第二章⑤ ソフィーとマクシム、それとダヴィット
宿舎へと戻ったのは、夜明けの光がブレストの屋根瓦を金色に染めはじめた頃だった。
誰もが疲れ切っていた。血と火薬の臭いを纏ったまま口もきかず、それぞれの寝台へと吸い込まれていく。甲板での潮風とは違う、石造りの建物の冷たい空気がひどく静かに感じられたが、ソフィーにはまだ眠る時間は与えられなかった。
「宿舎に戻り次第、僕の執務室に来てください」
マクシムの言葉が、さっきまでの出来事の余韻とともに胸に残っていた。
ソフィーは廊下を静かに進み、重い扉の前に立つ。ノックしようとしたそのときだった。
「そんな、冗談でしょう?!」
中からダヴィットの怒号が響いた。怒声にしては、あまりに動揺を孕んだ声音だった。
驚いたソフィーは迷う間もなく扉を押し開けた。部屋の中では、書類の散らばる机を挟んで、マクシムとダヴィットが対峙していた。
マクシムは静かに立ち、ブラウントパーズのような瞳に鋼のような決意を宿している。
対するダヴィットは顔を紅潮させ、拳を握り締めていた。
「隊長……!」
ソフィーの声にマクシムだけがちらりと目を向けた。
「来ましたか。ちょうどよいところです」
「ソフィー、聞いてくれ!」
ダヴィットが先に口を開いた。
「隊長は、サン・マロに赴くつもりだ。あの、五人組海賊のひとりに会うために!」
「……!」
「僕は彼に会いに行きます」
マクシムは改めて口にした。静かな声だったが、否定の余地を一切許さぬ響きだった。
「彼らは僕たちに情報を投げかけてきました。その意図が何であれ、接触しようとしたこと自体が一つの答えです」
「隊長、あの男たちはつい数ヶ月前に剣を向けていたんですよ!? あなたを、俺たちを殺そうとしていた連中です!」
「承知しています。それでも、行く価値はあります」
ダヴィットは声を荒げた。
「これは信頼の問題です! 敵意を向けてきた者の言葉など、信用しては──」
「信用はしていません。ですが、敵意の裏にある意図までも見逃すのはただの思考停止です」
マクシムの語調は淡々としていたが、その眼差しは火花のように鋭く、揺るぎなかった。
「フェルナンドを撃ったのがマテオだったことは、僕にとっても決定的な意味を持ちます。彼らの内部にも分裂がある。ならば、交渉の余地があるということです」
ソフィーはじっと二人を見つめていた。マクシムの言葉には理がある。ダヴィットの憤りも、わかる。けれどこの空気は、二人の間にある深い信頼ゆえの衝突だった。
「……お二人とも、落ち着いてください」
ソフィーは口を開いた。
「私も、ニールの書簡を読んで思いました。彼らがわざわざ夜のうちに会いたいなんて伝えてくるのは、何か重大な話があるからだと。敵としてではなく、真実を知る者としての話が」
マクシムはゆっくりと頷いた。
「その通りです。彼らの言葉が罠である可能性は否定できませんが、それを確認することが僕たちの責務です」
「……隊長」
ダヴィットは一瞬、何かを言いかけて口を噤んだ。拳を握りしめたまま深く息を吐く。
「……分かりました。ですが、俺も同行させてください。万が一のときは、俺があなたとソフィーを守ります」
「もちろん、そのつもりです」
マクシムの口元に、わずかに安堵の色が差した。その表情を見て、ソフィーも胸をなでおろす。
夜明けの光が、窓辺の硝子を淡く透かしていた。
戦明けの一日はまるで凪のような時間だった。しかし、それは束の間の静寂に過ぎない。
「マクシミリアン・ブーケ隊に、引き続き謹慎処分を命ずる」
司令部からの通達は乾いた封蝋と共に届けられた。形式ばかりの文面には理由も書かれておらず、ただ「処分継続」とだけある。それがかえって、この命令の裏に別の意図があることを暗に示していた。だが、マクシムは黙って封筒を閉じるとひとつだけ呟いた。
「……好都合ですね」
この足止めの間に、ニールとの接触を果たす。それが、三人の決めた方針だった。
出発の日の朝、ソフィーは部屋を抜け出し、まだ薄暗い廊下を足早に歩いていた。
目指すのは、医務室。
あの夜、倒れたままだったフェルナンドと同じく治療を受けたジョルジュの様子を見るためだ。
ソフィーが医務室の扉をそっと開けると、ひんやりした薬草の香りが鼻をくすぐった。
ベッドのひとつにはジョルジュが眠っている。腕は包帯で固定されていたが、呼吸は穏やかで顔もどこか子供のように安らかだった。
もうひとつのベッドでは、フェルナンドが深い眠りの中にあった。顔色は少し戻っていたが、まるで夢の底に沈んでいるかのようにまったく意識の気配はない。
ソフィーはそっと一礼すると静かに部屋を後にした。
馬車の待つ中庭では、すでにマクシムとダヴィットが揃っていた。軍服の上から外套を羽織り、それぞれに目深く帽子を被っている。夜明けの風に、馬の吐く息が白く立ちのぼっていた。
「お待たせしました」
ソフィーが息を整えながら歩み寄る。
「どうでしたか?」
「……フェルナンドはまだ眠ったままです。ジョルジュは、ぐっすり眠ってました」
「そうですか」
マクシムはそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。少し間を置いて、ソフィーが切り出した。
「隊長。みんなに何も告げずに出て行って、怪しまれませんか? いくら謹慎中とはいえ」
マクシムは帽子の縁を指先で整えながら淡々と答えた。
「問題ありません。僕が突然いなくなるのは……いつものことですから」
ソフィーは思わず苦笑する。たしかに、彼の失踪癖には部隊員もとっくに慣れている。
「だとしても……」
その横で、ダヴィットが小さく唸るように言った。
「グウェナエルに見つかったら口を割らされる。シャルルに見つかったら尾行される。リラに見つかったら、間違いなく部屋を荒らされる」
「大丈夫です。三人とも今は油断してます」
マクシムはわずかに笑みを浮かべると、ポケットから時計を取り出した。
「サン・マロで何が待っているかは分かりませんが、心の準備だけはしておきましょう」
マクシムの言葉に、ソフィーとダヴィットはそれぞれ頷いた。
静かだが、時は動き出していた。
二泊三日の道のりは、決して軽い旅ではなかった。
北方の風は馬車の窓を冷たく撫で、ブルターニュの緩やかな丘陵は行けども行けども尽きる気配を見せない。石畳の街道が切れるたびに馬の蹄は泥と砂利を交互に踏みしめ、車体がごとりと揺れるたびにソフィーは手すりを握り直した。
道中、三人は人気の少ない宿を選び、夜は早々に明かりを落として過ごした。
道中の村では、農夫が道端で麦の束を運び、宿場町では手綱を引く老婆が船乗り風の男とすれ違いざまに囁き合っていた。
フランス海軍の旗を掲げる者たちの姿は見当たらず、旅の終わりに近づくにつれ土地の空気に潜むざらついた緊張が強まっていく。
馬車が再び大きく揺れたとき、丘の向こうに港町の尖塔が顔を覗かせた。潮風が乾いた道を吹き抜け、遥か彼方から、海の匂いが届く。車輪の軋む音が早朝の山道にこだまするなか、馬車の内部には静かな揺れと共に緊張が漂っていた。
「本当に、このままサン・マロへ行って大丈夫なんでしょうか?」
ソフィーが不安げに口を開く。まだ眠たげなまぶたの奥で、ブルーグレーの瞳は何かを探るようにマクシムの横顔を見つめていた。
「気をつけて行動すれば大丈夫です。ですが、警戒は怠らないように」
マクシムは外套の襟元を整えながら答える。ダヴィットは腕を組んだまま、ため息をついた。
「問題はそこじゃないんだよ。そもそもサン・マロ自体が今や無法者の巣窟みたいなもんだ。正式には自由港と呼ばれてるらしいがな。もう何年も前から、船乗りどもは『サン・マロの裏口から逃げろ』なんて言い合ってたくらいだ」
「そんなに昔から? 正式に撤退したのは最近ですよね?」
ソフィーが驚くと、ダヴィットは皮肉な笑みを浮かべた。
「おかしいとは思ってたよ。あれだけ重要な港だったのに、どうして軍は今になって撤退したのか。あの街がいつの間にか海賊の根城になってるなんて、誰が想像した?」
「あるいは、誰かがそれを黙認していたのかもしれません」
マクシムの低い声が馬車の天井に鈍く響いた。ソフィーは口を閉ざし、目を伏せる。馬のいななきがかすかに聞こえ、三人はしばし黙ったまま揺れに身を任せた。
「……見えてきました。あれが、サン・マロ」
ダヴィットが指さした先、馬車の小窓から港町の全景が姿を現した。
遠くから見ても分かる高い城壁と、海に迫り出すように並ぶ灰色の石造建築。塔の先には何本ものマストが林立し、白い帆が街の輪郭に重なる。潮風に混じって運ばれてきたのは、潮と酒、そして古い木材の香りだった。
街の上には旗が翻っていた。だがそれは、三人が見慣れた王の紋章ではなかった。
三人は旧市街の石畳を踏みしめながら、目立たぬよう手分けして聞き込みを始めた。
「ラ・プティット・トゥル? ああ、あの裏通りの隠れ宿のことかい。地元の人間でも滅多に行かないよ」
「店主がちょっと変わり者でね。勝気で口も悪いが、宿自体はちゃんとしてるさ」
「場所? 港沿いじゃない。丘のほう、小さな広場からさらに路地を入った先にあるよ」
数人に聞き回った末、ようやく三人は目的の宿の場所を特定した。薄雲のかかる朝の光のもと、サン・マロの町は相変わらずざわめきに満ちていた。潮の香りが空気に溶け込み、帆船の帆が風に鳴る音が遠くに聞こえる。石造りの建物がひしめく中、ひときわ目立たぬ明らかに手入れの行き届いた木造の宿が姿を現した。
──それが「ラ・プティット・トゥル」。
古びた軒先に控えめな木製の看板が下がり、小さな金文字で店名が刻まれている。外観は一見すると倉庫と見間違うほど地味だが、玄関前には手入れされた植木鉢が並べられ、宿としての温もりがかすかに感じられる。
「……ここで間違いないようですね」
マクシムが扉を見上げ、控えめにノックした。すぐさま扉が開き、出てきたのは派手な赤い腰巻と金の耳飾りを揺らす、褐色の肌の勝ち気そうな女性だった。短く刈った黒髪、キリッとした目元。堂々とした佇まいで訪問者を睨みつける。
「……ソフィーかい?」
彼女は一瞬目を細めたのち、声を和らげた。ソフィーはふっと笑って一歩前に出た。
「久しぶり、カルロータ。……元気そうで、何より」
カルロータは鼻を鳴らすように笑った。
「へっ、あんたみたいな面倒事の種が現れるときだけ、妙に元気になるんだよ。……入んな、立ち話は嫌いなんだ」
そう言って扉を開け放つと、三人を中へと招き入れる。内装は質素だが、どこか暖かみのある空間だった。木目の美しい柱に囲まれた廊下、掃除の行き届いた階段、奥の暖炉からは炭の香りが漂う。
宿というより「長旅の果てに辿り着く港」のような静けさと懐かしさが共存する空気がそこにあった。
カルロータは食堂の扉を押し開け、三人を中へと招き入れた。
「ここさ、座ってな。ま、まともな席はこれしかないけどね」
がらんとした食堂の中に置かれた、使い込まれた丸い木製のテーブル。壁には古びた海図が貼られ、窓辺には小さな観葉植物と、なぜかナイフが刺さったままのまな板が置かれている。
荒くれ者の街、サン・マロで生き抜いてきた者の空気が部屋の隅々にまで染みついていた。
マクシムとダヴィットが静かに腰を下ろすと、ソフィーは目の前に立つカルロータをまじまじと見た。
「カルロータ。まずは第二号店が建って、おめでとう」
「ありがとよ、ほんと」
カルロータは片手を腰に当て、もう片方の手で短い髪を弄る。彼女は、以前とはまるで別人のようだった。
「なんだか、すっかり変わったね。前は『あら〜、第二号作っちゃうわよ〜!』なんて笑ってたのに」
ソフィーが笑いながらそう言うと、カルロータは肩をすくめて鼻を鳴らした。
「へっ、なんてこったい、だろ? ま、自分でも思うさ。よくもまあ、こんな口調になっちまったもんだって」
「……大変だったんだね」
「サン・マロで宿屋やるってのは、女の名前で契約書に判子押すだけで五人くらいに脅しかけられるからね。最初の月なんて、客じゃなくて殴り込みの方が多かったよ」
カルロータはため息まじりにそう言って、戸棚からマグカップを三つ持ってきた。
「でもな。誰かが強くなったって言ってくれるなら、それで良しだよ。何だってやってやるって気持ちじゃなきゃ、この街じゃすぐ骨になる」
「……カルロータ、やっぱり変わってないよ」
「ん?」
「どこに行っても、自分の力で生きようとするところ」
ソフィーが言うと、カルロータは少し照れたように口の端を上げてマグをテーブルに置いた。
「ありがと。……で、ニールのことなんだけどさ」
カルロータは声を潜めて言った。
「昼間は姿を見せないけど、夜には来るはず。毎日ね。あんたらが必ず来るって、あの子なんとなく察してたんじゃない?」
「じゃあ、ここで待たせてもらっても?」
「もちろん。ただし、変なことはしないでくれよ。うちの店はあくまで中立だ。あの子らがどんな立場であれ」
マクシムは小さくうなずいた。
「心得ています。こちらも、暴力沙汰を起こすために来たわけではありません」
「ならいい」
カルロータはそう言って、食堂の奥に姿を消した。
ソフィーは目の前の湯気立つ紅茶を見つめながら小さく呟いた。
「……あの人も、この街で戦ってるんだな」
カルロータの厚意で、三人はそのままラ・プティット・トゥルに泊まることになった。寝床の心配がなくなったことでソフィーもようやく表情を緩める。彼女はさっそく部屋に荷を置くと、マクシムたちと共に通された客室の窓から外を眺めた。
サン・マロの街は昼の喧噪が少しずつ陰を帯びはじめていた。
人通りは多いが、どこかぎすぎすした空気が漂っている。船着き場から帰ってきたと思しき男たちが酒場へ吸い込まれ、通りでは身なりのいい女たちが気だるげに腰を振って歩く。身なりの悪い者はさらに悪く、泥酔して路地裏で寝転ぶ者、喧嘩を売る者、刃物を抜きかける者。
全てが背中合わせにあり、すぐ隣が地獄のようだった。
「……ここの夜は、やっぱり気が抜けませんね」
ソフィーが呟くと、ダヴィットは腕組みしたまま大きく息を吐いた。
「昼のうちに騒がしいんだ。夜はもっと始まるぞ。宿の扉、ちゃんと閉めてくれてりゃいいが……」
夕日が帆桁の影を長く伸ばし、空は橙から紺へと移ろってゆく。酒場から流れてくるバイオリンの音がどこかやけに陽気だった。
三人は宿で夕食を取った。パンと焼いた干し肉、エンドウ豆のスープと、舌に強い地酒がふるまわれる。
カルロータはそれきり厨房の奥に引っ込んでおり、静かな食堂に残ったのはソフィー、マクシム、ダヴィットの三人だけ。やがて空が真っ暗になり、通りの喧噪も低く落ち着いてくる。裏通りで誰かが大声で笑い、どこかで瓶が割れる音がした。食堂の灯りは控えめで、天井から吊された油ランプがテーブルの一角だけを照らしている。
「……来ますかね、ニール」
マクシムが静かに口を開いた。
「信じましょう」
ソフィーが返す。
「来なかったらどうするんだ。こんな街で夜中にうろつくなんて、真っ当な人間のやることじゃない」
ダヴィットがぼやいた。
「けど、私たちはもうその真っ当な人間ではいられないのかもしれないですね」
ソフィーの声は小さく、どこか遠くを見ているようだ。油ランプの明かりが揺れて、三人の顔に深い影を作っていた。油ランプの炎がぴくりと揺れ、誰かが扉を開けた。それも、まるで自分の存在を極力目立たせまいとするようにそっと音を立てて。三人が振り返ると、そこに立っていたのは見覚えのある青年だった。
「……ディッキー?」
ソフィーが目を丸くする。栗色の髪に小柄な体躯、やや大きめの上着に職人あがりの面影を残した目。どこか緊張した面持ちでディッキーは食堂へ足を踏み入れた。
「……ご無沙汰してます、ソフィーさん」
ディッキーは一歩近づいて、声を潜める。
「ニールさん、来てます。裏口から入りました。今は……高貴な来賓向けの部屋に」
「高貴な……? あのバルコニー付きの部屋?」
ソフィーが確認すると、ディッキーは静かに頷いた。
「あそこなら音も漏れません。話すなら、あそこがいちばん安全です。……どうぞ、案内します」
促されるままに三人は立ち上がった。階段は宿の裏手へと続いている。踏むたびに軋む木製の段を上がり、ディッキーの背中を追う。通された廊下は、先ほどまでいた客室階よりも装飾が豪奢だった。薄く塗られた石膏の壁には古びた額縁がかかり、天井近くの梁には小さな彫刻が施されている。部屋の前に着くと、ディッキーが一歩脇に退いて手で扉を指し示した。
「……あちらです」
ソフィーは小さく息をのんで扉の向こうを見つめた。
「じゃあ、行きましょう」
その声とともに、三人はニールの待つ高貴な来賓の部屋へと足を踏み入れる。




