表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

さんざかの君へ

作者: makase

 どうにでもなれと、地面を蹴り飛ばすように歩いていた。まるで地球に対する八つ当たりだ。そのくせ、人一倍のろのろと歩くものだから、自分よりもひと回りもふた回りもハイセンスな人達に、颯爽と追い抜かされていった。追い抜いて行った人々は、こちらを振り返ることなどない。むしろ視野に入れてもいないだろう。自分より遥か下に生きる者たちなんて視界にさえ入らないのだ、と態度で示しているようで嫌になる。そして、本当は誰も彼もがそんな嫌味を抱いている訳が無いのに、腹に一物抱えているはずだと決めてかかる自分の心の醜さに吐き気がした。

 鬱々とした心を抱えて歩くには、表参道は眩しすぎる。ハイブランドが軒を連ねた大通りは言わずもがなだ。顔を上げて道行く人たちは、シュッとした建物に挟まれた歩道を歩くことに何の疑問も抱いていない。そんな大通りから逃避するために小道に逸れたとしても、小洒落たカフェや家具屋、食器店等――表参道の街に店を構えることを決めただけのことはある店主が、この街に相応しいと胸を張る小店がが澄まし顔で立ち並んでいる。それでもこの街が極度に嫌味を感じさせないのは、等間隔に植えられた樹木と、坂を上った先にある自然豊かな神社の境内の空気が流れ込んでいる故だろうか。

 ふと、足が止まった。喧騒の中、道のはずれにぽつんと現れたマホガニーの扉。建物は全面ガラス張りだが、木製の温かみのあるブラインドに内側から覆い隠されている。完全遮断していない故に中を覗き見ると、立ち並ぶ鏡と背の低い椅子がうっすらと透けて見えた。内側では数人が忙しなく立ち回り、くるくると動き回っている。

 様子を伺うために顔を上げてしまったことを後悔した。ガラスに映り込んだ自分の姿は、惨めな存在だった。重く圧し掛かるような前髪と、肩に掛かるうねる毛先。まるで自分は、街にぽつんと取り残された遺物のようだった。

 なのに後先考えず、薄くついた錆びさえも美しい、金装飾のアンティーク調のドアノブを押し下げ、えぐるように内側へと押し込んでしまった。


「――こんにちは」


 からん、と小気味いいベルの音が鳴り響いたと同時に挨拶が聞こえ、反射的に頭を下げる。

 木目調の落ち着いたインテリアと、空気の滞りを感じさせない、真っ白なシーリングファン。そんな店内で真っ先に声をかけてきた人物に、鬱屈した気持ちを差し置いて両目を見開いてしまった。なにせ、緑色にヒョウ柄の、膝まで覆い隠すほどの襟付きのシャツに、過度なダメージ加工が施された濃藍色のワイドジーンズ。頭の上は橙色に黄色を混ぜ込んだ奇抜な髪色で、猫毛のようにゆるやかなウェーブのかかったヘアスタイル。ちかちかと眩しい、派手な青年だった。

 例えばみるからに凝ったアングラテイストの内装であったならば、このような美容師が居てもおかしくはないだろう。だが、あからさまに表参道テイストの一等地に相応しいと胸を張る店内で、言ってしまえば不釣り合いで浮いている美容師が接客の場に立っていることが上手く呑み込めず、消化もできずに戸惑うしかない。

 見渡せば他に三人ほど店員がいるが、彼以外は清潔感のあるオフホワイトのシャツと、真っ黒なチノパンというシンプルな出で立ちだ。華美にならない程度の、だがどこか落ち着きの中に各々のセンスを抑え込まないファッションだった。髪色も黒や落ち着いた茶色を選んでいる者ばかりだ。だが、ここで度肝を抜かれて回れ右を選択することは、なにか間違っている気がした。


「予約してないんですが」


 青年は静かな微笑みを浮かべたまま、大丈夫ですよと声をかけ、店内中央の椅子へと誘導してくれた。外見に寄らずと感想を抱くのは失礼極まりないかもしれないが、丁寧な接客と、自分のような異物を拒む態度を一切出さない温和な美容師に、初対面で値踏みしてしまった自分を恥じた。

 椅子に座ると、ぎしり、と心地よい軋みの音が鳴った。大きな鏡に自分の姿がはっきりと映し出される。店外のガラスに映り込んだ自分よりも、さらに鮮明な己の姿。喉を潰されるような感覚に、思わず俯いた。


「本日はどうされますか」


 ここまで来てようやく、自分はなにも考えずにここに飛び込んでしまったことを思い出した。なにか適当に、注文を付けなければ。はく、と目の前の酸素を必死に口にくわえて飲み込んで、その反動で声を吐き出した。


「この後、人と会うんです。だから、最低限人と会うに相応しいくらいにしてください。あとは、おまかせします」

「わかりました」

「なんだったら、ばっさりいっても構いません」

「ばっさりと……ですか」

「はい」

「――かしこまりました」


 青年は付けられた注文に少し迷いを見せた。だが戸惑いを即座に消して柔和な微笑みを浮かばせたのは流石に接客のプロというべきだろう。椅子がくるりと反対側へ回転、洗面台へと移動を促される。

 人に頭を触れられることに、抵抗が浮かんだのはほんの一瞬。きゅっと頭皮を指圧され、程よい温度で頭を濯がれると、あんなに強張っていた全身が、緩んでいくようだった。まるでぱんぱんに空気が詰められていたタイヤが、一つの小さな穴でぷしゅりと中身が抜けていくように。店内には低温が響くゆるやかなジャズミュージック。相まって、なんだかとろとろと指先から蕩けていくようだ。次第に息苦しさは体全体から抜けていった。

 タオルで水分を拭きとられぐらぐらと頭を揺らし、タオルドライが終われば再び席に戻る。前髪が掻き分けられ、顔全体があらわになってしまった。再び目を伏せて、己と視線を合わせるのを拒絶した。


「これからお仕事ですか」

「……はい、そう、ですね」

「でしたら、あまり派手にしないほうが良いですよね」


 ケープに腕を通しながら、そんなもの、と静かに首を横に振って口を開く。


「いえ、服装にとやかく言われる職種じゃないので。なんでもいいんです。普通の会社員ってわけじゃないので」

「そうなんですね。……お客様、沢山の人前に出るようなお仕事だったりしますか?」

「えっ」


 はっと息を飲むほどには、驚かされた。


「どうしてそう思ったんですか」


 服装を気にしない職業、だなんてオフィスワーカーの枠から外れるだけで、あとの選択肢はごまんと存在する。こんな身なりの人間を指して、たくさんの人前に出る仕事――芸能側の人間ですか、と暗に尋ねられるとは思わなかった。


「いえ、なんと言いますか……雰囲気でしょうか。この職業柄と土地柄、そのような職業の方をお相手にするのも少なくないですから」


 美容師に櫛でするすると髪の毛を梳かされると、実は自分のの毛が肩下まで伸びていたことに気づかされた。ドライヤーを手に取った青年は、ふわふわとかき混ぜるような手つきで乾かしていく。

 思いがけず名探偵に遭遇して再び全身に緊張が走ったのに、それも一瞬。丁寧な施術に逆らいたいのに、体中からガラガラと音を立て、鎧を丁寧に脱がされていくようで。


「……お兄さんは、長いんですか。このお店」

「いえ、一年位ですよ」


 ふふふ、と小さく含み笑いを浮かべた美容師は、毛先を指の腹で確認している。


「意外でしたか。僕みたいなのがこんなお店に居て」

「あっ……はい。本音を言うと、びっくりしましたね。派手だなあって」

「そうでしょう。よく言われます」


 馬鹿正直に不釣り合いだと思いましたと、暗に告げてしまった。けれど気分を害した様子ではなかった。そもそもこんなことを言われるのは予想の範疇だったはずで、うまく躱したり受け止める自信が無いのなら、自分から話題を振ったりしないだろう。


「でも、今は全然……お兄さんがこの店にいるの、分かる気がします」

「そうですか? それは嬉しいですね」


 彼と出会ってから十分も経っていない。けれどわかる、彼の性根の良さ。接客の丁寧さと引き際の良さ。確かな技術。全面に押し出す外見の個性が、美容師としての接客のマイナスとして響くことが全く無い。彼は再び質問を投げかけてじゅた。


「お客様は、どうしてばっさりと切られたいのでしょうか。髪型が自由なのであれば、整えるだけでもよいのでは」


 いつの間にかドライアーの電源が切られ、うねりを帯びていた髪の毛は夢だったかのように、さらさらになった髪の毛を、思わず自分で触る。トリートメントで手触りはよくなっても、頭の重みはなんら変わらなかった。虚勢を張っても本質は変わらないってことか。だから、彼の問いに対して自分を嘲笑う息が漏れてしまったのも仕方のないことだ。


「恥ずかしながら、ここ二年くらいほとんど家から出ない生活をしてて。仕事も少しお休みしていて……挫折とか、失敗とか。立ち直れなくて。この業界、休んだら終わりだってのは分かってたんだけど。長くお休みさせてもらって。それで、最近ようやく仕事を再開できる気持ちになって、だから……心機一転」

「心機一転?」

「これだけ伸びきった髪の毛をばっさり切り落としたら、気持ちも新たに仕事に行けるのかなって」

「なるほど」


 青年は大きく、暖かな両手で優しく髪の毛を持ち上げたり、掻き分けたりしていた。鏡に映りこんださえない男を、なんとかしてやろうとイメージを膨らませているのだろう。無理な注文を受けたものだと、内心では困り果てているのかもしれない。それでも何かを思いついたのか、ひとつ納得したような表情を浮かべると、ハサミを指に通した。

 その様子を鏡越しに見守った後、あとは任せるだけだとサイドテーブルに置かれた雑誌を手に取ると、膝に置いて開き、鏡の中の自分から視線を逸らした。どうなってもいいのだ。きっと、彼の接客に比例するくらい、まともな男に仕立ててくれるだろう。彼が持ちうるスキルに身を任せるだけでいい。それだけで、現状に満足できる気がするのだ。



 ちょきちょき、ハサミが紙を切るのとは異なる独特の音。金属が擦り合わさり毛髪を切るときの、鈍くか弱い耳障りのよい音。雑誌を目に通し始めてから、美容師に積極的に話しかけられることはなかった。こちらが雑誌に集中していることを察して、きちんと身を引いてくれたのだ。隣の席では女性美容師と若い女性客が、テンポよく会話を繰り広げているが、穏やかに世間話を広げている程度。特段不快に感じることはなかった。


「お客様」


 どれくらい経っただろうか。声を掛けられ、それまで活字と目の冴えるような紙面いっぱいの写真に落ちていた意識がふっと浮上する。それにしても、さほど時間は経っていないように思う。パーマも、カラーリングもされていない。恐らくは、カットだけ。不満は無い。お任せしたのは自分だし、ばっさりカットしてくれるという約束を守ってくれたのならば、それでいい。

 呼ばれたと同時に反射的に雑誌から顔を上げ、鏡の中に居たのは。


「いかがですか」


 思わず目を丸くした。そして、見開いた自分の瞳をはっきりと捉えることができた。

 驚くべきことに髪の長さは、ほとんど変わっていない。傷んでいた毛先が多少切りそろえられただけだ。確実に変わったポイントはひとつだけ。カーテンのように瞳を覆い隠していた前髪は短くなり、真ん中分けで額が全面に見えるようになっている。

 それでも、付けた注文に対して出されたメニューはかけ離れている。


「全然、切ってない」

「そうですね……はい。切りませんでした」


 困惑した。彼に意図したことが伝わらなかったとは思わない。あれほど丁寧に接客してくれたのだ。だが美容師はひとつひとつ、言葉を吟味するように口を開いた。


「髪を切ったら、確かに心機一転するかもしれません。頭に余計な重力も掛からなくなって、重かったものが軽くなって、まるで重しが取れたように思うかもしれません。恋愛がうまくいかず、すべてを振り切るために新しい自分に変貌する方のお気持ちもよくわかります。髪型は、人の印象にかなりの部分を占める場所ですから。お客様の新たな一歩になるのであれば、私どもは誠心誠意、髪を切らせて頂きます。しかしながら……」


 美容師はそれから、数秒だけ言葉を考えるように口を結んだ。その様子だけで、彼がいきなり飛び込んだ不審な男性客相手に、手を抜いたわけではないことは容易に理解できた。彼が彼なりに、お客様のオーダーに答えるために何かを見出そうと、ハサミで彩りを探ろうとしてくれたことを。


「少なくとも私には、お客様は過去を切り捨てに行くことが望みのように見えませんでした。ですから、髪の毛をばっさりと切ることが、お客様の選択とちぐはぐになる気が致しました」


 すとん、と彼の言葉が胸に落ちてくるのが分かった。


(そうだ、自分はこれから事務所に行く)


 それは、これまで迷惑をかけたことを謝罪するためだ。且つ、次へ切り替えて仕事をしにいくためなのだ。それは容易な道ではない。過去を引きはがし、無理やり震える両足で立つことが贖罪であり、次の道に繋がると思っていた。それに伴う苦しみも、泣きながら剥ぎ取ることも、自分にとって当然の報いだと呪詛のようにつぶやき続けていた。

 極めて穏やかな彼の言葉が続いた。


「切らなくても、切り捨てなくても、変えられますから」

「……変えられる」

「少なくとも、髪型は変えられます。もしもお気に召さなければ、もちろんお客様の当初のご要望通り、さっぱりできるくらいに後ろ髪も前髪もばっさりと切らせていただきます」


 思わず椅子を回転させた。鏡越しではなくきちんと美容師の彼の顔を見つめた。


「いえ、これで。いや、これがいい。これが俺の求めていた髪型だと思う」


 彼はその返答を聞いて安堵したように破顔した。


「また来ます。また来て、お兄さんのこと指名します」

「……はい。お待ちしています」


 会計を終えたとき、ようやく目の前の彼の顔をしっかり見つめることができた。外見に反して、いや接客態度にぴったりな、優しく目じりを下げた笑い方をする青年だった。

 入店するときは大げさに言ってしまえば異世界に繋がるドアのようだった扉を、今度は彼に開けてもらう。深くお辞儀する青年のつむじを見つめ、そして一歩外へと踏み出した。

 視界が開けても、ほんの少しだけ髪の重みが減っても、外の世界にとっての己の価値は何一つ変わらない。この街に行き来する人々は、自信をもって地を踏み、前進している。その光景はとても眩くて目がくらむ。少なくとも今の自分にとっては、まだ。

 重く暗い、何かが圧し掛かっている自分が嫌だった。両の肩に押し潰されそうなほどの重みを脱いでしまいたかった。過去を遠ざけて、汚点を封じ込めれば、何度でも殻を破り続けられるのだと思っていた。そしてそれが、安寧の地であり、妥当な扱いだと思い込んでいた。


「過去を切り捨てない、か」


 たぶん、大丈夫だ。ひとつ選択肢を与えてもらった。それが正解なのかは分からない、けど、自分が一番大切にしたい選択肢なのかもしれない。

 人ごみの中に飛び込んで、埋もれていく。沢山の人に揉まれ、紛れても、それでも確かに自分の足だけで前へ前へと足を進めていく。

 待ち合わせの時間はもうすぐに迫っていた。

よろしければ評価、ブックマーク等よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ