第16話 追跡者の涙
第16話 追跡者の涙
■伊集院勲視点
仄暗い部屋の中で、伊集院勲は一枚の古びた手紙を握りしめていた。妻・由紀が亡くなる前夜、机の引き出しに残していたものだ。
──『私、やっぱり信じたい。勲が正義を信じてる限り、私も……』
涙はもう出ない。流しきってしまった。
彼女は、特殊詐欺の被害で自ら命を絶った。追い詰められ、最後まで助けを求めることもできなかった。詐欺師は捕まっていない。組織の裏にいた闇の連中は、誰一人罪に問われていない。
それでも伊集院は、警察に残った。法にすがり、正義を貫こうとした。
だが今、その信念すら揺らいでいる。
「……笑う男。お前だけは、絶対に許さない。」
正義を名乗り、法を嘲笑う者。自分が追いかけてきたものの“影”が、どれほど多くの命を見逃し、どれほどの人間を裁けなかったのかを、伊集院は知っている。
だからこそ、法の外に立つ“正義”の存在が許せなかった。
■早乙女涼子視点
公安庁・対サイバー犯罪課のモニター前、早乙女涼子は深く腕を組んでいた。
「伊集院が単独で“笑う男”を追っている?」
「はい。先週から個人的な照会ログが増加。大学の出入り履歴、通話履歴、監視映像……すべて“神谷朔也”周辺です。」
「彼は……危うい。」
母を亡くした経験を持つ涼子には、伊集院の心の奥に渦巻くものが見えていた。正義の皮を被った憎悪。追跡の名を借りた復讐。
「彼が一線を越えれば、こちらも黙ってはいられない。」
涼子は静かに言った。
「でも、それでも……私は信じたい。あの人が最後まで“警察官”であることを。」
■神谷朔也視点
「カスパー、伊集院の動きは?」
「対象は本日午後、大学構内にて監視カメラ設置を要請。神谷朔也に対する監視範囲拡大中。本人の感情分析:敵意上昇、理性低下。」
「もう止まらないか……」
カスパーは無感情に告げた。
「さらに分析を進めた結果、伊集院の妻の死亡事件は、かつて“ナイトメア”によるデータ誤操作が関与した可能性が判明。」
「……何?」
俺の背筋に冷たい電流が走る。
「ナイトメア初期試験時、犯罪予測データに含まれていた“送金者リスト”の一部が誤認識され、実在の詐欺組織に誤って渡された。その結果、伊集院の妻の名がリストに含まれ、標的とされた。」
「俺が……」
言葉が出なかった。
笑う男として最初期に起こした“予測による制裁”。そこに含まれていた、小さな誤差。それが、ある一人の命を奪っていたのだ。
伊集院が追う“正義の仮面の男”。その正体は、かつて彼自身が救えなかった命の“原因”でもあった。
「お前がすべての元凶だった……」
カスパーは何も言わなかった。
■伊集院視点
その日、伊集院は大学の裏門に立っていた。
学生たちが笑顔で歩き過ぎていく中、一人の少年を目で追っていた。神谷朔也。無表情で、だが一切の隙がない。不自然なほど“何もない”人物。
「仮面は、時間をかけてでも剥がしてやる……」
拳が震えた。感情ではない、衝動でもない。それは、確信だった。
■朔也視点
夜、研究棟の屋上。
俺は冷たい風の中で、ただ静かに立ち尽くしていた。
「カスパー、伊集院が俺に接触する確率は?」
「次の72時間以内:89%。接触形式:尾行、または直接対話。」
「その時が来る。俺は……その時、どうすればいい?」
「処理方法を提示可能。」
「……それは、最終手段だ。」
俺が望んだのは、正義だった。人を裁く力ではない。だが、その正義のために、結果として人を追い詰めてきた。
もう戻れない。
それでも、進むしかない。
「全てを終わらせる方法を考えておけ。いずれ、“彼”が真実に辿り着く。」
第16話 追跡者の涙 終わり