第二章④ ソフィーとマクシム
夜風が静かに甲板を撫でていた。
遠ざかる波の音に混じって、帆がきしむ音が微かに響く。
ブレストへと進む海軍の船は、星々を載せて夜の海を滑っていく。
マクシムはひとり欄干に背を預けて立っていた。左手には血濡れた書簡が握られている。乾ききっていないその文には、銃撃戦の名残がまだ赤黒く染みていた。足音が近づいくる。
「……マクシム隊長。失礼します」
振り返ることなく、マクシムは声の主を認めた。
「アニータ。どうなりましたか?」
「ソフィーが無事に処置を完了させました」
「そうですか」
「弾丸の摘出、縫合ともに成功。手術は数十分に及びましたが、容態は安定しています。いまは、ジョルジュの治療に移っております」
それを聞いて、マクシムは小さく頷いた。そして静かに目を閉じたあと言った。
「……彼女を、よく労ってください」
アニータが固まる。
「……え?」
予想もしなかった言葉に、思わず間の抜けた声が漏れる。
「え、いま……?」
「聞こえなかったですか?」
「いえ、聞こえましたけど……」
ぱちり、とランプの火が揺れる。マクシムは背を離し、甲板の縁に足を踏み出した。
「彼女が治したのは、ただの海賊ではないんです。銀の猫。あの海賊の正体は、エドガー・ロジャースの右腕、フェルナンド」
「……!」
「ようやく尻尾を掴んだんです。彼女は、有益な情報源を生き存えさせてくれた」
明らかに軍略家としての評価だった。だが、その言い回しにはどこか誤魔化すような無骨さがあった。アニータの表情がこわばる。
「……隊長」
言葉を選ぼうとしたが、堪えきれず、苛立ちが噴き出す。
「あなたはソフィーに冷たくしたり、努力を認めたり……一体、どうしたいんですか? 本心はどこにあるんですか」
マクシムは夜の暗がりを見つめたまま黙っていた。何も語らず、感情を見せることもなく。ただ風だけが、彼の軍服の裾をゆらゆらと揺らしていた。やがて、彼は小さく口を開く。
「……ブレストに着く前に、彼女と話をしたいです」
その声は穏やかだったが、深く固い意思を孕んでいた。
「頃合いを見て、伝えてください」
「意味わかりませんよ!」
アニータはため息をつきながら踵を返した。背後に答えは返ってこなかった。返すつもりもなかったのだろう。やがて彼女の足音が消えると、再び夜は静けさを取り戻した。
マクシムは手元の書簡を開く。まだ乾ききらぬ血が、いびつな文字を歪ませている。
これは、あの戦闘の最中に何者かが船内の執務室に置いたと思われる。
夜風が緩やかに帆を揺らし、海軍船の甲板に静かな波音が満ちていた。月は雲間に隠れ、灯火の明かりが船上をぼんやりと照らしている。
マクシムは舷側に腰を下ろし、片手にランプを、もう一方には血痕の滲む書簡の束を握っていた。開かれた一枚目の文面には丁寧な筆跡で短く、だが切迫した口調の言葉が並んでいる。
《私は迷った。確かに、迷ったのです。》
ランプの炎がわずかに揺れ、インクの文字が陰りを帯びた。
マクシムはじっと文面を見つめ、やがて眉を寄せるとゆっくりと書簡を折り畳んだ。風に吹かれた灰色の外套がはためき、海の冷気がその襟元を撫でていく。その時、甲板の階段を上がる足音が響いた。
「……隊長」
控えめな声とともに現れたのはソフィーだった。彼女は外套の裾を風になびかせながら、少し距離を置いて立ち止まる。先ほどまでジョルジュの手当をしていたばかりのせいか、シャツの袖口にはわずかに血の跡が残っていた。
マクシムは視線を上げたまま何も言わない。ランプの明かりに照らされた彼の横顔は、どこか張りつめていて、先ほどまでの静寂が一瞬で緊張へと変わる。
ソフィーは言葉を選ぶように息を整えた。
「アニータから伝言を受けました。『隊長が、あなたと話したいと』」
マクシムは少しだけ頷くと手元の書簡を胸元に戻し、ようやく口を開いた。
「……あれは、君やジョルジュが撃ったのではないことはわかっています」
「はい」
「ですが、君があの男を助けた。それは君の意志。間違いないですか?」
ソフィーは静かに目を伏せた。少しして、確かな声で返す。
「はい。私は、自分の意志で彼を治療しました。我儘を受け入れてくださり、ありがとうございます」
夜の空気がまた一段と冷たさを増したように感じられた。
マクシムはその場に立ち上がり、ソフィーに一歩、近づく。
「では──君は、あの男から何を聞いた?」
ソフィーはほんのわずかに唇を噛んだあと、視線を正面に戻した。夜の空気は澄んでいて、ふたりの間の沈黙がはっきりとした輪郭を持って漂っていた。
「彼は……フェルナンドは、言っていました」
声は穏やかだったが、どこか芯のある調子だった。
「『エドガー・ロジャースは復讐のために動いている』と。おそらく大海賊フランソワ……彼が亡くなったことを恨み、海軍を仇として狙っている、と」
マクシムの表情に変化はなかった。海風が少し強まった瞬間、彼の外套の裾が微かに揺れる。
「フェルナンド自身も、その目的に加担していると明言しました。彼の言い方を借りるなら、『喜んで、というほどでもないが、やる意味はある』と」
マクシムは視線を逸らさずにうなずいた。ソフィーは続ける。
「作戦の大半はエドガーの考案だったそうです。ただ……」
そこで一瞬、言葉を探すように間を置く。
「彼の背後には、協力者がいます。フェルナンド自身は『ちょっとしたアドバイザー』と呼んでいましたが、詳細は明かしませんでした。けれど作戦の規模や情報の精度を見る限り、エドガー海賊団の枠を超えた知恵と資金が動いていると思われます」
夜の甲板に波の音が戻ってくる。マクシムは腕を組み、しばらく思案するように視線を海へ向けた。
「……なるほど」
それだけ言って、再びソフィーを見た。その目は厳しさを帯びているが、怒りではなかった。
「君は彼を生かし、有益な情報を引き出しました。軍医としての判断を貫いた上に、戦術的価値も残した。……見事です」
ソフィーは意外そうに目を瞬かせた。マクシムがこの場で褒め言葉を口にすることなど、ほとんどなかったからだ。
「ただ、忘れないでください。君のその選択が次の災禍を招く可能性もあります。……それでもなお、人を救う手を選ぶのですか?」
これは試すような問いだった。あるいは確認とも呼べるだろう。ソフィーは、はっきりと頷いた。
「はい。私は海軍の軍医としてではなく、命を預かる者として判断しました」
彼女の言葉に、マクシムは一瞬だけまぶたを伏せ、夜の気配の中に溶けるような声で言った。
「……いいでしょう。君の信じた道が、我々に何をもたらすのか。見せてもらいます」
そして彼はまた静かにランプを掲げ、胸元の書簡の束に視線を戻していく。ソフィーの足音が甲板の階段を下っていくまで、マクシムはもう一言も発しなかった。やがて彼女の足音が階段に消えかけた、その時だった。
「……隊長」
低く、はっきりとした声がかかる。マクシムは書簡に目を落としたまま言った。
「何ですか」
階段を数歩引き返す気配。ソフィーの姿が、再び灯りの下に現れた。
「もう一つ、お話があります」
マクシムはゆっくりと顔を上げた。その顔には警戒も、期待も浮かんでいない。ただ、無表情の奥に沈む鋭さだけがあった。
「聞きましょう」
ソフィーは一度だけ小さく息を吸い、言葉を選ぶように口を開いた。
「フェルナンドを撃った人物についてです」
マクシムの目がわずかに細められた。ソフィーはその変化を感じながら、確信を持って続ける。
「外套を深く被って顔を隠していました。けれど、あの義手。……私は見覚えがあります。あれは、間違いありません。トルチュ島で共に過ごした、あの五人の一人……マテオです」
名前が出た瞬間、マクシムの眉が僅かに動いた。
「……マテオ」
「はい。私、彼らとはあの島で別れました。ですが、なぜマテオが今、エドガー海賊団の作戦中に紛れ込んでいるのか……理由は分かりません。けれど、フェルナンドを撃ったのは、確かに彼です」
ソフィーの声には迷いがなかった。あの瞬間に見た義手の煌めき、フードの下から覗いた青い目。疑いようのない証拠だった。しばしの沈黙が流れる。マクシムは深く息を吸い、静かに呟いた。
「……五人組の一人が、敵の中にいた」
それは事実の反芻であると同時に、戦略家としての思考の入り口でもあった。
「貴重な情報です、ソフィー。ありがとうございます」
その言葉に、ソフィーは軽く頭を下げた。だが、マクシムの眼差しはそのまま彼女を見つめ続けていた。
「もしその情報が確かであれば……事態は、想像以上に複雑です。マテオはただの裏切り者ではない。何か別の意図がある。彼が誰の側に立っているのか、それを見極めなければならない」
マクシムは短く指先で額を押さえると手にしたままの書簡をもう一度見やり、呟く。
「……奴も、また別の協力者なのか」
その言葉が誰に向けられたのかは、ソフィーにもわからなかった。そして次の瞬間、マクシムは静かに踵を返し、甲板の奥へと姿を消そうとした。まるで風の向きが変わったことを察知する鳥のように。ソフィーの視線がふとマクシムの手元に留まる。
「それ、なんですか?」
マクシムは動きを止めた。右手には、先ほどから手放さずにいる一通の書簡。血に濡れてところどころ滲み、封蝋の跡が無惨に裂けている。返事を躊躇うようにマクシムは書簡を見下ろし、しばし沈黙する。やがて、決意の色をその眼差しに宿すと無言でその中から一枚の紙片を引き抜いた。
「読んでみてください」
ソフィーの手に渡されたその紙には乾いた血が斑点のように付着していた。古びたインクの文字は、英語で綴られている。彼女は黙ってそれに目を落とした。
To Captain Edgar Rogers,
I have doubted. Truly, I have doubted.
I have seen in you something I cannot understand, a shadow I cannot share.
Yet, I remain here.
Though my eyes may waver, my loyalty does not.
I swear my fidelity to you, until the very end.
Even if the wind carries us into the abyss.
― Corvan
エドガー・ロジャース船長へ
私は迷った。確かに、迷ったのです。
あなたの中に、私には理解できないものを見ました。
共有できぬ影があるように思えるのです。
それでも、私はここにいます。
たとえ目が疑おうと、忠誠は揺るがない。
最後まで、あなたに忠誠を誓います。
たとえ風が我らを奈落へと運ぼうとも。
——コルヴァン
ソフィーが書簡を読み終えたのを見て、マクシムはゆっくりと視線を戻した。
「……それは戦闘が終わった直後、僕の執務室で見つけました」
「え?」
「僕の机の上に、まるで最初から置かれていたように何の痕跡もなく」
静かな声に、ソフィーはぞくりと背筋を震わせた。
「誰かが……船の中に?」
「戦いの最中に紛れ込んでいたのか、それとも最初からこちらに入り込んでいた者の仕業か……はっきりしません」
マクシムの口調は冷静だが、そこに確かな警戒と疑念がにじんでいる。
「ただ一つ確かなのは、これが僕宛てではないということです。 誰かがこのタイミングで僕たちに見せたかったもの」
ソフィーは血塗られた手紙を見つめ直した。
「……見せたかった?」
「そうです。狙いが何かはわからりませんが、これは一種の誘導です。見せることで、我々をある方向へと動かそうとしています。情報を渡すだけなら、フェルナンドや他の海賊の荷物にでも紛れさせておけばよかった。でもこれは、わざわざ僕の机の上に置かれた」
「挑発か、警告か」
「あるいは、忠告。いずれにせよ——」
マクシムは深く息を吸い、夜の海に向かって静かに言った。
「今後、この船内でもうかつに誰かを信じることはできません」
彼の言葉に、ソフィーは静かにうなずいた。マクシムの手元のランプがもう一度だけ血痕に光を反射した。
「……あの、隊長」
ソフィーは手元の一枚目から目を離さずに、そっと隣の紙に視線を移した。
「そちらの……二枚目の紙は?」
マクシムは軽く眉を上げ、慎重にもう一枚の紙を見やった。
「これですか? ただの白紙です。ですが、紙質は普通のものとは違います。少しざらつきがあって、うっすらと香草のような香りがします」
彼はそう言いながら、白紙をソフィーの前にそっと広げた。手元のランプの光に照らされても、文字は現れない。ただの上質な白紙にしか見えなかった。
「特殊な紙ではありますが、何も書かれていません」
ソフィーはその紙に目を細め、そして微笑んだ。
「隊長、炙り出しってご存じですか?」
「あぶり……? なんなのでしょうそれ? 僕には分かりません」
マクシムはわずかに困惑を滲ませながらも興味深げに聞き返した。
ソフィーは軽やかにうなずいた。
「以前、東洋の商人に教えてもらいました。秘密の取り引きに使われる、隠し文字の技法なんです」
「隠し文字?」
「はい。レモンや米の汁、あるいは一部の植物から抽出した液を使って紙に文字を書くと、乾いた時には何も見えません。けれど、火にかざしてあぶると文字が現れるんです。熱で成分が酸化して、紙の上に色が浮き出てくる」
「……火で?」
「炙り出しというのはその名の通り、文字を炙り出すんです。手紙を盗まれても、ただの白紙と思わせるための工夫ですね」
マクシムは一瞬だけ息を呑んだ。そして紙を持ち直し、手元のランプに目をやった。
「……危険ではないのですか?」
「ええ。少しずつ、熱の強すぎない部分で炙れば大丈夫。焦がさなければ紙は残ります」
そう言うとソフィーはそっと白紙を受け取り、ランプの明かりの縁、炎に最も近づかず熱だけを浴びる位置にゆっくりと紙をかざした。
しばらく沈黙が流れる。やがて、白紙の中央に淡い茶色の文字がまるで夜の霧の中から立ち上がるように現れはじめた。
「……出た……」
ソフィーが呟き、マクシムはそっと身を乗り出す。紙の表面に淡くはっきりと茶色の文字が浮かび上がった。まるで誰かの静かな声が、火のぬくもりに乗って語りかけてくるようだった。
──この手紙の秘密を解いた方へ。
あなたが今これを読んでいるということは、好奇心と技術、
そして少しばかりの「遊び心」を備えた人物だということでしょう。
まずは、それに敬意を表します。
願わくば、あなたもまた私たちと同じように真実を探す者であらんことを。
私たちは今、エドガー・ロジャースの艦に在ります。
正確には、その配下にあるとでも言えば良いのでしょうか。
ただし、全てが縛られているわけではありません。
私たちのうち、ある者たちは未だ「自由な意思」を持ってこの海を見つめている。
私はここに、ただの報告や忠誠の言葉を記すつもりはありません。
伝えたいのは兆しです。
あなたがこの手紙を手に入れたのならば、お願いがあります。
サン・マロ、カルロータの第二の宿。その名は〈ラ・プティット・トゥル〉。
夜のうちに、そこを訪れてください。
私はそこで、あなたを待っています。話さねばならぬことがあります。
けれどそれは、この炎の前では語れぬこと。
──ニール・セイルハートより
炙り出しの文字がすべて姿を現した時、ソフィーは驚きと緊張が入り混じった表情でランプを置いた。紙面に走った文字を最後までなぞり読み、彼女はぽつりと呟いた。
「ニール……!」
ソフィーの目が輝き、その瞳がマクシムをまっすぐ捉える。
「彼も……彼もエドガー海賊団にいるということは、みんないるのかしら?」
マクシムは軽く眉を上げる。
「みんないる……?」
「隊長、ニールは金髪の彼です。あの五人の海賊のうちの一人。ニールも、マテオも、きっとあの船に……!」
ソフィーの言葉に、マクシムの顔が険しさを増す。だが彼女は続けた。
「それに、この手紙をここに置いていったのは、きっとマテオです。間違いありません。彼がわざわざ隊長の執務室に忍び込み、この白紙の手紙を残していった。それは単なる伝言ではなく、きっと何か大きな意味があるんです」
ソフィーは言葉に勢いを帯びていた。熱を帯びたまま身を乗り出すように言い切る。
「隊長も、彼らの強さを実感しましたでしょう? 我々を圧倒した男達です。そんな彼らが、こんな回りくどい真似をするなんて何か事情があるに決まってます!」
甲板の上に夜風が吹き抜ける。マクシムはしばし無言で夜空を見つめたのち、ゆっくりと息を吐いた。声は静かだが、思案の色は濃い。
「……ダヴィットと共に相談しましょうか。この件は僕と君、そして彼の三人だけで共有します」
彼は視線をソフィーに戻し、明瞭な口調で続ける。
「宿舎に戻り次第、僕の執務室に来てください。時を無駄にせず、動くべき時に動きます」
そう言い残すとマクシムは手にした書簡を懐に収め、踵を返した。ブーツの音が静かな甲板に響き、夜の闇へと消えてゆく。




