泡となって、海の底でいつまでも
静帆町という田舎ではこんな噂がある。夜海に行くと人魚が泳いでいるというものだ。
そんな噂が三年前から広がっている。今でも小学生達が探しにいこうとする位にはこの町で有名な噂だ。
だがそんな人魚の正体を自分は知っている。噂の人魚の正体、それは今目の前にいる女の子のことだ。
「あ、心晴、おっは~」
「朝じゃなくて今夕方だから」
体を海にゆらゆらと浮かせており、長い金髪を波に靡かせ、そして特徴的な碧眼。幻中 海月こそ、三年前から噂されている人魚の正体だった。
砂浜から海に浮いている海月を呆れた目で見るのは黒髪を肩まで伸ばしている女の子、南実 心晴だった。
「あはは、ごめんごめん。学校お疲れ」
「はい、いつも通りプリント」
スクールバックをガサゴソと漁り、ファイルから何枚かのプリントを海月の側に置く。
「私達もう中学三年で受験シーズンなのにいつまで不登校のつもり? 毎回住んでる所が近いからってプリント届けに行ってる私の気持ちも考えてくれない?」
「ごめんごめんって」
(プリント届けに行く役、私でよかった)
未だに海から返事を返す海月を横目に、心晴はその場に座り込む。そして俯きながら、
「海月は……その、知ってる?」
「一日中海にいるけどちゃんと家に帰ってるからね? 知ってるよ――後二日で、隕石が地球に衝突することでしょ?」
「……うん」
巨大隕石が地球に近づいている。そんなニュースが数週間前から報道されていた。だけどそんなニュースはどうせ回避するかなんとかなるだろうと、最初こそ騒がれていたが数日も立てばその話題は薄れていった。
だけど昨日、あるニュースが報道された。巨大隕石が地球に衝突する確率が九十パーセント以上だと。上の人達が尽力するも、今地球に向かっている巨大隕石は進路も変えずこのまま二日後には地球に衝突し高確率で人類は滅亡するというニュースが前日報道された。だから今日の学校の話題はそれで持ちきりだった。泣きわめく者、慌てている者、最後の日何すると話している者、様々だった。
さっき海月に言った言葉は一生叶うことがないものだ。二日後には自分達は死ぬ。受験なんて、することがないものだ。
「驚いちゃうよね~。二日後には地球が滅亡して、私達が死ぬなんて」
「海月は怖くないの」
「……怖くないかな。だって私には失うものがないもん」
「……私、帰るね」
そう言って心晴は立ち上がり、その場を去った。
心晴は悲しかった。海月が『失うものがない』と言ったとき、自分はその中に含まれていないことに。
海月が学校に行かず四六時中海に入る理由があった。
海月は見ての通り金髪碧眼。到底日本人じゃありえない見た目をしている。海月はイギリス人の母親と日本人の父親の間に生まれたハーフだ。海月の母親は同じく金髪碧眼で、海月はその要素を受け継いだ見た目だ。だけどそこまで受け継ぐのはかなり珍しいらしい。
こんな田舎だと金髪で瞳は碧なんて、格好の餌食だ。
静帆町は田舎故に小学校も中学校も一つずつしかない。小学生の頃、海月と心晴はお互い同じ小学校で同じクラスだった。
心晴はよく見ていた。金髪碧眼だからって同じクラスの男子女子からいじめを受けているのを。その頃の二人は同じクラスってだけでお互いに話すこともなかった。心晴もそのいじめを遠目で見ているだけで助けることをしなかった。
中学校に上がってからだ。海月と関わるようになったのは。中学校では海月はすぐさま不登校になった。中学校は小学校のメンバーがそのまま持ち上がり式で入学する。中学校に上がったとして、いじめはなくならないことを海月は悟っていたのだろう。
ある日心晴は担任の先生から呼び出しを受けた。内容を聞くと、海月にプリントを届けてほしいというものだ。二人は実は住んでいる場所が近かった。それ故だろう。
学校が終わった夕方、先生から細かい住所を聞き届けに向かった。だが家に着きインターホンを押しても誰も出なかった。これじゃあ帰れないと唸っていると、海月の家の奥からある小道に続いているのが見えた。
奥の家の塀が壊れており、そっと敷地に入り覗くと人一人通れる小道がそこにはあった。海月の家は海が近いため、この小道は進むと海岸に出るのではと考えた。
その時の心晴はさっさとプリントを渡して早く帰りたいという気持ちが強く、迷いなくその小道に入っていった。
下に降りる下り道を通り、目の前に広がったのは想像通り海だった。あまり広くない砂浜だが、道はあの小道しかないため家の人達しかこの海岸に行けない。良いように考えると、この海岸は家の人達しか使えないプライベートビーチという風に考えることも出来るのだ。
その時だった。心晴は見つけた、海を泳ぐ海月の姿を。
泳ぐ姿はまるで人魚のように綺麗で、しなやかだった。海から顔を出した海月の煌めく金髪が弧を描くように空中に雫と共に舞った。
その一連の流れが、心晴の目を奪うには容易いものだった。その時からだった。海で泳ぐ姿、服が濡れてうっすらと見える白い肌、水が体に張りついたまま砂浜を歩く姿、どれをとっても心晴には全て目が離せないものとなった。段々と気付いていった。この気持ち、いつも会うたびに胸が高鳴るこの現象を。心晴は海月に恋をしたと。
「今日も綺麗だったなぁ……」
家に帰った心晴は自分の部屋の机に突っ伏しながら呟く。この恋心をあの日から今の今まで悟られないように、勘づかれないように抑えてきた。
初めてプリントを届けに行った日、二人はようやく言葉を交わした。今まで見てきたのはいじめを受けて、やめて、返してと叫んでいる海月の姿しか見たことがなかったから知らなかった。
――彼女は、こんな風に明るく喋るんだなと気付いたんだ。
二年前から噂されている夜に出るとされている人魚。その正体に気付いたのも、海月と関わるようになったからだ。一度聞いたことがある。夜に海で泳いだことがあるのかと。
「あー、確かあったかも。急になんだか泳ぎたくなってね。夜だし誰もいないと思って、少し町の方まで泳いだんだよね」
と言っていた。恐らくその時にたまたま歩いていた通行人に見つかったのだろう。暗い海で泳いでいたのが功を成したのか、二年経った今でも人魚の正体が海月だということは心晴しか知らない。海月への恋心に気付いてから、人魚の正体を知ってる自分になんだが嬉しく感じた。
夜の支度を終えた心晴はベッドに潜り込む。
(寝て明日になればあと一日、か……)
そう思いながら心晴は目を閉じ、眠りの世界へ誘われる。
朝になり学校に向かう。あと一日で地球が滅亡するというのに、通学路にある商店街やいつも見かけるおばあさん。いつも通りの日常を過ごそうとしていた。学校がいつも通りやっているのも、地球に存在する全人類は一日後には死ぬ、ということが分かっているから避難しても無駄だということだろうか。
こんな時でも、考えてしまうのは海月のことだけだ。会いに行っているというが、それは一週間に一回の頻度で、沢山会っているという訳でもないのだ。
海月は海が好きだ。一日の大半をあの海岸で過ごしている。
海月には、両親がいないらしい。昔母親に捨てられ、父親はほぼ家に帰ってこないと、そう本人が言っていた。だから海月は毎日、あの海岸で、いつも泳いでいる。
泳ぎは綺麗で、ずっと見ていたくなる程なのに、海月の表情はまるですっぽりと抜け落ちたかのように無心になることがある。その表情でさえ、心晴にとって自分しか見られない特権だと思い、心の中で惚れ惚れしていた。
今日の学校はなんだが捗らなかった。明日には世界で滅亡するからだろうか。何をしても明日には何も残らない。それはクラス全員同じで、上の空だった。
家に帰るとなんだか騒がしかった。家族より大勢の人がいるかのような騒々しさだ。心晴の家は父、母、弟、自分の四人家族だ。
恐る恐るリビングに入ってみると、知っている顔ぶれが揃っていた。
「お、心晴ちゃんおかえり!」
「おじさん? なんで家に……?」
リビングには祖母に祖父、それに親戚が揃っていた。心晴から一番近かった親戚のおじさんが心晴を出迎える。キッチンから顔だけ出した母親が、
「実は隕石の予想が少し外れたらしくてね。地球に衝突するのは明日って言われてたけど、隕石の速度が急速に早まって落ちてくるのは深夜らしいの」
「え、そう、なの?」
「うん、ニュースでそう報道されてた。だから皆で集まって、パーっとパーティして、最後は家族親戚全員で一緒にいようってなってね」
自身に雷が落ちたと錯覚する程の衝撃を受けた。
隕石が衝突するのは深夜。自分達が死ぬのは一日もない。そう考えるとやっぱり気になってしまうのは海月のことで。それしか考えられなかった。
「ほらほら、心晴ちゃんも座って」
「あ、ありがとう」
祖母に手招きをされ、心晴もテーブルの側に座る。
そこからは、まあ楽しかったのかもしれない。
皆で沢山のご飯を食べて、色々な思い出話をして、懐かしいからって昔の自分と弟のビデオやアルバムを見たりと。全員笑っていた。数時間後には、自分達全員死ぬなんて嘘みたいに。
時間が立ち、現在の時間はもうすぐ十二時を回る。
弟は眠気が限界になり、父親の側で眠っている。心晴は家族や親戚の酒の晩酌に一緒に付き合うことになり、ジュースを飲みながら、大人達の会話を聞いたりしていた。もう起きている人はあんまりいない。皆酒が回って気持ちよく眠っている。だけどもう少ししたら皆起こすと母親が言っていた。終わるときは全員一緒に、だそうだ。
「お母さん、ちょっとトイレ行ってくる」
そう言ってリビングから出て、自分の部屋に向かった。自室の窓を覗く。そこにはとても綺麗な一等星が見えた。周りにある星より一際大きく、もう少ししたら手が届く程に。
「……なんて、そんな幻想的なものじゃないよね」
あの一等星こそが今地球に向かっている隕石だろう。月より断然大きく、本当に地球に向かっているんだと理解する。
「……戻らないと」
そう呟いたとき、自分の心との矛盾を感じた。
家族親戚全員と過ごした時間は、楽しかった。笑えてたし、笑顔は途切れなかった。だけど、違う。
「……早く戻らないと、最後は、家族全員で」
違う。モヤモヤする。何か引っかかっている。
「全員で、最後を終えるんだ」
違う。違う。違う。違う――違う
その時、心晴は気付いた。自分の本当の気持ちを。海月のことが好き。ただそれだけ? いや、そうじゃない。
「――私、やっぱり……!」
気付いたときには家から飛び出していた。お母さんが気付いたら、心配するだろうな。もしかしたら、全員で自分のことを探してくれるだろうな。
(ごめん。私、死ぬその瞬間まで、一緒にいたい人がいるから――)
走り続けて、ようやく来れた。塀の小道を通って、下に続く下り道を歩けば、心晴の目に広がる景色は、月が映し出された青い海。そこに心晴が求めていた人物がいた。
その人はいつもは海で泳いでいるのに、今はただ砂浜に座って、遠くを見つめているだけだった。その人は背後にいる心晴にすぐ気付いた。
「……お、心晴、おっは~」
「……だから、今は朝じゃなくて夜だって、言ってるでしょ?」
心晴の声は弱々しかった。最後に海月に会えたからだろうか。
「海月」
「なぁに、心晴」
最後だから、隠していた気持ちを伝えようと思ったのに、いざその時になると上手く言葉が出ない。海月に対して感じていたものを全部、伝えようと思ったのに。だけど海月は急かすわけでもなく、ただただその碧眼で見つめていた。
会話がないまま時間が立った。すると、海月は砂浜から立ち上がった。そしてそのまま心晴の側に来た海月は、
「心晴――ごめん」
そう言って、心晴に顔を近づけた。
「え――」
いきなり海月の顔が近付いてきて、咄嗟に目を瞑ってしまった。だけどその瞬間、唇に何かが触れた。暖かくて、柔らかい。それだけの情報があれば、自分に何をされたかなんて簡単に分かる。
「い、今……」
顔が熱い、そんな気がした。今すぐ平静に戻りたい。こんな情けない表情を見せれば自分の気持ちがばれる。だったら自分から全て伝えて、ちゃんと振られたい。
「――あはは、奪っちゃった」
「海月……?」
はにかみながら頬を同じく染めている海月は、本当に幸せそうに、微笑んでいた。そして、心晴を引き寄せ自分の懐から離さないように手を心晴の後ろに回した。
抱きしめられてる。あの海月に抱きしめられてる。好きな人のハグこそ嬉しいものだ。だけどいきなりの行動により、嬉しさこそあれど戸惑いもあった。
「ごめんね。最後に心晴に会えて、なんだか抑えられなくて」
「海月……」
「本当に嬉しかったんだよ。このまま海と一緒に私はいなくなるって思ってたのに。そんな時に心晴が来てくれて……抑えられる訳ないよ」
後ろに回された腕に力が籠る。力強くて、絶対に離さないかのように、力が弱まることがなかった。
「……心晴――好き、好きだよ」
「――!」
「好き、好き、大好き、ずっと大好きだった」
愛の言葉の連続に心晴は戸惑う。せっかく冷めたと思った顔も、またさっきみたいに熱くなってくる。
「本当、に……?」
「本当だよ。もう世界が終わるっていうのにこんな冗談言わないよ」
涙が滲む。三年間の片想いが両想いに変わって、自分達は最初から同じ気持ちだったんだって分かって、嬉しさが止まらなかった。
・・・・・・
二人は砂浜に座って海を眺めていた。だけど砂浜に座る二人の距離は近く、互いに体を預けていた。それだけで二人の中の関係性が変わったといえる。
「海月は、いつから私のことが好きだったの?」
「うーんと、心晴と関わるようになってからかな。心晴、私のこと好きでしょ?」
「そ、それは、そうだけど……!」
「プリント届けに来るたびにその想いが滲み出てたんだよね。それで心晴の気持ちに気付いて、段々と私も、って感じかな」
ニヤリと表情を変化させながら伝える海月は、まるでいたずらっ子みたいな子供に見えた。
海月が言うには最初から心晴の気持ちに気付いていたらしい。心晴はなんとか隠せていると思っていたようだが、実際に海月から見たらバレバレで、海月の言動も相まって『ツンデレ』だなと思っていたらしい。
そんな心晴を見ていく内に、なんだかその恋心を知っている優越感に浸るようになったらしい。自分をそういう風に愛してくれる人がいなかったから。
そして段々と心晴が海月を想う気持ちに感化されたのか、海月も心晴を想うようになり、恋だと気付いたという。
「そうなんだ……じゃあ最初からバレバレだったんだぁ……」
恥ずかしさで熱くなる顔を自身の腕で覆い見えないようにする。海月にとって、心晴のこういう所が可愛いと思っていた。
だけど、そんな甘い気持ちに浸っている暇はなかった。状況は変わらない。二人は今世界が滅亡する瞬間に立ち会わせているのだ。
二人は空を見上げる。さっきより近くなった一等星はもうすぐこの地球にぶつかることを意味していた。
心晴は今この瞬間がとても惜しかった。この時間がずっと続けばいいのに、と。もうすぐ世界が終わるなんて信じられないと、そう感じていた。
「もう終わっちゃうね」
頬杖をつきながら、海月は呟いた。
「失うものなんてないって、言ったけどさ。本当はあったんだ。――心晴ともう一生会えなくなるって考えたら、ずーっと辛かった」
「でももう、時間なんだよね」
一等星はもうすぐそこまで来ている。空一面が一等星で覆われている。地球とぶつかるまで、もう僅かしか時間が残っていなかった。
「……私も、海月と離れたくないよ。今の時間が続けばいい。ずっと永遠に」
「そうだね。じゃあ――今この瞬間を永遠にしよう」
そう呟いた海月に二度見する。海月の顔は真剣だった。手を強く握り、二人は立ち上がる。そして、海へと向かっていった。
砂浜を歩き、海に入り、もう波は腰辺りまできている。海月がしようとしていること、気付けない程馬鹿ではなかった。そして、波がお腹辺りまできたとき、
「重いかもしれないけど、一緒に死のう? 二人で一緒に死んで、この想いと時間を永遠にするの」
心晴は震えていた。海の気温の低さからではない。今、目の前に死がそこにある。二人で死ぬというのは、心晴も反対する気はない。隕石が落ちてきて爆風で海月と離されて死ぬかもしれない。そんなだったら、今この場で、二人だけで、一緒に死にたい。
「……大丈夫。絶対離さない。絶対に離れない。――だから」
そう言って、海月は心晴を押し倒し、二人は海へ沈んだ。暗い海の中、息が出来ない、苦しい。もうすぐ死がそこまできている。それを感じて、本能的に頭は恐怖で包まれる。
そんな時、海月は心晴を抱きしめる。強く、絶対に離さないように、離れないように。
心晴も負けじと腕を海月の背中へと回した。一人じゃない。海月が、愛しい人がすぐ側にいる。それが分かって、息苦しさで目の前がぼーっとしても、なんだか怖くなかった。苦しくなかった。
意識が落ちるその時、耳元で、気泡の音と一緒に海月の声がうっすら聞こえた。
うっすらとだったから、全て聞きとれた訳ではないが、
――ずっと、大好きだよ
そう聞こえた気がした。
二人は海の底へ沈んでいく。お互いに離さないように、離れないように腕を回して、深い深い海の底へ、沈んでいく。