10.火の魔法
まだ一番鶏の鳴き声は聞こえていないのに、窓の方が騒がしい。
ドンッ……ドンッ……と何かを打ち付ける異様な音がするが、そんなことすら気に留められない位に眠気が勝る。
フィガロ皇子は布団を頭から被って無視を決め込んでいたが、今度は扉の方からドンドンドンッと忙しない音がした。
「セラ? フィー? まだ寝てる? あなたたちの部屋の窓が大変だからちょっと開けさせてもらうよ」
ラーラの声がしたと思えば、部屋の扉が開いたのがわかった。フィガロ皇子は布団から半分だけ顔を出し、ぼんやりと目を開けてラーラを探そうとしたが、優しい丸顔は探すまでもなく、すぐ目の前に現れた。
「あらあら、二人とも市場が本当に楽しかったんだね。一番鶏はとっくに鳴き終えたけど、バルドが今日はゆっくり休ませてやれって言ってたんだよ。でもほら、あなた達の部屋の窓が大変なことになってるから。だから、起こしてごめんね」
ラーラが指さす方向にフィガロ皇子は目を向ければ、異様な音の正体に一気に目が覚めた。
大慌てで起き上がり、シーツに足を滑らせながら窓を開けに行く。
くちばしに手紙を咥えたシャドウが、窓に体当たりしていたのだ。
「ごめんよ、シャドウっ!!」
シャドウは窓が開くやいなや、滑り込む様に中に入ってくる。そして、手紙をポイッと床に落とすと、ハンガーポールにバサバサと飛び降りた。シャドウの首の向きが正面ではなく横向きになっており、なんだか怒っているようにも見える。
「ひぇ~、これは見事な鷹だねぇ」
「シャドウはセラの鳥。ちゃんと追いかけてきてくれたんだよ」
「まあー、なんて賢い鷹」
フィガロ皇子は床に落ちた手紙を拾い、背中に回して隠した。もちろんラーラは気がついていたが、あえて何も聞かなかった。
「起きたなら朝ごはんを食べに下においで。セラはまだ起きてないみたいだし、ゆっくり寝かせておいたらいいよ」
こんなに騒がしかったのに、カーテンの向こう側からは起きた気配はなく、それどころか寝息まで聞こえていた。
「うん、じゃあ、すぐに下に行く」
ラーラが部屋を出ようとすると、扉のそばに置かれた籠に洗濯物が入っている事に気づく。
「これは持って行って洗っとくわね」
「あ! 汚しちゃったから僕が洗う!」
「ナイトシャツの汚れなんて汗くらいだろ? いいんだよ、気にしなくても」
ラーラが籠を持ち上げようとしたので、フィガロ皇子は駆け寄ってその籠を奪った。
「ううん、洗いたいんだ! お願い」
フィガロ皇子が隠すように籠を持つので、ラーラは見透かすように細めた目で見る。
「怪しい」
フィガロ皇子は昨晩外に行っていたことがバレたらどうしようかと焦り、必死に首を振り続けた。
「怪しくない! 自分で洗いたいだけ!」
フィガロ皇子とラーラのやり取りが騒がしかったので、バルドまで二階に上がって来た。
「おいおい、何を騒いでるんだ」
「フィーが洗濯を自分でするって」
「洗濯を自分で? 別にいい事じゃないか」
バルドはフィガロ皇子が持つ籠を見て、何かに気づいた顔をした。
「ラーラ、洗濯は自分でするって言ってるんだからやらせろ。それより下に来て手伝ってくれないか?」
「ええ?」
バルドはラーラを扉の外まで連れて行くと、そっと耳打ちする。
「あれはナイトシャツだろ? しかも濡れてる部分がある。おそらく下半身のあたりだ」
「ああ! そういうこと」
「色々見られたくない年齢なんだから、お前も無理強いするな」
「本当ね……。フィーの気持ちも考えないで悪かったわ……」
フィガロ皇子には全部聞こえていたが、あえて訂正はしなかった。
「フィー、今日は良いお天気だから布団を干そうと思うの。あなたも干したかったら干しなさいね」
「あ……うん……ありがとう……」
羞恥心をグッと耐え、フィガロ皇子は二人に手を振る。
結局上手くこの部屋まで転移できたのが明け方になってしまったのだ。塩湖で濡れたナイトシャツはすぐに干しておけば良かったが、二人とも部屋に戻った時はクタクタで、着替え終えると洗濯物は籠に投げ入れて眠ってしまった。
「おねしょだと思われたな……まあ、その方がいいか」
フィガロ皇子は籠を床に起き、手に持っていた手紙を開く。もちろんマリエッタからの手紙だ。
「封印の部屋が開いたことがまだ内緒にされているんだな……管理責任者の理事長は封印の部屋についてはどこまで知っていたんだろうか……」
そして最後の追伸まで読み進めると、フィガロ皇子はギョッとしてしまった。
「セラの話は書いたことないのに……さすがマリエッタ」
今は近くに火がないので、フィガロ皇子は机の中に手紙をしまっておいた。
カーテンがシャーッと開く音がして振り返る。
「おはよう、フィー」
寝癖のついたセラフィーナがベッドに座り、気だるそうにあくびをしていた。
「おはよう、セラ。昨日はありがとう。いや、今朝かな」
「フィーはやっぱりアンジェロの子孫ね。筋が良すぎる」
「あんなに失敗したのに?」
「初めての魔法練習で失敗しない人なんていないわ。それより、今何をしまったの?」
「ああ、手紙だよ。今は火がないから」
「あら、丁度いいわ。火の魔法に挑戦してみましょう。転移魔法の次はフィーの使えるエレメントを見極めないといけなかったから」
「え、今? 朝ごはんも食べたいし、バルドさんの手伝いに行かなきゃ」
「攻撃魔法使いの基礎である転移魔法が出来たんだから、そんなに時間はかからないわよ」
セラフィーナは机まで来ると、石盤に術式を走り書きした。文字というよりは記号のような字で、まるで数学式のようなものを短く書く。1+1=2くらいの量だ。
「読める?」
フィガロ皇子には学んだことのない字と式だったが、なぜか読めた。
「うん」
「ほらね。魔法使いとしてちゃんと目覚めてる。普通の人間にはまず読めないわ。さあ、これを頭の中でイメージして」
フィガロ皇子は石盤を睨みながら、頭の中で術式をイメージする。ただこの式を見たまま頭に浮かべるというより、この術式を頭の中で混ぜ合わせて答えに変化させている感じだ。
身体の中の魔力が、混ざり合った術式に注がれていくのがわかった。自然と手の平が前に出ると、小さな炎が現れた。
「出来た……じゃあ、ここに手紙を――」
「待って!」
「え?」
手紙を火に近づけようとした時、セラフィーナに止められた。セラフィーナはフィガロ皇子から手紙を取り上げ、机の上の燭台から蝋燭を取り去ると、蝋を受ける皿の上にマリエッタからの手紙を置いた。
「転移魔法は攻撃魔法使いの基礎魔法。なぜだと思う?」
「うーーーーーーーん……」
「もし敵がいたとしたら、炎を手のひらで出して、あなたが直接敵の近くまで持って行くの? それなら魔法じゃなくて松明でもよくない?」
「そりゃ、手元で炎を出さず、敵に直接炎の魔法を掛ける」
「そうよ。それには敵の位置まで炎を転移させないといけない。転移魔法はもともと攻撃魔法を、狙った座標に飛ばすためのもの。レベルが上がれば、飛ばす動作を失くして直接敵の位置で発動出来る。転移魔法が使えないと、攻撃魔法使いにはなれないの」
「じゃあ、付与魔法はどうやって相手に与えるの?」
「接触よ。ちなみに魔力がある人が魔法の訓練で最初にするのは、転移魔法が発動できるかの確認。出来なければ付与魔法使いということ。付与魔法使いは接触魔法になる。そこから四大エレメントの術式を学ぶのだけど、基本は二種類のエレメント魔法が発動出来る。なぜ二種類かというと、火と水、風と土は相性が悪くて同じ魔力では動かないから。どちらを扱えるかは、その人の持つ魔力がどの要素かによるわ。アンジェロが大魔法使いと呼ばれたのは、彼は全てのエレメントを扱えたのよ」
「じゃあ、僕は火が使えたってことは……」
「火か風の要素を持つ魔法使いね。術式も火と風の魔法を学んでいきましょう。さあ、手紙を燃やして」
フィガロ皇子は手のひらの炎を燭台の皿に向けて放つ。炎はシュッと指定された座標に向かって飛ぶように消えると、再び燭台の皿の上で現れ燃え上がる。マリエッタの手紙は一瞬で消え去り、燃えかすも残らなかった。
「ところで、何て書いてあったの?」
セラフィーナの問いかけに、フィガロ皇子が真っ先に浮かんだのは本文ではなく追伸だった。
“p.s. もしかして恋でもしてるの?”
セラフィーナを見れば、寝ぐせのついた髪型で首を傾げてこちらを見ている。うなじまでもがたまらなく可愛くて、窓から差し込む太陽の光が二割り増して彼女を照らしていた。フィガロ皇子はセラフィーナを見つめながら、緩んだ顔でうんうん頷いていた。
「何? 何で頷いてるの?」
セラフィーナの目が途端に細く鋭く冷たくなった。
「いや、たいしたことは……」
「ふーん、ならいいけど、手紙ってその人の心の状態が現れるから、お友達が困ってたり、もしくは何か怪しいサインを出していたら見逃さないように気をつけなさいよ」
「う、うん、気を付ける」
フィガロ皇子は手紙に書かれていたお茶会が少し引っかかったが、マリエッタなら大丈夫だろうと深く気に留めなかった。