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第二章③ ソフィー

 甲板の上では、戦闘の余韻が徐々に鎮まっていた。

 今や海賊たちの姿はなく、瓦礫と血の匂いだけが取り残されている。

 マクシムが周囲を見回しながら、そっとサーベルを収めた。

「……オードラン副隊長、各小隊の被害を確認せよ」

「了解です。が……隊長、制圧しなくてよろしかったのですか?」

 ダヴィットの冷静な声に、マクシムはわずかに首を傾げた。

「援軍が到着したと誤認したのでしょう。彼らは戦力差と持久戦の不利を悟った。追撃せずとも、撤退の方向と編隊の動きは記録に残せます」

「……敵に塩を送りましたな」

「戦においては、追うより見送るほうが勝ちに繋がることもあるのですよ」

 その時だった。

「誰か、新鮮な布を余らせてない!? 緊急を要するの!」

 アニータの鋭い声が、甲板に響いた。血に濡れた軍服を翻し、彼女は医務室から駆け出してくる。即座にダヴィットが駆け寄った。

「アニータ、落ち着け。状況を報告せよ」

「ジョルジュが負傷しました。海賊船での戦闘中に腕を斬られたようです!すぐに処置が必要です。それと……」

 言葉を濁すアニータの表情が、緊張で引きつっている。その後に続いた彼女の報告を受け、マクシムとダヴィットは顔を見合わせ——

「……なんですって?」

「それは……本当か?」

 マクシムは目を細め、くるりと身を翻す。

「ダヴィット、急ぎましょう。詳細は船医室で聞きます」

「了解!」

 二人は足音を響かせ、駆け出していった。戦場の終わりを告げるかのように、遠くで鐘の音が静かに鳴り始めていた。


 船医室の白い灯りの下、ソフィーはわずかに震える指先を押さえつけるようにピンセットを手に取った。

 焦るな。息を整えろ。ここからが勝負だ。そう自分に言い聞かせる。

 そろそろ止血の頃合いだ。止血帯を一時的に緩める。鮮血の下に隠されていた患部が露わになる。彼の腕は皮膚の奥まで深く貫かれ、一部火傷も見受けられる。だが、まだ手遅れではない。

「……っ、くそ……」

 近くで呻いたのはジョルジュだった。彼はまだ別の簡易ベッドの上で自身の腕の応急処置中だ。アニータに巻かれた包帯の上から自ら止血していた。

「なあ、ソフィー……」

 ジョルジュがソフィーの背中にぽつりと呟く。

「……無理はするなよ」

 ソフィーは答えなかった。ただ一度、小さく息を吸い込んでピンセットを傷口へと向けた、その時だった。

 ——バンッ!

 乱暴に、扉が弾けるように開いた。マクシム。ダヴィット。そしてアニータが重い足音とともに駆け込んでくる。室内の空気が一変し、ソフィーの手元がわずかに止まる。

「……ソフィー、待ちなさい」

 マクシムの鋭い声が響いた。彼の双眸が、深い蒼色の光を灯してソフィーに向けられていた。彼の背後で、ダヴィットがすぐさま状況を確認するように目を走らせる。

 そして、目の前には——意識を失ったフェルナンドが血にまみれたまま処置台に横たわっていた。

 ソフィーはピンセットを持った手を止め、ゆっくりと顔を上げて正面からマクシムの視線を受け止めた。

「……隊長」

 声は静かだったが、その芯は揺らいでいなかった。

「一刻も早く治療しなければ、このままでは彼の腕は……失います」

 室内に一瞬の沈黙が落ちた。マクシムの顔が微かに緊張を帯びる。ダヴィットもまた難しい顔でフェルナンドの傷口に目をやった。アニータは無言で器具台の準備に向かっていた。

 誰もがここに敵がいることを理解しながら、誰一人として即断できずにいた。

 だが、その中でただ一人、迷いのない者がいた。ソフィーだった。

「この命は今、私の前にある命です」

 どんなに正体が謎でも、どんな過去があったとしても、命を選んではいけない。そう自分に刻み込んでいた。

「器具を。助手が必要なら呼びます。判断をお願いします、隊長」

 静かだが、確かな圧を持ったソフィーの声。その言葉に応じるように、マクシムの瞳がわずかに細められる。だが、次に口を開いたのはダヴィットだった。

「ソフィー、冷静になれ。こいつは敵だ。おまけに、君自身の安全すら保障されていない相手を!」

「でも、怪我をしています」

 ソフィーの声は平坦だった。だが、その声には確かな熱があった。

「敵かどうかではなく、今は患者です。彼が倒れていたから、私はここにいる。そうでなければ、誰も助けなかったかもしれない」

「それでも、感染症のリスクは無視できない」

「だからこそ、急ぐ必要があります!」

 ダヴィットの言葉を遮って、ソフィーは声を強めた。

「これ以上遅れれば、傷口は壊死します。敗血症を起こすかもしれない。彼を治療すれば、何かがわかるかもしれない。それに、助かる命が彼一人だけじゃ済まない可能性だってある」

 その場にしばしの沈黙が落ちた。ダヴィットが唇を噛み、フェルナンドを見る。

「だが……もはや、切り落とすしかないのだろ」

「できます!」

 ソフィーが叫ぶように言った。

「私なら、腕を切り落とさずに治療できます!」

 静寂。マクシムのまなざしがソフィーを静かに見据える。やがて、彼は微かに息を吐き、顔を逸らした。

「——好きにしなさい」

 その言葉に、ソフィーはわずかに目を見開いた。マクシムはアニータに一つだけ指示を残す。

「治療が終わったら、報告を。……ダヴィット、行きましょう」

「……了解しました」

 ダヴィットは不満げな顔をしていたが、マクシムの背に従って医務室を後にする。重く閉じられた扉の音が、医務室に再び静けさを取り戻させた。

 ソフィーはすぐに器具台に目をやり、ピンセットを手にする。

「アニータ、彼が気を失っている間に終わらせます」

「わかったわ」

 深く息を吸い込む。目の前には、蒼白な顔のフェルナンド。呼吸は弱いが、生きている。

「もう二度と、あんな後悔はしない」

 自分の手で救えなかった命が、何度も夢に出てくる。そんな夜を、今度こそ終わらせる。

「やるなら今しかない。……始めます」

 まずは傷口を洗浄する。ぬるりと流れ出す血と組織液。その下に覗くのは火傷した筋肉と砕けかけた骨。細かい破片があちこちに残っている。ピンセットで一つずつ取り除くたびに、傷口から微かに新たな出血が滲む。

「……弾丸、確認」

 筋肉の奥、肩甲骨の近くに小さな金属片が食い込んでいた。周囲の組織に絡むようにして埋まっている。慎重に、慎重にピンセットで引き出す。金属が引き抜かれると同時に、フェルナンドの指先がわずかにぴくりと動いた。だが、目はまだ覚めない。血を拭いながら、ソフィーは損傷した筋繊維を観察する。腱の断裂部は小さく、角度さえ調整すれば再接合できる見込みがある。

「まだ間に合う。切り落とさなくていい」

 針を手に取り、まず腱と筋肉を縫い合わせる。糸が肉を通るたびに鈍い音が空気を震わせる。フェルナンドの肩がほんの僅かに震える。

「もう少し……」

 縫合を終え、血管の結紮。出血を止め、細かな破損部分を丁寧に処理していく。傷口の縁に、微かな脈動が戻るのを感じた。だが、これで終わらず反対側の肩にも同じような工程を行った。

「……反対側も縫合完了。あとは固定」

 最後に包帯を巻き、肩から腕にかけて丁寧に固定した。

 ソフィーは大きく息を吐き、額の汗を手の甲で拭う。

 手術は、成功だ。フェルナンドの顔はまだ青白かったが、その呼吸は幾分安定してきていた。

「……助かった」

 その一言をそっと呟いた時、ソフィーの声は少しだけ震えていた。

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