちらこそだよ。強くなった気配を感じるけど、僕の筋書き通りに動いてくれているみたいで正直ホッとしてる」

 ソフィーは少し眉間に皺を寄せ、目をじっと見つめながら少しだけ言葉を選んだ。

「なぜエドガー海賊団にいるの?無理やり?それとも…」

 ニールは爽やかな声音のまま、視線を遠くの窓の外に投げやりながら答えた。

「そう。無理やり部下にされたんだ。でも、ちゃんとエドガーには僕らの意思は伝えてある。彼も知ってるはずなのに、強引だよね」

 その言葉の重みが空気に溶けるように広がったところで、マクシムが静かに口を挟んだ。

「ほかの四人の状況は? 特にルキフェルのことが気になります」

 ニールは少し眉を寄せて情報を整理するように言葉を選び、ゆっくり顔を上げて答える。

「みんな別々の船団に分散されてる。ルキフェルだけはどこにいるか分からないけど、監禁されているのは間違いない。姿が見えないんだ」

 その報告に、ソフィーは息を呑んでから続けた。

「じゃあ、残りの三人は?」

 ニールは淡々とした口調で話しながらも、どこか諦めとも決意ともつかぬ微かな影を浮かべる。

「マテオはフェルナンドと同じ船団にいて、今夜も仕事をやらされていると思う。コリンはこの間、掃除させられているのを見かけた。ジャスパーは機転が利くからか、良いポジションに収まっているみたい」

 マクシムはその言葉にしばし黙り込み、険しい表情で頷いた。情報の重みを噛み締めるように、静かに拳を握る。やがて、ダヴィットが口を開いた。

「それにしても……分散されながらも、きちんと連携は取れてるじゃないか。まるで最初からそういう指示があったかのように」

 ニールは椅子の背に肘をかけ、軽く足を組み直してから応じた。

「このサン・マロ全体が、今やエドガー海賊団の拠点みたいなものだからね。お互いの居場所も動きも、自然と共有されるようになってる」

「おいおい……」

 ダヴィットは肩をすくめ、テーブルの上に両手を投げ出すようにして身を乗り出した。

「そんな危険地帯に、よりによって俺たちを呼び込むとはな。危険を犯すこっちの身にもなってくれよ?」

 彼の声には皮肉と苛立ちが混ざっていたが、同時にどこか呆れの色も見え隠れしていた。ニールはどこ吹く風といった様子で視線を横に流しながらあっさりと言った。

「だって、僕らは身動きが取れない状況なんだ。どこで誰に見張られているかも分からないし。外に情報を送る手段も限られてる」

 少し間を置いて、ニールはソフィーの方に目を向け、にこりと笑みを浮かべた。

「それに、手紙には何も『君たちに宛てている』とは書いてない。あくまで、『手紙の秘密を解いた者』に宛ててるんだよ」

 その言葉に、マクシムが小さく鼻を鳴らす。

「詭弁ですね」

 ニールは肩をすくめ、悪びれもせずに返した。

「でも、事実でしょ?」

 ソフィーは立ち上がり、テーブル越しにニールをまっすぐ見据えた。

「それにしても、状況は最悪じゃない。サン・マロ全体がエドガーの拠点だなんて、本部に報告しないと!」

 その声音には焦りと怒りが混じっていた。だが、ニールは微笑みを崩さず、どこか困ったように眉を下げた。

「あー、それは難しいと思うな」

 静かに横からマクシムが言葉を継ぐ。

「そうですね。そもそも僕たちは、正式な許可もなくブレストを抜け出してここまで来ている。しかも、こうして敵勢力と接触しているとあっては……」

 その口調は穏やかだが、言っている内容は厳しい。

「仮にこの場でどれだけ正しい情報を持ち帰ったとしても、海軍からの信用は得られないでしょう。まずは我々自身の行動が、すでに罪に問われかねないものですから」

 ソフィーは言葉を失い、拳を握ったまま黙り込む。その沈黙を破ったのはダヴィットだった。

「……終わった。もう俺たち、詰んでるじゃないか……」

 ダヴィットは重く椅子の背にもたれかかり、顔を仰向ける。

「今だって謹慎中なのに、敵の縄張りに入り込んで、勝手に会合して……いやもう、何もかもがまずい。あとでグウェナエルに見つかったら本気で殺される」

「それは僕も予想してたけどね」

 ニールは肩をすくめながら、お茶のカップに手を伸ばす。

「でも、君たちが来てくれたおかげで状況は大きく動かせる。海軍の常識の外で動ける人間がいるってことは、とても貴重なんだよ」

 マクシムが目を細めた。

「つまり、僕たちはもう正規の軍人ではなく、あなたの計画の一部になったと?」

 ニールは爽やかに微笑んだまま、はっきりと肯いた。

「その通り」

 静寂が一瞬だけ場を支配した。その空気を切るようにニールが背筋を伸ばし、テーブルの縁に指先を揃える。涼しげな顔のまま、しかしその瞳には明確な意志が宿っていた。

「さて——ようやく本題に入れる」

 柔らかな口調ではあったが、その声は空気の重さをはらんでいた。

「僕は、いや僕らは、君たちに伝えたいことがあるんだ」

 マクシムが微かに目を細め、ダヴィットは身を乗り出す。ソフィーは息を呑んだまま、ニールの言葉を待っていた。

「単刀直入に言おう」

 ひと呼吸置いて、ニールは淡々と告げる。

「——お宅には内通者が潜んでいる。おそらく、その人はパリ総司令部にいる」

 その瞬間、部屋の空気が変わった。まるで誰かが急に灯りを消したかのような重苦しい沈黙。ソフィーの目が見開かれる。マクシムは表情を崩さず、だがその手元が無意識に拳を握っていた。ダヴィットはしばらく呆然とし、それから呟くように言った。

「……なんだって……?」

 ニールは微動だにせず、まっすぐ三人を見据えていた。その笑みは消えていた。冗談のひとかけらも、そこにはなかった。

「この情報を渡すために、僕はずっと機会を探してた。信じてもらえるかわからない。でも、事実だ」

 再び、重い沈黙。その沈黙が言葉より多くを物語っていた。

「ふざけるな!」

 思わず椅子を蹴るようにして立ち上がったのはダヴィットだった。声は怒りと困惑で震えている。

「内通者だと? そんな重大な話を、こんなふざけた言い草で——!」

 ニールは静かに手を上げ、怒声を遮るように言った。

「ふざけてはいられないよ。これは事実だ。そして証拠も、君たちがもう手にしている」

「……この書簡か」

 マクシムが静かに口を開いた。懐から血で汚れた一通の封筒を取り出し、目の前の円卓にそっと置く。

「この文書に記された『コルヴァン』……男性で間違いありませんか? 一体何者なんです?」

 ニールはひとつ頷き、視線を下げて記憶を手繰るように言葉を紡いだ。

「前にルキフェルから聞いたことがあるんだ。昔、フランソワ海賊団の旗揚げメンバーの中に『コルヴァン』という人物がいたらしい。でも、それは通名に過ぎない」

 ソフィーが息を呑み、マクシムは目を細めてニールの言葉を待った。

「彼の正体は、伝説の情報屋のひとり。本名も素性も不明なまま、一部の海賊たちの間でのみ語り継がれていた。その後、彼は船を降りてどこかへ消えた。……でも、ルキフェルはこう言っていた。『コルヴァンはその後、貴族になったらしい』と」

「貴族に……?」

 ダヴィットが呻くように呟く。ニールは軽く頷いた。

「この話を思い出した僕はこの宿に泊まってたリー・ウェンと会って、かつて情報屋をしていた貴族の名前をすべて聞き出した」

 そこからの語りは驚くほど冷静で、戦略家そのものだった。

「そして、リー・ウェンから炙り出しの手紙の技法を学んで、該当する貴族たちに手当たり次第で仕掛けたんだ。全員に、同じ文言で。差出人は『コルヴァン』を名乗って」

 マクシムが小さく口笛を吹いた。

「大胆ですね」

「そうだよ」

 ニールは小さく笑った。

「でも、その大胆さのおかげで、見事に元コルヴァンを炙り出せた。返事を寄越したのは一人だけ。彼はすぐに手紙が炙り出しの仕掛けだと見抜き、返答をくれたんだ。驚くことに、ワタリガラスを遣わしてね。久しぶりに見たなあ、ワタリガラス」

 そして、ニールは言い添えた。

「そのカラスに託された返答の手紙こそ、情報屋が今も生きていて動いている証拠。つまり……今の総司令部には、伝説の情報屋が潜んでいる可能性が高いってことになる」

 沈黙。重い事実が場にのしかかる。ソフィーはその場で目を伏せ、マクシムは再び拳を握り締めた。

「そして僕は、それを君たちに伝える役を買って出たんだ」

 ニールは言葉を静かに締めくくった。

「この情報を正しく渡せる人間は……君たちしかいなかったから」

「それで、あの戦闘を利用したのね」

 ソフィーが小さく頷きながら言った。その声は、すでに事の全貌を見通していたかのように落ち着いている。

「銀の猫フェルナンドが出撃した戦闘に乗じて……彼と同じ船団にいるマテオに、二つの書簡を託した。隊長の元に」

「そして、君の目に、届くように」

 ニールが静かに言葉を継ぐ。

「そう、それも僕の狙いだったんだ。マクシミリアンだけじゃ不十分だった。君にこそ、この手紙の意味を見抜いてほしかったから」

 ソフィーが目を細めてニールを見つめる。彼の声には冗談の調子も気取った優雅さもなかった。ただ真っ直ぐな本音が宿っていた。

「だから、炙り出しにしたんだ」

 ニールはぽつりと付け加える。その技法を思い出すと、ふとある男の顔が脳裏をよぎった。

「あの抜け目のない男がね」

 ニールは軽く笑い、遠い目をするように言った。


 ——そういえば、以前もこの技法を教えた人がいました。

「誰だい?」と聞くと、リーはあっさりと笑って言った。

 ——ソフィーさんですよ。彼女たちとフランスに渡る道中に教えたんです。


「……その瞬間、僕の中で賭けが決まった」

 ニールはそっとテーブルに肘をつき、組んだ指の奥からソフィーを見た。

「たとえマクシミリアンが気づかなくても、君なら気づいてくれる。きっと、手紙の異変に目を留めるだろうって。そうじゃないと、この策は宙ぶらりんになってしまうからね」

 彼は笑みを浮かべた。

「『頼むから気づいて!』って、ちょっと本気で祈ったよ。君の鋭さに、僕の賭けを乗せたんだ」

 ソフィーはしばらく無言だった。けれど、その瞳には微かな火が灯っていた。

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